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第一章 再会
3 葉月
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限界だ。日々のクレームは後を絶たないし、スタッフはいつだって適当だった。
気も利かなければ仕込みの仕事1つきちんとしたものはない。お客様に愛される店はまず綺麗だ。そしていつも感謝の気持ちを持っているし、食材の仕込み1つ取っても良い仕事をしている。紫苑は後ろ向きにならないように日々清掃に力を入れた。
「お、元気かいな」
扉が勢い良く開いた。
目の前の和食やさんの旦那さんだった。
「こんにちわ、良い天気ですね」
紫苑は店内のグラスを磨きながらにこやかに答えた。
「今日は涼しいなぁ、紫苑さんとこはお祭りどうしますかい」
「お祭りって箱根のですか?」
水出しのアイスコーヒーを振る舞うと、一口飲んで和食やのご主人はにんまりと笑った。
「断然美味しくなりましたね。カフェや紫苑さんが焼かれるシフォンはもうこの界隈ではトップの域ですわい。それはそうと、話はかわりますが、家の息子、オメガなんですよ」
ピクッと肩が揺れ緊張が走る。それでも紫苑が黙ってグラスを磨いていると、「紫苑さんはアルファだと噂で聞きました」ご主人は気にせず話だした。
「噂、ですか」苦笑いしながらも、そう見えるようにしているのだと、つぐんだ口の中でそう思った。
「番制度にまだご興味ございませんでしたかい」
肩をあげ、軽い肯定を伝えた。
「僕のミッションはあと9ヶ月で売り上げを上げ、黒字にすることです。それにはこのシェフ不在のふざけた状況をまず変えることが必要になります」
「知っていますよ」旦那はしたたかに笑った。
「僕には番に割く時間がありません。そもそも僕にとっては番は恋愛の延長線上にあります」
目を見開き白目がさらに大きくなり、いくどとなくパチクリと動いていた。
「恋愛の延長線上……ですかい。青いですな」
「まだ、26ですから、夢を見たいのですよ」
グラスを磨き終わった紫苑は、汚れている椅子の脚を拭き始めた。
「オメガには子供を産ませ、恋愛は自由にしたら良いですわい」
自分の息子だろうに、舌打ちしたい気分をグッとこらえて清掃に集中し、笑顔のテンプレートを張り付けた。
「シェフ探しが先です。そしてお祭りは出ます」
扉をあけ、お帰りをにこやかに促した。
◇
小田原を愛する飲食店の会『小田愛会』
8月16日強羅にて、【選べるクレープシュゼット】やります。小田愛会のチラシに小さく載せてもらった。
紫苑の考えに考えたスイーツは原点回帰。そもそも紫苑の十八番だ。お祭り用に簡素化するとは言え手間隙かかるスイーツである事は確かだ、だが何よりインスタ映え間違いなしだ!成功すればチャンスだった。
「俺らは行きませんよ」
強引に推し進めた企画はスタッフに拒絶され「1人でやるさ」「どうぞご自由に」鼻で笑われた。――あんなやつら居なくても1人でやってみせる。
だれにも頼ることのできない不安が、足元のぐらつきを隠してしまっていた。
当日は快晴に見舞われ、それでも山の温度は下より幾分涼しく過ごしやすい。走り回ってもそう汗もかかず、新緑の葉っぱが風でそよそよと揺れ、何だか全てが上手くいくような気がした。花火もかなりの尺玉があがってる。地元は3年ぶりの祭にうきうきしていたし盛り上がりは最高潮だった。出店のスタッフの笑い声は次第に大きくなり、紫苑もできうる限りのことをやっていた。
「私3つ――オレンジで」
「はい!ありがとうございます」
「俺はバナナで2つ」
「かしこまりました」
「こっちはリンゴ2とオレンジ1でー」
「少々お待ち下さい」
50食はものの二時間半で終了し、レストランのように1からは作らないものの、紫苑の予想を遥かに越えていた。
列を捌くスタッフはいないし、動画拡散で異様に列は伸びるし、生地から追加で作るスイーツは当然提供スピードは回らない。もはや負け戦だった。人気になれば成る程失敗に終わる。50食、あそこで切らなきゃいけなかった。自分の力を過信した。
