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不動の荷車(全14話)
8.密談
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当時世界有数の発展した街、江戸。されども人口は百万人程度。
現代の東京の人口はと言えば、千四百万人。比ぶべくもない。
発展しているのは江戸城の周囲と点在してる宿場町周辺のみ。
新宿は宿場の一つに過ぎないし、渋谷は農村だ。
そんな江戸の田舎には人の寄り付かない場所は腐るほどある。
人の出入りが絶え、森と見紛うほど鬱蒼と繁る雑木林の中に、朽ち果てた廃寺があった。
壁にも床にも穴が空いたその寺の本堂には、八人の侍たちがいる。
多少の差はあれど、身なりの良さが目立つ。
寺のみすぼらしさが滑稽に思えるほどに。
彼らは、本堂で車座になり、額を突き合わせる。
その行いは、上座、下座を考慮していないことの表明。
つまり上下の身分差を否定しているはずなのだが、発言はそうとは思えない。
「おい! 目的地に一番近い隠し場所に油が無かったぞ! ちゃんと隠してきたのか?!」
「もちろんです! 殿の無念を晴らすべく、藩邸から抜け出てきたのですから手を抜くはずがないではありませんか!」
本堂の最奥に座る体格の良い熊髭男が、入口側に座る月代の剃り跡が青々とした若侍を責め立てる。
熊髭男は文句を言いながら拳を振り下ろし、隙間の目立つ床を叩く。その拳はミシリと鈍い音と共にヒビを生じさせる。
「こやつめ! 書院番組頭(武官の一つ)の儂に向かって何たる言い草!」
「お待ちくだされ。ここにいるのは、みな同志。かつての役職は忘れるお話では?」
熊髭の男の隣に座る優男が、やんわりと窘める。
「ぬう……」
「お前も言い過ぎだ。かつての役職は忘れ去ろうとも、年長者に対する敬意を忘れてはならぬ」
あれほど激高していたというのに、優男が口を挟むと一言も発せなくなる。
さほど、威圧的でもない言葉であるのに、何がこれほどまでに相手を竦ませるのであろうか。
そして、その言葉は若侍にも向けられた。
「は……はい。も……もうし……申し訳ございませぬ」
「我らは殿の汚名を晴らすべく、立ち上がった同志。目的に向かって邁進するのみですぞ。油が無くなったのであれば、善後策を練らねばなりますまい。そして盗人の目的は一体何なのか……」
既に会話の主導権は優男が握っていた。
優男の言葉にゴクリと唾を飲み込む侍たち。
残る七人の侍は迷える子羊のようだ。
優男の一挙手一投足にまで怯える始末。
「ま……まさか、計画が露見してしまったとか?」
「なんだと!」
「いや、そう決めつけるのは早いかと。偶然なのか、計画を嗅ぎつけたのか。しっかり確かめようではありませぬか」
優男の羊飼いは、子羊たちに道を指し示す。
「では、どうするっ!?」
「油は金になりますから、我らの油を奪った輩は、味を占めて次を探そうとするでしょう。無くなった場所を起点にして近くの隠し場所を見張る事にしましょう」
あくまでやんわりと。行動を促す言葉を紡ぐ。
「なるほど! 名案です。のこのこ現れた盗人をとっ捕まえれば良いのですね!」
「いえ、それには及びません。むしろ騒ぎ立てれば計画が露見する恐れがあります。その人物を尾行して、どのような目的で油を探しているのか突き止めるのです」
「良し! 皆の者! 手を抜くなよ! これ以上、油を失えば、江戸の街を火の海にする計画が頓挫しかねん」
焚きつけられた子羊たちは猛き狼のように牙を剝く。
「まだ大丈夫でしょうが、念には念を。失った場所が場所なだけに伝馬町への火の回りが悪くなる恐れがあります。同志諸君、くれぐれも軽率な真似を控えてください。計画はしっかり頭に入っておりますか?」
「任せろ! 第一段階で外周部から火をかけ、中心部となる伝馬町へと火が回るように配した油を撒いて火をつける。伝馬町には牢屋奉行 石出帯刀が住まう牢屋敷。さすれば過去の例に基づき切放が行われるであろう! そして切放された囚人を捕らえて戻らないようにする! これが我らの計画である! 皆の者、ゆめゆめ忘れるなかれ!」
熊髭が熱く語る計画は手段であって、目的ではなかった。
大事な物を思い起こさせるように、優男は狼と化した子羊の群れの頭でも理解できるよう噛んで含めるように説明する。
「良いですか。我々の目的は吉宗の失脚です。その為には、民の不安を煽ること。明暦の大火のように大規模な火災は、吉宗の治世に不安を覚えるはず。犯罪者が逃げだしたとなれば治安は悪化し、さらに不安を煽れるでしょう。そして何人か囚人を取り押さえて、行方が定かで無い犯罪者が街に溶け込んでしまったとなれば、切放制度の失策。三重の失策を重ねれば吉宗とて、ただでは済みますまい」
【切放とは、火事などで牢屋に拘束したままでは囚人の命の危険が迫った際に発令される制度です。切放後、三日以内に北町・南町奉行所(警察権、行政権、裁判権を持つ組織)もしくは本所回向院に戻れば、罪が一等(一段階)を減じられ、戻らなければ遠島(島流し)になるという仕組みでした】
恍惚と話す、その姿は優男の本性を現しているようだった。
人を陥れる事に喜びを覚える様は、己を律する武士にあるまじき姿に他ならない。
吉宗を狙った陰謀は、こうして着々と準備が進められていくのだった。
ひとつ順調でない事を挙げるとするならば、隠した油の一つが見つけ出された事であろうか。
