約束の還る海

天満悠月

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第七章

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 いずれその時がやってくることは、互いに分かっていた。

 想いを共有するほどに進行していく変異。分かっている。だが、初めから壊れているかれに、たとえ淡やかであれ湧き上がり続ける欲求を止められるはずがない。

 或いは、こちらがかれを突き放すことができればよかったのやもしれない。

 かれは拘束された。元来我々に自由意志など存在しないものであるはずだから、その扱いが非道であるかどうかの議論など、起こしてみようとしたところで土台無謀なのだ。

 実験と銘打った拷問。最終的に頭蓋より取り出された脳髄は分解され、基本型との相違点を調べられた。扁桃体の肥大、及びそれに関連するであろう大脳辺縁系の奇形が認められた。

 かれの脳は、サンプルとして保存液に浸され、研究所の奥深くに、かれ以前に発見された変異体の脳らとともに格納された。

 試験運用に足るデータが集まったとし、研究所は全個体に対する一斉調査を行った。

 結果、五十六名が要観察対象として登記された。無論、当人らに通知されることはなかった。

 そして、司令外行動の目立つ十三の個体が、研究所に連行されていった。そうして、二度とそこから出てくることはなかった。

 もし、もう一つの人類の中に生まれ変われたときには、もっと多くの想いを知りたい。願わくば、あなたと共に。

 脳髄以外の部位が破棄される直前に、かれはそう言った。

 果たして、なにが違ったというのか。かれが持ち生まれたものを、この身も持ち生まれたというのに。

 個の意識は、どこにある。あの溶液の中で、あなたは生きているのか。

 生まれ変わりを期待できるほど、新生人類のような幻想主義に没入しきることはできない。

 私は、あなたと共に消えたかった。


     *


 十日も病室に閉じこもっていれば考え事が捗って、楽しくもない思い出に浸ってうんざりとしてくる。医者は毎日様子を見に来て会話はするが、話すことが増えるわけでもない。行動制限があれば安心ではあるが、あれ以降記憶が抜けることもなかったし、むしろ狭い場所ですることもなく過ごしているせいで、気が滅入ってしまった。

 リオンが訪ねてきてから、俺は自分の体の主導権を握る感覚を掴まえられるようになった。起きてる時間の半分は俺でいられた。もう半分は、俺じゃないような気がした。

 とりあえず三週は病院にいてみたが、やっぱり閉じこもってるのは性に合わねえと思ったので、退院したいって医者に伝えた。そうしたら構わないって言うので、俺はその日のうちに荷物をまとめて、翌朝にはさっさと外に出た。

 外の空気ってのは、やっぱりいいと思う。窓を開けりゃあ空気の入れ替えくらいできたが、いかんせん柵があるから、どうもすっきりしきらない。部屋からは海が見えたが、いつも出歩く通りから聴く潮騒は病室からよりよっぽど近い。迎えに出てきたマリアと他愛もないことを言い合いながら歩いた。途中、マリアは市場に寄っていくっていうんで、別れて一人で家に帰った。

 三週ぶりに帰宅した俺は、リオンとアンドレーアに出迎えられた。親父は部屋に籠もって何かやってるらしい。リオンは相変わらず、大して愛想良くもなく、戻ってきた俺に声を掛けてきた。アンドレーアも控えめな挨拶をしてきたが、えらく気を遣われている感じがした。こいつはディランの家に泊まっているらしいが、昼間はこっちに来たりもしてるようだ。

