約束の還る海

天満悠月

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第六章

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 刃物は当然、鋭利なものとか、紐になりそうなものとか、とにかく自分を殺す道具になりそうなものは徹底して取り上げられて、部屋の扉は外から鍵が掛けられた。不自由なもんだ。それを求めて来たわけだが、いざとなると不満を感じる。暇潰しにできることなんて、本を読むくらいのものだ。ペンを取り上げられてるから書き物はできない。窓は内開きで、外側がちょっと洒落た柵で覆ってある。洒落てたって柵であることには違いないから、なんだか囚人にでもなったような気分だ。実際のところ囚人にはなったことねえから、想像だけど。

 とにかく暇だった。時々見舞いに人は来るけど、帰っちまえば一人だし、自分の世界に入っていくには都合が良すぎる環境だ。

 溶けた顔を思い浮かべて過ごしている。月光なんて淡いもんで、暗かった。あんなもの、実際には大して見えていなかったんじゃないかと思う。なのに、なぜかはっきりと思い出せる。見たくなかったのに、見えないはずだったのに、見えてしまった。あれは殆ど俺の想像だったのかもしれない。だがいずれにせよ、昔はそれを思い出す度に動揺して騒いでいた。あのときの俺には、あの光景は現実だった。それが今は窓枠に肘ついて、海なんか眺めながら、なんとなく思い浮かべる。『前に見た恐怖物の文学作品の挿絵にでもあったかな』なんて具合で。『ありゃあ、ちょっと印象強かったな』なんて。医者も言ってたが、まるで他人事だ。実際にこの身を痛めつけられながら聞いた唸り声も覚えている。半分は空想だったにしろ、実際にあいつが溶けていく様だって見たってのに。それとも、十年経てばこんなものなのだろうか。体の感覚は忘れたんだろうか、なんて興味半分で探って後悔した。一瞬蘇った不快感に鳥肌が立つ。

 ああ、なんか嫌だな。やっぱり自分事なんだ。もちろん、そんなことは端から知ってる。なんだって……。チクショウ、本当に余計なことをした。体の感覚なんて思い出すなよ。ありゃあ痛かった――やめろって、全身裂かれるかと思った――やめろ、内臓突き破って、口から出てくるんじゃないかって――。

「やめろって言ってんだろ馬鹿野郎!」

 いかれてる。自分で自分の顔面殴っちまった。口の中に鉄を齧ったみたいな味が広がってく。

「……レナート……?」
「は、なに?」

――なんだ? いつの間に来てたんだ……?

「あ……、えっと……、リオン……? 久しぶり、……だな?」

 どの辺りから見ていたんだろう。嫌だな、一人で叫んで顔殴ってるところなんざ。なんか、こいつには……、知られたくない。今の俺の状態も、過去のことも、色々と。

「口、切れてるけど。大丈夫?」
「ん、ああ……、平気。大したことねえ」
「少し、いてもいい?」
「おう、いいぜ」

 ソファーにリオンは座った。俺の方に寄せるのに移動させようと思ったみたいだが、この病室のは固定されてるから動かせねえんだ。

「そういや、お前手術したって聞いたけど。具合は?」
「ああ、いいよ」

 相変わらず、素っ気ない口調だな。けど別に嫌な気にはならない。こいつはこういうやつなんだろうから。

 なんだか、自分の気持ちが落ち着いて、世界が近くなるような感じがした。暫くぶりに帰ってこれたような。

「明後日には退院できる。そうしたら、マリアさんの店の手伝いさせてもらおうかなって」
「そりゃいいや。でも、あんまり無理はするなよ」
「分かってる。それより、君がここにいるって聞いたから、どうしたのかと思って」

 気に掛けてくれたのか。気分がいい。知られたくないだとか思ってるくせに。

「昔のこと思い出したんだよ。想像してたより、ずっとキツかった。……から、ちょっとな。気が滅入っちまったんだ」
「そうなんだ」

 やっぱり素っ気ない返事だ。同情してるのかどうかも分からねえ。けど、そのくらいが俺には丁度いい。気を遣われてるのが分かると、居心地が悪くなるから。

 こいつとの間に生まれる沈黙は苦じゃない。なんなら、ずっと浸っていたっていいような気さえする。頭の中に居座る嫌なものが、――たぶんリオンがいなくなれば戻ってくるんだろうが――消える。

