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第三章

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「病院から出てきた理由、聞いてもいい?」

 マリアさんは落ち着いた空気の中、訊ねてきた。今は彼女が保護者代理だ。だが、そうでなくても彼女にならば、話しやすいとも思った。彼女がどこまで知っているのかは分からないけれど。

「手術を受けるように、医者に念を押されて。考える時間が欲しかった」
「体を切られるのが怖い?」
「いや……、……それもあるかもしれない。けれど、僕にとっての問題は、そこじゃない。身体を作り変えられたとき、僕の気持ちも変わってしまうかもしれないと思うと、怖いんです。僕が僕であることを、誰も、何も証明してくれないから。こんな曖昧なもの、変わってしまう。それがいやだ。僕でいたいのに」

 僕は、ぽつぽつと話した。体が変わること、それ自体が怖いわけではない。体の変化に引きずられて、心持ちが変わることが怖いのだ。

「……リオン。『変わりたくない』というその思いは、きっと誰にも譲れないものなんだよね」

 マリアさんは、とても同情的な様子で言った。やっぱり、この人は気づいているらしい。僕の心を僕たらしめるものは、『変わりたくない』という思いで、きっとそれ以外には何もない。『変わりたくない』という思いさえ、変わってしまうかもしれない。

「……でも、その不安な気持ち、私も分かるかも。私って、子供の頃からこうだったから、母に怒られてばかりだった。周りの人は、……きっと母を慰めるためなんだろうけれど、『その子も大人になれば男らしくなるよ』って言って諌めるのね。けれど、私は絶対に変わりたくなかった。たとえどれだけ母に怒られて、他の子供たちに馬鹿にされても。でも、体は望まない形に変わっていってしまう。いつしか自分の声が大嫌いになった。こんな声なら出ないほうが良いと思って、喉の骨を折ったことがあるくらい」

 僕は、果たして自分の体が変化するとき、それを拒絶するために自分の体を自ら傷つけられるだろうか。それだけの思いを、僕は持ちうるのだろうか。仮にそれだけの思いを持てるのなら、手術など受けずに痛みに狂って死ぬことを選ぶのではないだろうか。なら、やはり――。

「僕は半端者だ。あなたのような、強い思いは持っていない」
「私は頑固なの。でも、あなたくらいの年の頃は、まだまだ不安だった。本当の私って、何なんだろう……。私が思う本当の私を証明してくれるものって、何なんだろう。……そんなもの、あるのかなって」

 マリアさんは少し天井を眺めて、黙った。それから、心地の良い、深みのある声で続けた。

「男を演じようとしていたときもあるけれど、女を演じていたときもあるの。舞台女優みたいに、過剰なくらい。そうしないと認めてもらえないと思ったから。でも、今の私はなにも演じていない。これがありのままの私。本当の私を見つけて、受け入れてくれた子がいるから、私は私になれた」

 マリアさんの手が伸びてきて、机の上で握り込んでいた僕の両手を包む。その手は暖かく、優しくて、僕よりも大きかった。落としていた視界を上げてマリアさんの顔を映せば、彼女は言った。

「自分ひとりの思いだけじゃ、不安だった」

 その声は震えて、褐色の瞳は潤んでいた。

 そうだ。この思いを証明する手段がなく、僕一人のものでしかないから、不安になるのだ。男にも女にも属す感覚を持たない僕の心は、何によって形づくられているのか。生まれついての体のせいか? ならばマリアさんのようなひとは存在しないはずだ。この意識の根拠は、どこにあるのだろうか。そもそも、僕はいつからこうなのだろうか。何年も、いくら考えても分からない。ただ一つ、そうして考え込むほどに明確になり強まるのは、『どちらでもありたくない』という思いだった。