その元凶とも言える日向は、椿屋の五兵衛が想像以上に喜んでもらえた事に気を良くして、次なる油探しを計画しているのであった。
現代の東京の人口はと言えば、千四百万人。比ぶべくもない。
発展しているのは江戸城の周囲と点在してる宿場町周辺のみ。
新宿は宿場の一つに過ぎないし、渋谷は農村だ。
そんな江戸の田舎には人の寄り付かない場所は腐るほどある。
人の出入りが絶え、森と見紛うほど鬱蒼と繁る雑木林の中に、朽ち果てた廃寺があった。
壁にも床にも穴が空いたその寺の本堂には、八人の侍たちがいる。
多少の差はあれど、身なりの良さが目立つ。
寺のみすぼらしさが滑稽に思えるほどに。
彼らは、本堂で車座になり、額を突き合わせる。
その行いは、上座、下座を考慮していないことの表明。
つまり上下の身分差を否定しているはずなのだが、発言はそうとは思えない。
「おい! 目的地に一番近い隠し場所に油が無かったぞ! ちゃんと隠してきたのか?!」
「もちろんです! 殿の無念を晴らすべく、藩邸から抜け出てきたのですから手を抜くはずがないではありませんか!」
本堂の最奥に座る体格の良い熊髭男が、入口側に座る月代の剃り跡が青々とした若侍を責め立てる。
熊髭男は文句を言いながら拳を振り下ろし、隙間の目立つ床を叩く。その拳はミシリと鈍い音と共にヒビを生じさせる。
「こやつめ! 書院番組頭(武官の一つ)の儂に向かって何たる言い草!」
「お待ちくだされ。ここにいるのは、みな同志。かつての役職は忘れるお話では?」
熊髭の男の隣に座る優男が、やんわりと窘める。
「ぬう……」
「お前も言い過ぎだ。かつての役職は忘れ去ろうとも、年長者に対する敬意を忘れてはならぬ」
あれほど激高していたというのに、優男が口を挟むと一言も発せなくなる。
さほど、威圧的でもない言葉であるのに、何がこれほどまでに相手を竦ませるのであろうか。
そして、その言葉は若侍にも向けられた。
「は……はい。も……もうし……申し訳ございませぬ」
「我らは殿の汚名を晴らすべく、立ち上がった同志。目的に向かって邁進するのみですぞ。油が無くなったのであれば、善後策を練らねばなりますまい。そして盗人の目的は一体何なのか……」
既に会話の主導権は優男が握っていた。
優男の言葉にゴクリと唾を飲み込む侍たち。
残る七人の侍は迷える子羊のようだ。
優男の一挙手一投足にまで怯える始末。
「ま……まさか、計画が露見してしまったとか?」
「なんだと!」
「いや、そう決めつけるのは早いかと。偶然なのか、計画を嗅ぎつけたのか。しっかり確かめようではありませぬか」
優男の羊飼いは、子羊たちに道を指し示す。
「では、どうするっ!?」
「油は金になりますから、我らの油を奪った輩は、味を占めて次を探そうとするでしょう。無くなった場所を起点にして近くの隠し場所を見張る事にしましょう」
あくまでやんわりと。行動を促す言葉を紡ぐ。
「なるほど! 名案です。のこのこ現れた盗人をとっ捕まえれば良いのですね!」
「いえ、それには及びません。むしろ騒ぎ立てれば計画が露見する恐れがあります。その人物を尾行して、どのような目的で油を探しているのか突き止めるのです」
「良し! 皆の者! 手を抜くなよ! これ以上、油を失えば、江戸の街を火の海にする計画が頓挫しかねん」
焚きつけられた子羊たちは猛き狼のように牙を剝く。
「まだ大丈夫でしょうが、念には念を。失った場所が場所なだけに伝馬町への火の回りが悪くなる恐れがあります。同志諸君、くれぐれも軽率な真似を控えてください。計画はしっかり頭に入っておりますか?」
「任せろ! 第一段階で外周部から火をかけ、中心部となる伝馬町へと火が回るように配した油を撒いて火をつける。伝馬町には牢屋奉行 石出帯刀が住まう牢屋敷。さすれば過去の例に基づき切放が行われるであろう! そして切放された囚人を捕らえて戻らないようにする! これが我らの計画である! 皆の者、ゆめゆめ忘れるなかれ!」
熊髭が熱く語る計画は手段であって、目的ではなかった。
大事な物を思い起こさせるように、優男は狼と化した子羊の群れの頭でも理解できるよう噛んで含めるように説明する。
「良いですか。我々の目的は吉宗の失脚です。その為には、民の不安を煽ること。明暦の大火のように大規模な火災は、吉宗の治世に不安を覚えるはず。犯罪者が逃げだしたとなれば治安は悪化し、さらに不安を煽れるでしょう。そして何人か囚人を取り押さえて、行方が定かで無い犯罪者が街に溶け込んでしまったとなれば、切放制度の失策。三重の失策を重ねれば吉宗とて、ただでは済みますまい」
【切放とは、火事などで牢屋に拘束したままでは囚人の命の危険が迫った際に発令される制度です。切放後、三日以内に北町・南町奉行所(警察権、行政権、裁判権を持つ組織)もしくは本所回向院に戻れば、罪が一等(一段階)を減じられ、戻らなければ遠島(島流し)になるという仕組みでした】
恍惚と話す、その姿は優男の本性を現しているようだった。
人を陥れる事に喜びを覚える様は、己を律する武士にあるまじき姿に他ならない。
吉宗を狙った陰謀は、こうして着々と準備が進められていくのだった。
ひとつ順調でない事を挙げるとするならば、隠した油の一つが見つけ出された事であろうか。
その元凶とも言える日向は、椿屋の五兵衛が想像以上に喜んでもらえた事に気を良くして、次なる油探しを計画しているのであった。
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