「……前に、君が言ってくれたんだけど、覚えてるかな。僕について、話したくなったら言え、って」

 ああ、言ったな、そんなこと。

「今話してもいいかな。具合が悪いなら、後にする」
「……いや、ちゃんと聞くよ。暇でしょうがねえんだ。余計な考え事ばっかしちまう」

 俺はベッドから脚を下ろして、話を聴く姿勢をとった。俺の気持ちの余裕とか、そんなことはどうでもよかった。今話したいってんなら、今聞くさ。それに、俺の意識が、ちゃんと俺の中にあるうちがいい。

 リオンは俺の方じゃなくて、正面の壁を見つめている。人と目を合わせるのが苦手らしいってことには、だいぶ前から気づいてる。べつに俺の目を見て話せなんて言う気はない。どこを見てたっていい。『レナートに話す』って決めた瞬間の思いさえあれば、十分だ。俺はお前にとって、それだけの信用に値する人間だってことだろ?

 リオンの小さい口が、小さく開いて、高くもなく低くもない声が、静かな抑揚でこいつの言葉を紡ぐのを、俺は待って、耳を傾けた。

「……僕は、たぶん生まれつきなんだろうけど、体に男と女の要素がある。でも、どっちも不完全。見ればきっと、誰でも分かる。変な体だって」

 実を言えば、俺はこいつを病院に運んだ後、公立図書館に行ったんだ。生物学とか医学の本を探って、有性生殖動物の多様な奇形の一種に、そういうものがあると知った。人間も例に漏れはしない。先天的な形成異常が出生の時点で明確な場合もあれば、成長期以降に明らかになる場合もある。こいつの場合は、前者ということだろう。俺はこいつの体をまじまじと見たわけじゃない。海から引き上げたとき、濡れた服を脱がせたその瞬間に、こいつの体は無遠慮に探り見ていいものじゃないと思った。だから、最低限のことだけをして、早々に服を着せた。だから、まあ、そこまでは知ってる。こいつもたぶん、俺が知っていることを知っている。それでもきっと、改めて言葉にするのには勇気が必要だったんじゃないかと思う。フォルマではそういう子供が生まれると、すぐに殺される地域もあるということも、調べている中で知った。

「気づいたときには一人だった。捨てられたんだと思う。子供だった僕を拾って、保護してくれたのはズフールの総督だ。『ザヒル』って名前をくれた。男の格好でも、女の格好でも、好きにしていいと言ってくれた。彼は、多くの孤児を邸宅に住まわせて、教育を施して、育てていた。僕と同じように保護された子供がたくさんいたから、僕は男に混ざってみることもあれば、女に混ざってみることもあった。……いや、ただ、その空間にいただけだね。交流の輪の中に入る気にはなれなかった。居心地が悪くて。僕は自分が、彼らとも、彼女らとも違うって知っていたから。誰かから『お前は違う』って言われるのが怖かったのかもしれない。いつも、どこにいても付きまとうんだ、『ここに居ていいんだろうか』って」

 あの国では、基本的に男と女ってのは何かと分けられるらしい。普段の生活――食事なんかもそうらしいが、行っていい場所だとか、その場所にいていい時間帯だとか、そんなことまで細かく決まっていて、不用意に他人同士の男女が遭遇しない仕組みになっている。アウリーで育った俺としちゃ、聞いただけで窮屈だなって思っちまうが、それはそれであの国なりに模索して見つけた風紀の保ち方なんだろうから、どうこう言えるものじゃない。が、そういう仕組みの社会の中で、リオンみたいな――まあ、『ザヒル』だってちゃんと聞けたから、そう呼んでもいいのかもしれないが、俺は引き続き『リオン』と呼びたいから、嫌がられない限りはそうしようと思う――、人間ってのはよっぽど生きづらいだろうって、その環境に身を置いたことなんかなくても想像に易い。俺だって、十二の頃の事件の直後もそういう環境で過ごすことしか許されなかったら、今頃生きちゃいねえだろう。
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