 食堂の掃除をしていた二人は、俺が適当に座ってぼんやりしてる間、互いに『あれはやったか』とか『そっちを頼む』とか言い合ってる。俺がいない間にまあまあ仲よくなったようだ。その様子を見て、俺はなんだかもやついた。いいじゃねえか、歳も近いんだし、真面目者同士なら気も合うだろ。だってのに、どうにも気に食わない。嫉妬してるんだろうなってのは、自分でも分かる。どっちに? どっちもか? 分からねえ。食堂の掃除なら俺の方が慣れてるし、入院なんかしなけりゃ俺が教えてやったのに。そうしたら、今頃俺はこんな隅っこの方で突っ伏してなんかいねえで、非力なこいつら――アンドレーアはどうだか知らねえけど、俺よりは体力覚束ないほうじゃねえかと思うんだよな――の分の力仕事だってやってたんだろう。俺だけ除け者みてえだ。そう思うんなら今からでも混ざっていけばいいじゃねえか。俺はそういうの、苦手じゃねえだろ。……そのはずなのに、できない。

「すみません、台を拭かせてもらいたいので」
「……ああ」

 アンドレーアに言われて、俺はテーブルから顔を上げた。庶民の服を着たこいつを見ると、本当に俺と兄弟なんだと思い知らされる心地がする。それでも馴染んでる口調は違うし、きっと雰囲気だって相当違う。こいつの方が髪の毛艶もよけりゃあ肌だって白いし、仕草やら歩き方にだって品がある。リオンと並んでると、俺なんかよりよっぽど釣り合いが取れてる気がする。こいつら二人の方が、仲良くなれるんじゃねえか? 俺なんかいなくていい。

「具合はどうですか?」
「……いくらかマシかな」

 たぶん本気で俺を心配して訊いてきたんだろうってのは分かる。こいつがクソ真面目でクソお人好しな性格だってことは、大して関わったこともねえのに、なんでだか確信めいた印象として、初めっから俺に刻み込まれてるような気がした。

 全く、おかしな感覚だ。俺はこいつのことなんか、なにも知らねえはずなのに。なあ、お前だってそうだよな? なんて心中で問いかけて、またこいつを分かった気になっている自分に辟易とする。

「……お前、次の調査のとき、行くんだよな」
「ええ、そのように許可を頂きましたから」
「足場悪いから気をつけろよ。虫とかヒルとか、かなりいるし」
「ヒルですか……」

 気づくとくっついてるんだよな、あいつら。こいつ、ヒルとか実物で見たことあるんだろうか。ミミズくらいならあるかな。どっちにしろ、ああいう原始的な形状の生き物ってのに愛らしさとかを覚える質ではなさそうだ。俺もそうだ。でっかいヒルが脚にへばりついてたときは泣いたっけ。ありゃガキの頃だったが、今でもたぶん騒いじまう。

「なあ、リオンはどうする?」
「……なにが?」
「次、一緒に来るか?」

 訊いてみたら、リオンは箒の柄に顎を乗せて、少し考える様子を見せた。

「……僕は体力ないし、行ったら迷惑になるよ」
「迷惑とか、そういうのはいい。お前がキツくなけりゃ、一回行ってみてもいいんじゃねえかと思ってさ。動くのしんどかったら、野営所で休んでりゃいい。まあ、そうすると暇かもしれねえけど……。どっちにしろヒルには気をつけたほうがいい。あいつらどこにでも湧くから」
「……ヒルはべつに、平気だけど」

 意外すぎた。ゾッとした顔してるのが俺の隣にもう一人いる。

「向こうだと、瀉血とかに使うから。医者が飼ってたりするよ」

 ああ……、そういえばそんな話も聞いたことあったっけな。腫れ物とかに集らせるんだとか。想像しただけでゾッとするが、まあ、理に適ってるところはあるのかもしれない。

「邪魔でもいいなら、行こうかな。綺麗な場所だって聞いたし」
「外から見てる分にはいい景観だよ。一旦中に入ったら雑草雑木、泥岩小石が邪魔でしょうがねえ。まあ、手つかずの島だからな」