 僕とマリアさんは違う。けれど、僕が今抱く迷いや不安によく似たものを、彼女も抱いていたことがあるのだ。

 マリアさんは控えめに鼻を啜った。そして僕の手を離し、長衣の袖で目元を拭った。彼女は大きく息を吐いて、涙を止めようと努力しているようだった。そして、再び続ける。

「こういうこと、勝手に話したら良くないと思うんだけれど。レナートが小さい時、酷いことをしたのは男の人だった。だから――本人は忘れたみたいだけれど、男の人が怖くなっちゃったの。お父さんも近づけなかった。それまでね、私はあの子の面倒を見てた。でも、男の人が怖いのなら、私じゃ駄目かもしれないと思って……。友達の女の子に任せたんだ」

 レナートの名が出て、僕は彼の振る舞いを思い出す。彼は、僕を――少なくとも身体的には――『去勢された男』だと解釈していたみたいだけれど、別段僕を男扱いして接してくることはなかった。マリアさんと長く関わってきたからだろうか。彼の気遣いは自然で、そうと感じさせない。だから、彼といるのは心地よかった。

 彼が男を恐れていた時期があったなんて、僕が知っている姿からは想像ができない。セルジオさんとも、ディランさんとも、他の男の人たちとも、ごく当たり前に接しているように見えたから。

「けれどね、ある日……、もうすっかり夜だった。私はその時、夜のお店で働いていたんだけれど……。そこにね、来たんだ、あの子。一人で。とても怖かったと思う。私、すっごく驚いて。咄嗟にあの子のこと出迎えたら、私のところに駆けてきて、抱きついてきた。だから、私、良いんだって……。あの子にとって、私は怖いものじゃないんだって……」

 幼いレナートにとって、マリアさんは疑いようもなく、最も信頼できるひとだった。それまでの彼女の振る舞いが、在り方が、そうさせた。女性の体を持つ知人よりも、マリアさんのそばにいる方が、レナートは安心できた。傷つき追い詰められたレナートの行動。必死な思いだったのだろうと想像できる。だがその行動は、マリアさんの形にして示して見せることのできない本当の姿を、強く肯定するものだったに違いない。

「だから、もう演じるのはやめようと思ったの。その仕事もやめて、ずっと憧れだった料理屋を始めた。今の私があるのは、あの子のおかげ」

 マリアさんはそう言って、笑った。

「だから、ほんの片隅でいい。気に留めておいてほしいの。『変わっても良い』ってこと。私には変わらないところも、変わったところもある。きっと、誰でもそう。そうやって、変化を積み重ねて、人は生きていくんだと思う」

 彼女は席を立って、食器を厨房の流しの中に入れると、戻ってきて言った。もう泣いてはいなかった。目鼻は赤かったけれど。

「この前直した服、着てみない?」

 突然の提案に、僕は少し戸惑った。彼女の意図が分からなかったから。でも、それも良いかと思って、頷いた。

 二階に上がって、僕が借りていた部屋に入れば、壁の衣掛けに例の長衣が吊られていた。味気ない病院着を脱ぎ、着替えて、部屋の外で待つマリアさんのところに戻った。

 マリアさんは僕を見て、満足そうな顔をした。僕は全身鏡の前に案内されて、自分の姿を映し、眺めた。

「リオンの目の色と似てる布を選んだの。元の形より、この方がいいと思わない?」

 汚れた部分を覆う、晴天の空色。レナートに借りた『メレーの子』に登場する無性の神を描いた挿絵を思い出す。かれらが纏う衣服に、それはよく似ていた。

「……マリアさん、僕は男に見えますか? それとも女に見える?」
「『リオン』という人に見える」

 僕の問いに、迷うような間もなく、マリアさんは答えた。その言葉が、僕はずっと欲しかったのだろう。

「……この服が似合う自分でいたい」

 そうして、生きていきたい。僕の心は決まった。



 病院に戻り、怪我の手当を受けていると、医師が回診の合間を縫ってやってきた。僕は手術を受けることを希望した。

 医師は勝手に病院を抜け出した僕を責めるでもなく、むしろ『急かせ、追い詰めてしまった』と僕に謝ってきたが、そうしてもらえたから、僕は自分を知り、覚悟を定めることができた。だから、そのように伝えた。

 十日後に、僕の体は変わる。もし、それがために僕の心持ちが変化したとしたら、それもまた僕なのだろう。
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