――やっちゃいけない典型的負けパターンだ。
「やっぱり無理やりでもスタッフ連れてくるんだった」
目を閉じ口元をぎゅっと結んだ。
紫苑の心臓は息を吸うのも苦しく次第に口から息をのみ込んでいた。
「まだ――?」
「リンゴ1個足らないよ――」
お客様の声が怖い。
「もう、無理だ……」
謝ろう。涙が溢れそうだった。紫苑は生地を混ぜる手を止めた。
「ちょっとー、手ー止めないでよ!動画とってるんだから」
「――ごめんなさ」
紫苑が頭を下げようとフライパンから手を離した。
「諦めんな!」
誰かが紫苑の肩を掴み、手を握った。
暖かなそれは色黒の大きな手だった。178ある自身よりもう少し高い身長に目線を移す。真っ白いTシャツにジーンズがきゅっと上がったお尻を余計にカッコよく見せていた。
紫苑はゆれる眼を懸命に焦点を合わせ、目の前の男を見つめた。
「ほら君、ここは変わるから早くお客様に事情を説明して、整理券をお配りして30分後仕切り直しだ」
――覚えてないのか、人違いか、いや……見間違えるわけはなかった。
「聞いているのか?成功させたいんじゃないのか」
耳元ではっきりと男は言った。
目の奥にきらきらひかる柔らかな眼差しに、紫苑は人の温かさを感じて眼球に水分がたまるのを感じた。
「はい、直ぐに」
覚えていなくても構わないじゃないか。昔からいつだって困ってる人がいたら自然と手を差し伸べていた。あの人は、神無月さんはそういう人だった。
「どうした」
褐色の男は太陽のような笑顔でハイスピードでクレープを焼いていった。
「速い」
「プロだからな、任せろ。君はそっち側が本職なんじゃないのかい」
イケメンが増えて喜ばない観客はいない。人だかりは整理券を配っても閑散とすることは無く応援は力になった。
バナナにリンゴ、オレンジの皮むきと紫苑にもできることはある。そうだ、お客様の笑顔が見たい。
「僕クレープ焼きます。ソースを作ってもらってもいいですか」
祭りは大成功を収めた。
神無月 柊、紫苑の忘れられない大切な人だった。
気も利かなければ仕込みの仕事1つきちんとしたものはない。お客様に愛される店はまず綺麗だ。そしていつも感謝の気持ちを持っているし、食材の仕込み1つ取っても良い仕事をしている。紫苑は後ろ向きにならないように日々清掃に力を入れた。
「お、元気かいな」
扉が勢い良く開いた。
目の前の和食やさんの旦那さんだった。
「こんにちわ、良い天気ですね」
紫苑は店内のグラスを磨きながらにこやかに答えた。
「今日は涼しいなぁ、紫苑さんとこはお祭りどうしますかい」
「お祭りって箱根のですか?」
水出しのアイスコーヒーを振る舞うと、一口飲んで和食やのご主人はにんまりと笑った。
「断然美味しくなりましたね。カフェや紫苑さんが焼かれるシフォンはもうこの界隈ではトップの域ですわい。それはそうと、話はかわりますが、家の息子、オメガなんですよ」
ピクッと肩が揺れ緊張が走る。それでも紫苑が黙ってグラスを磨いていると、「紫苑さんはアルファだと噂で聞きました」ご主人は気にせず話だした。
「噂、ですか」苦笑いしながらも、そう見えるようにしているのだと、つぐんだ口の中でそう思った。
「番制度にまだご興味ございませんでしたかい」
肩をあげ、軽い肯定を伝えた。
「僕のミッションはあと9ヶ月で売り上げを上げ、黒字にすることです。それにはこのシェフ不在のふざけた状況をまず変えることが必要になります」
「知っていますよ」旦那はしたたかに笑った。
「僕には番に割く時間がありません。そもそも僕にとっては番は恋愛の延長線上にあります」
目を見開き白目がさらに大きくなり、いくどとなくパチクリと動いていた。
「恋愛の延長線上……ですかい。青いですな」
「まだ、26ですから、夢を見たいのですよ」
グラスを磨き終わった紫苑は、汚れている椅子の脚を拭き始めた。
「オメガには子供を産ませ、恋愛は自由にしたら良いですわい」
