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第四章 紬
11 幸せの瞬間
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「い……や、です」
必死に首を振った。
「読んで」
東條は静かな声で言った。
墓地に響く。
誰もいないこんな朝は、空気が冷たい。
東條の指先が葵の指に絡んで、そこだけ僅かに温度が上がった。
「良い匂いがするだろう」
だらんと垂れた手を、東條が恋人つなぎに力を込める。
「握ってごらん」
甘い香りはそこかしこに咲いている花から漂ってきている。目の前には白い綺麗な墓石が、これまた綺麗に磨かれて、真っ白い花が沢山手向けられていた。
「読める?」
もう、逃げられない。
「…………西園寺……ぎ」
霞んで何も見えない。
「うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
嗚咽が、墓地を包んだ。
片手をつかまれたまま僕は地面に膝をついた。
――消えてしまいたい。
好きだったから、僕の事なんか忘れられても、大和さんが幸せだったなら、大切な人が笑ってくれるなら……そう思って、僕は三淵葵を捨てたつもりなのに……。
僕がわずかな望みを捨てなかったから、僕の我儘だ。
しゃくりあげる葵は何度も空唾を呑み、その度にヒリツク喉が悲鳴を上げた。
読めない。
もう顔を上げることすら出来ない。
最悪だ……。
好きな人を騙していた。
そんな簡単なことすら、気が付いていなかった。
愛しているよと大和さんは何度も言ってくれたのに。
それは決して僕に向けた言葉では無かったけれど、僕はそれに僕もですと答えていた。
間違っていたんだ。
こんなに愛してくれる人を騙した。騙されていい気はしなかっただろうに。
「ごめんなさい……」
そしてそれは今この時、バレていたのだと、目の前の墓碑銘が僕に訴える。
「続きは?」
止まらない涙が靴にぽたぽたと垂れていく。俯いたままもう何も言えない僕は放り投げられるより先に手を放そうとゆっくりと開いた。
「え?」
何が起きているんだろう。
僕は今誰に抱きしめられているのだろう。
「怖くないから。……約束しただろう。何があっても守ってあげるって」
「ヤマト……」
「あそこには誰が眠っている?」
「西園寺……紬君。――ごめんなさい、――ごめんなさい」
泣き叫ぶ声は天を裂くように空を覆う。
そんな僕をさらに強い力が抱きしめた。
「もう謝らないで。俺の方こそ、君を傷つけたのだろう。君の名前は?」
「三淵、葵、です」
「三渕君、僕は君を何と呼んでいた?」
「あおい……です」
ヒクヒクと息が苦しい。
「葵、か。綺麗な名前だ。花の名前は君にぴったりだ。なぁ葵は俺を何と呼んでいた?」
「大和さん」
何が起きているのか、三淵にはにわかには信じがたかった。
「怒って……いないんですか」
「怒る?」
小さく力なく頷いた。
「びっくりはしているよ。どうしてこんな事になってしまったのかさえ、自分自身分かっていないんだからな」
「騙していました……」
決して緩まぬ両の手が、これほどに続けばいいと思ったことは無い。
「それは違うだろう」
「違、いません」
嗚咽は鳴り止まなかった。
「俺達は、恋人、というやつだったんじゃないのか」
「それは……」
「葵、俺は君を紬の代わりにしていたのか? それこそ申し訳ないのだよ」
苦悩の顔が、大和の表情に見て取れた。
「ちが、ちが、ちがい、ます。そんな事されて、ません」
「本当か? 気を使っているんじゃないのか」
「本当です。僕が勝手に、紬君になりました。それでも……」
尺りあげる喉からは、それでもゆっくりと言葉が出てきた。
「自分の我儘だったんです。紬君になってでも、僕はあなたの側に居たかったから……」
必死の葵が東條には天使に見えた。
「忘れて、ごめん。辛かっただろう」
「大和さん! 大和さん!」
「こんな奴でも葵はまだ、俺を愛してくれるのか?」
夢かと思った。
夢を見ているのかと、起きたら全部無かった事になっていやしないかと、答えを簡単に口に出来ない。
「葵……、もう許してはくれないか」
「許すも何も、大和さん、大和さん……」
「なら、もう一度、俺と恋をしてはくれまいか」
静かな時が二人を包む。
見つめ合う目と目はもうひと時も離れなかった。
「うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
葵の魂の叫びは、絶望のそれではなく、歓喜のそれだった。
「もう一度、名前……呼んでもらえるんですね」
「ああ、葵。これから一つづつお前の事を教えてくれるかい」
生暖かい風が、頬を掠める。
