αと嘘をついたΩ

赤井ちひろ

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序章 卯月

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「ノーゲストでーす。お疲れさまでしたー」
 夜21時半、若いスタッフが元気よく叫んだ。
「あんなに忙しかったのに、君元気だね。おかげで助かったよ」
 紫苑はバリスタの中からスタッフのドリンクを入れながら、最近入った新人にねぎらいの言葉をかけ、満足げな表情で何やら歌を口ずさんでいた。
「珍しいですね」
 スタッフたちは椅子の背や足を拭きトイレを磨き、閉店作業をしながら、チラッと紫苑を見た。
「んー、そういうわけじゃないけど忙しかった日は寧ろ疲れが飛ぶよね」
 満足げに猫の様に両手を伸ばして、そのままネクタイを外し第三ボタンまで開け放つ。
「その発想、流石アルファですね。どんなオメガもほっとかないですよ。紫苑さんお客様からもモテまくりですから。本命とかいないんですか」
 詮索するように話しかけてくるスタッフを軽くいなしながら、エスプレッソや紅茶などスタッフの好みに合わせ一杯一杯丁寧に落としたドリンクを配って回っていた。
「今はいらないかな」
 やんわりと、それでもはっきりとした拒絶の表情に空気がよどむ。
「今日、幹部会ですよね。当麻マネージャー、もうそろそろかえってきますかね」
 手汗をサロンで拭きながらスタッフの一人が声を掛ける。
「さっきアイツからもう帰ると電話があったからタクシーが捕まればそろそろ着くんじゃないか」
 麻布十番からならこの時間乗ってしまえば10分やそこらだ、キッチンから夜の賄をもってマルコがひょこっと顔を出した。
 甘い匂いが立ち込めスタッフたちのお腹がグーッとなった。
「30分後には飯になるけど、ラスト作業終わるのかよ」
 どうやらデザート付きの賄を用意する当たり、今日は大入りらしく、今月の売り上げも上々だ。シェフのおかげで重かった空気が少しは軽いものに変わり、胸をなでおろした。
 キー、車の止まる音がする。
 何の安堵か誰もがホッとした空気を感じたのは確かだった。
「疲れたわー」
「お疲れ様です。どうでしたか、今日」
 みんなの興味は毎月ある売上報告に対しての褒賞だろう。
「ほら、みんなにだ」
 マネージャーはカバンの中を開けて見せ、白い封筒の束を出した。
「紫苑君、後で話があるんだが」
 淡々とした口調でそう言うと、紫苑はゆっくりと顔を上げマネージャーを見た。その眼にはうっすらと期待が入り混じりわずかだが頬が紅潮して見えた。
「急ぎでしたら、いったんレジ締め保留にいたしますが」
 今年はお台場の新店が完成する。そこのマネージャーは紫苑ではないかとここ何日か話題に上り、紫苑自身も若干の期待がないわけではなかった。
「いや、――飯食った後でいいよ。先に会議の資料を纏めてしまうから」
 人の言葉が紡ぐ色や、人の顔色などからその場の空気や望むものを察知するのが得意な紫苑は、当麻が一瞬だけ浮かべたわずかな険しい表情に深く息を吸い込んでから、ゆっくりと吐いた。
「わかりました」
 当麻も心の機微を察知し、肩をポンと叩くとそのままマネージャー室に消えていった。
 吞気なスタッフたちは、まだお台場の新店に心躍らせ、紫苑は下唇をこすりながら歪んだ笑顔を手で覆った。
   ♢
 コンコン。紫苑は中指の第二関節で扉を叩いた。
「開いてるぞ」
 当麻の声はやはり少しばかり緊張を含んでいるように紫苑には感じられ、どうにも良い話ではないのだと悟らせるには十分だった。
「飲むか」
 当麻はキャビネットからブランデーを出し、グラスを三つ持ってきた。
「三つ……ですか」
 デスクの回転椅子がゆっくりとこちらを向いた。シェフは人差し指でポリポリと頬を搔き何か言おうとする物の結局口を閉ざしてしまった。
 紫苑は何もしていないと思った。咎められることは何も、それでもこの話は決して良いものではないのだと確信した。胃の下を撫でながら、匂い立つ褐色の液体のグラスに手を伸ばした。
「どこですか」
 目線を上げ真っ向から見るその顔は、既に腹をくくっている顔であった。
「お前の忍耐力と本質を重視するその姿勢、感情を抑え一度決めたらやり遂げるであろう信念に白羽の矢が立ったんだ」
「当麻さん、僕は回りくどいのは苦手なんです。マネージャーなら命令形で構いませんよ」
 カランカランと氷の音をさせもう一度言った。
「どこですか」
「紫苑君の出身はどこだったかね」
 紫苑はぎゅっと眼を閉じ、揺れる眼をまた広げ、左遷ですか、と聞いた。
「いや、最後の賭けだ。本社としては地元ならではの繋がりももしかしたら考慮には入っているかもしれないが、一番はやはり君のそのカリスマ性だ。アルファならやってくれるのではないかと言う想いに答えてもらえないだろうか」
 当麻は深々と頭を下げた。
 潰すか存続するか、紫苑に与えられた期間は一年だった。
「こんな美味しいお酒を頂いて、今更嫌とは言えませんよ」
 紫苑はふわりと笑うと、ソファに深く腰掛け目線は遠くを見つめていた。
 たまにドキリとするほどきれいに笑う。二人は唾をのんだ。
 地元には帰るつもりはなかった。小さな町と言えど人口はそれなりに多い立派な市だ。会う可能性は限りなく低い。会いたくて会いたくないその宝物に紫苑は今一度鍵をかけた。
「いつからですか」
「早急に、とのお達しだ」
 褐色の液体を煽ると、喉がヒク突くほど熱くなる。わかりましたと言うなりその場を後にした。
「大丈夫かな、あいつ」
 さっきまで黙っていたマルコは、扉を閉める紫苑の後ろ姿を見ながらグラスに口を付けた。
「アイツどんなに連休でも絶対に地元に帰らなかったからな」
「私たちには何もしてはやれないさ。ただ」
「ただ」マルコは首を傾げて当麻の言葉を繰り返した。
「いや何でもない。信じよう。大丈夫だ、だってあいつはアルファなんだから」
 当麻はスーツについた皺を無心で伸ばしていた。

 ――紫苑は5日後の正午、東京からこだまで40分、小田原の地で大きく息を吸っていた。
 
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