自分の息子だろうに、舌打ちしたい気分をグッとこらえて清掃に集中し、笑顔のテンプレートを張り付けた。
「シェフ探しが先です。そしてお祭りは出ます」
扉をあけ、お帰りをにこやかに促した。
◇
小田原を愛する飲食店の会『小田愛会』
8月16日強羅にて、【選べるクレープシュゼット】やります。小田愛会のチラシに小さく載せてもらった。
紫苑の考えに考えたスイーツは原点回帰。そもそも紫苑の十八番だ。お祭り用に簡素化するとは言え手間隙かかるスイーツである事は確かだ、だが何よりインスタ映え間違いなしだ!成功すればチャンスだった。
「俺らは行きませんよ」
強引に推し進めた企画はスタッフに拒絶され「1人でやるさ」「どうぞご自由に」鼻で笑われた。――あんなやつら居なくても1人でやってみせる。
だれにも頼ることのできない不安が、足元のぐらつきを隠してしまっていた。
当日は快晴に見舞われ、それでも山の温度は下より幾分涼しく過ごしやすい。走り回ってもそう汗もかかず、新緑の葉っぱが風でそよそよと揺れ、何だか全てが上手くいくような気がした。花火もかなりの尺玉があがってる。地元は3年ぶりの祭にうきうきしていたし盛り上がりは最高潮だった。出店のスタッフの笑い声は次第に大きくなり、紫苑もできうる限りのことをやっていた。
「私3つ――オレンジで」
「はい!ありがとうございます」
「俺はバナナで2つ」
「かしこまりました」
「こっちはリンゴ2とオレンジ1でー」
「少々お待ち下さい」
50食はものの二時間半で終了し、レストランのように1からは作らないものの、紫苑の予想を遥かに越えていた。
列を捌くスタッフはいないし、動画拡散で異様に列は伸びるし、生地から追加で作るスイーツは当然提供スピードは回らない。もはや負け戦だった。人気になれば成る程失敗に終わる。50食、あそこで切らなきゃいけなかった。自分の力を過信した。
――やっちゃいけない典型的負けパターンだ。
「やっぱり無理やりでもスタッフ連れてくるんだった」
目を閉じ口元をぎゅっと結んだ。
紫苑の心臓は息を吸うのも苦しく次第に口から息をのみ込んでいた。
「まだ――?」
「リンゴ1個足らないよ――」
お客様の声が怖い。
「もう、無理だ……」
謝ろう。涙が溢れそうだった。紫苑は生地を混ぜる手を止めた。
「ちょっとー、手ー止めないでよ!動画とってるんだから」
「――ごめんなさ」
紫苑が頭を下げようとフライパンから手を離した。
「諦めんな!」
誰かが紫苑の肩を掴み、手を握った。
暖かなそれは色黒の大きな手だった。178ある自身よりもう少し高い身長に目線を移す。真っ白いTシャツにジーンズがきゅっと上がったお尻を余計にカッコよく見せていた。
紫苑はゆれる眼を懸命に焦点を合わせ、目の前の男を見つめた。
「ほら君、ここは変わるから早くお客様に事情を説明して、整理券をお配りして30分後仕切り直しだ」
――覚えてないのか、人違いか、いや……見間違えるわけはなかった。
「聞いているのか?成功させたいんじゃないのか」
耳元ではっきりと男は言った。
目の奥にきらきらひかる柔らかな眼差しに、紫苑は人の温かさを感じて眼球に水分がたまるのを感じた。
「はい、直ぐに」
覚えていなくても構わないじゃないか。昔からいつだって困ってる人がいたら自然と手を差し伸べていた。あの人は、神無月さんはそういう人だった。
「どうした」
褐色の男は太陽のような笑顔でハイスピードでクレープを焼いていった。
「速い」
「プロだからな、任せろ。君はそっち側が本職なんじゃないのかい」
イケメンが増えて喜ばない観客はいない。人だかりは整理券を配っても閑散とすることは無く応援は力になった。
バナナにリンゴ、オレンジの皮むきと紫苑にもできることはある。そうだ、お客様の笑顔が見たい。
「僕クレープ焼きます。ソースを作ってもらってもいいですか」
祭りは大成功を収めた。
神無月 柊、紫苑の忘れられない大切な人だった。
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