 俺が愚痴ったら、アンドレーアがさも興味深げな感じで言う。

「不思議ですよね。離島とは言え、船での往来は十分にできるのに、人が住んでいた形跡がずっとないなんて」
「テーテスの灰が積もりやすいってのはあるだろうがな。それだけじゃねえだろうよ。ああ、そうだ。『墓守の盾』ってのがあるんだった。あれ、お前が近づいても反応すんのかな」
「墓守の盾?」

 あれ? 俺、なんでこんな話始めちまったんだ? 嫌だ。誰かこの口塞いでくれ、言いたくないこと言っちまう。

「青い光線を出すんだよ。それに当たると、じわじわと体を焼かれていく呪いに掛かる」

 なんで俺は笑ってんだ? 『面白えだろ?』みてえな顔してるのが自分でも分かる。なんにも面白くねえ。気色悪い。頭いかれちまってる。

「私も……、ということは、他にも誰か反応した人がいるんですか?」

 ああ、もうやめてくれ。

「俺。それで昔、仲間一人殺しちまった」

 アンドレーアが息を詰めた。その後ろの方から来る、リオンの不審げな視線。消えたい。殺してほしい。

「はは……」

 俺の口から乾いた笑いが出てきた。自分がどんな感情で笑ってんのか分からねえ。かと思ったら、今度は涙が出てくる。

「なんでこんな事言っちまったんだろ。やっぱ、おかしくなっちまってんな」

 こいつは情緒がどうかしてる。ボロボロ涙こぼしながら、口はへらへらしてるんだ。『こいつ』なんて他人かよ。俺だろうがって何度自分に言い聞かせても、そう思えない。

「レナート」

 リオンが近づいてくる。よせよ、こっちに来るな。今の俺はとんでもなくみっともない。こんな無様さを見せたくねえ。
 滲んだ目を見られたくない。俺は顔を背けようとした。なのに、リオンが両手で頭掴んでくるから、できなかった。

「君が抱えてるもの、話していくらかでも軽くなるのなら、いつでもいい。寄越して」
「……は?」

 リオンはそれだけ言って手を離した。それで、何事もなかったように掃除を再開する。

 おい、なんだよそりゃ。話してえよ。ぶちまけてえよ。なんで俺だったんだとか、すっかりおかしくなっちまって、もう前みたいには戻れないのが悔しいとか、こんなことならこれからも嘘の記憶で生きていきたかったとか、言いてえさ。俺はなんでだか知らねえけど、誰よりもお前にぶちまけたい。でも、お前にだけは言いたくねえ。こんな、みっともない、情けない、無様で弱くて狂った俺を見せたくねえ。だって、もし言って、お前に嫌われたら、俺は――、

「……死んじまう」

 さっきから狼狽えているアンドレーアを放って、俺は席を立った。部屋に戻ろう。一人にならなきゃだめだ。心配した感じで俺の背を視線で追ってくるアンドレーアに、俺はまだ涙を止めやがらねえ目を向けて、適当に笑って見せておいた。

「やっぱ、まだ本調子じゃねえわ」

 どう見たっておかしい。たぶん、俺がアンドレーアの方にいて、アンドレーアがこんな具合で笑ってたら、俺は『相当参ってるんだな』って思うだろう。けど、自分のよく分からねえ感情に抵抗して、とにかく笑顔をつくって見せて、そうして俺は食堂を出て階段を駆け上った。

 一人になったと感じた途端、笑顔なんて消えて、食いしばった歯の間から呻き声が漏れた。自室に飛び込んで、鍵を閉めて、ベッドまで辿り着けずに膝をついた。声をあげたら、流石にあいつらに聞こえると思って喉を必死に締めたけど、抑えきることができない。犬の唸るような音を出して、理不尽に叱られたガキがしゃくりあげるみたいに泣く。無様だ。

「なあ、ピトゥレー……。……なんで俺を殺してくれなかったんだよ……」

 俺が生き延びたのは奇跡だって、人は言う。けど、本当にそうか? 海神は、俺の命なんていらなかった。ただそれだけのことじゃねえか。
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