こんな幸せな暖かい風を、僕は知らない。
――神様。感謝します。
必死に首を振った。
「読んで」
東條は静かな声で言った。
墓地に響く。
誰もいないこんな朝は、空気が冷たい。
東條の指先が葵の指に絡んで、そこだけ僅かに温度が上がった。
「良い匂いがするだろう」
だらんと垂れた手を、東條が恋人つなぎに力を込める。
「握ってごらん」
甘い香りはそこかしこに咲いている花から漂ってきている。目の前には白い綺麗な墓石が、これまた綺麗に磨かれて、真っ白い花が沢山手向けられていた。
「読める?」
もう、逃げられない。
「…………西園寺……ぎ」
霞んで何も見えない。
「うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
嗚咽が、墓地を包んだ。
片手をつかまれたまま僕は地面に膝をついた。
――消えてしまいたい。
好きだったから、僕の事なんか忘れられても、大和さんが幸せだったなら、大切な人が笑ってくれるなら……そう思って、僕は三淵葵を捨てたつもりなのに……。
僕がわずかな望みを捨てなかったから、僕の我儘だ。
しゃくりあげる葵は何度も空唾を呑み、その度にヒリツク喉が悲鳴を上げた。
読めない。
もう顔を上げることすら出来ない。
最悪だ……。
好きな人を騙していた。
そんな簡単なことすら、気が付いていなかった。
愛しているよと大和さんは何度も言ってくれたのに。
それは決して僕に向けた言葉では無かったけれど、僕はそれに僕もですと答えていた。
間違っていたんだ。
こんなに愛してくれる人を騙した。騙されていい気はしなかっただろうに。
「ごめんなさい……」
そしてそれは今この時、バレていたのだと、目の前の墓碑銘が僕に訴える。
「続きは?」
止まらない涙が靴にぽたぽたと垂れていく。俯いたままもう何も言えない僕は放り投げられるより先に手を放そうとゆっくりと開いた。
「え?」
何が起きているんだろう。
僕は今誰に抱きしめられているのだろう。
「怖くないから。……約束しただろう。何があっても守ってあげるって」
「ヤマト……」
「あそこには誰が眠っている?」
「西園寺……紬君。――ごめんなさい、――ごめんなさい」
泣き叫ぶ声は天を裂くように空を覆う。
そんな僕をさらに強い力が抱きしめた。
「もう謝らないで。俺の方こそ、君を傷つけたのだろう。君の名前は?」
「三淵、葵、です」
「三渕君、僕は君を何と呼んでいた?」
「あおい……です」
ヒクヒクと息が苦しい。
「葵、か。綺麗な名前だ。花の名前は君にぴったりだ。なぁ葵は俺を何と呼んでいた?」
「大和さん」
何が起きているのか、三淵にはにわかには信じがたかった。
「怒って……いないんですか」
「怒る?」
小さく力なく頷いた。
「びっくりはしているよ。どうしてこんな事になってしまったのかさえ、自分自身分かっていないんだからな」
「騙していました……」
決して緩まぬ両の手が、これほどに続けばいいと思ったことは無い。
「それは違うだろう」
「違、いません」
嗚咽は鳴り止まなかった。
「俺達は、恋人、というやつだったんじゃないのか」
「それは……」
「葵、俺は君を紬の代わりにしていたのか? それこそ申し訳ないのだよ」
苦悩の顔が、大和の表情に見て取れた。
「ちが、ちが、ちがい、ます。そんな事されて、ません」
「本当か? 気を使っているんじゃないのか」
「本当です。僕が勝手に、紬君になりました。それでも……」
尺りあげる喉からは、それでもゆっくりと言葉が出てきた。
「自分の我儘だったんです。紬君になってでも、僕はあなたの側に居たかったから……」
必死の葵が東條には天使に見えた。
「忘れて、ごめん。辛かっただろう」
「大和さん! 大和さん!」
「こんな奴でも葵はまだ、俺を愛してくれるのか?」
夢かと思った。
夢を見ているのかと、起きたら全部無かった事になっていやしないかと、答えを簡単に口に出来ない。
「葵……、もう許してはくれないか」
「許すも何も、大和さん、大和さん……」
「なら、もう一度、俺と恋をしてはくれまいか」
静かな時が二人を包む。
見つめ合う目と目はもうひと時も離れなかった。
「うゎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
葵の魂の叫びは、絶望のそれではなく、歓喜のそれだった。
「もう一度、名前……呼んでもらえるんですね」
「ああ、葵。これから一つづつお前の事を教えてくれるかい」
生暖かい風が、頬を掠める。
こんな幸せな暖かい風を、僕は知らない。
――神様。感謝します。
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