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第三章
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早朝の海辺。昇り始めた太陽を背にして、細長く伸びる自分の影が示す先へ、宛てもなく歩いた。マリアさんのところへ行こうかとも思ったけれど、やめた。なんとなく、あの人ならば匿ってくれるような気もした。しかし、だからこそ余計に迷惑を掛けてしまう。あの人の父親が僕の保護者として登記された以上、この島を出発したセルジオさんの代わりになるのはマリアさんだろう。病院から勝手に抜け出しただけでも、確実に騒ぎになる。その上僕があの人を頼るわけにはいかない。あくまで、僕が勝手に誰に断ることもなく逃げ出したのだから、責めを負うならばそれは僕一人が受けなければならない。
とは言え、履き物もなく、いかにも病院着らしい薄青色の長衣だけを纏ったこの姿で、何処に行けるというのか。本気で逃げられるなんて、もちろん思ってはいない。患者が消えたとなったら病院としては一大事だろうし、官憲にも届けが出るはずだ。上手くいって、今日一日姿をくらませられるかどうか、そんなところだろう。
幼稚な反抗だ。実際のところ、僕が選べる選択肢は多くない。その中に納得できるものがないから、他人に迷惑を掛けるのを分かっていてこんな事をしている。
僕は自分の影を追って辿り着いた砂浜に座り込んだ。白い砂を手に取り、指の合間から滑らせれば、それはまるで細かな水晶片のようにきらめく。
寄せては引く波の打ち際を見つめ、その先の水平線へと視線を移した。まだ明るみきっていない夜と朝の狭間の色をした空に、一瞬の輝きが三度走った。音もなく海上に落ちる光。明朝に雷が起こるのは、この地域特有の現象なのだと、レナートから聞いた。
雷神は本来、ファーリーンで信仰されるべくして生まれた神らしいが、実際にはこのアウリーの端にある島々で厚い信仰を集めてきたようだ。古の人たちは、この朝を告げる雷光に何を見出したのだろうか。
今日は一日、海を眺めて過ごそうか。早朝に音のない雷が見えた日は、快晴になるらしい。その分暑くもなるだろうけれど、椰子の木陰にでも隠れればやり過ごせるのではないだろうか。海風は存外涼しい。
僕は立ち上がって、浜を進んだ。透明な海水が砂をさらう場所に、足を浸す。水はくるぶしまでやってきたかと思えば、遠くに去っていく。白砂が泡立つ水に巻き込まれて舞う。その様子を眺め、海と自分の呼吸を合わせてみた。背中を照らす日光の熱さと、足元へ這って来る海水の冷たさを感じる。この島は海の匂いに包まれているけれど、いざ海の中へ入ってみれば、その香りがより強まることに気づいた。鈍くなって久しかった感覚が、戻ってきている。
僕は運が良かった。ハーワサーは本来、フォルマでもとうに禁止されている薬だ。それでも、実際のところ貧民街などでは不適切な調合でより危険なものと化して出回っているのが実情と聞く。僕の状態に対して他に方法がなかったのだろうけれど、主人は僕のために法を犯し、薬学に詳しく、口の堅い医者を僕に宛てがった。たぶん、ハーワサーを中断してもさほど酷い状況にならないのは、その医者が手を尽くしてくれたからだろう。だが、いずれにせよ、その件が露呈すれば、主人も医者も只では済まなかったはずだ。
僕は、彼らのもとから消えて良かったのだと思う。彼らは人格者で、有能で、僕のために裁かれたり、その地位を失うようなことは、決してあってはならない。
レナートは十二歳のときに事件に巻き込まれたらしいけれど、僕が一室に匿われ外界との関係を殆ど断つことになったのも、その年頃だったと思う。実際、僕は自分の正確な年齢が分からない。主人に拾われたとき、僕は幼かった。今よりもずっと痩せていたらしいから、発育がとても悪かったのかもしれない。その点を鑑みれば、僕は今二十歳くらいだろうし、当時の見た目をそのまま受け取れば、十八くらいだろう。発育不全であったことを十分に考慮したなら、レナートと同じ二十二歳にもなれるかもしれない。
陽光が海を照らし始め、空と連動して青色が広がっていく。遠くで賑わい始めた街の音と、波音を聴きながら、ここに人がやって来ないことを願った。今は一人でいたい。
椰子の立木に近づき、毛羽立った幹を背にしてまた座った。目に映る光景を、美しいと感じられる。どうせなら、この感覚を持ったままで死ぬことはできないだろうか。感動を失って生き永らえるより、世界の美しさを感じながら息絶えたい。けれど、痛みや苦しみに苛まれながら死ぬのも嫌だ。我儘だろうか。けれど、願望なんて大抵は我儘なものではないだろうか。
考え事をしながら風景を眺めて過ごす時間は、僕が感じている以上に早く過ぎ去っていくらしい。随分と高くなった太陽と気温に、もう正午も近いことをさとった。夜になったら病院に戻ろう。その前に見つかって連れ戻されるかもしれないけれど、それならそれで仕方がない。そう自分の中で決めて、後で悔いないよう海から来る風を吸った。
「ザヒル?」
『リオン』に馴染んできた今になって、その名で呼ばれるなんて全く想像していなかった。僕は驚き、振り返ってしまった。無視ができれば良かったと、呼び掛けてきた相手を見てすぐに後悔した。嫌な記憶が蘇る。
「ああ、やっぱりザヒルだ。なんだ、どうしてこんなところにいるんだ?」
さも親密げな口調で話しかけてくるが、こいつに関しては碌な思い出がない。人違いだなんて主張して通用するはずもないだろう。僕は沈黙して、ただ相手を見つめた。
「そう怖い顔するなよ。美人の睨みってのはことさら恐ろしいって、お前は分からんのか? まあ、そうだろうな。お前は自分より美形の人間なんて知らんだろうし。ところで、おい、俺のこと覚えてるよな?」
「……何の用」
僕は低く訊ねた。できる限り。けれど、こいつは僕の声を聞くなり笑い出した。
「冗談だろ? もう十分な歳じゃないか。まだそんな半端な声してるのか、お前。もう意気がって男みたいに振る舞おうとするのはやめたらどうだ? ガキの頃ならいざ知らず、その歳になったらどう頑張ったって通用しねえぞ」
「……質問に答えられないらしいね。なら、はるばる僕を馬鹿にするためにアウリーまで来たのか。余程の暇人?」
「おうおう、随分と強気に口応えするようになったな。生憎、俺は貿易商に弟子入りしたんでね。もう四年も忙しくしてるさ。お前がご主人様に囲われて暇に暮らしてた間もな」
嫌味ったらしい物言いは相変わらず。僕は人に対して、さほど強い感情を持つことがない人間のようだが、こいつばかりは嫌っている。無遠慮に近づいてくる生粋のフォルマ人らしい見た目をした男を、僕は無視しようと試みた。この場から立ち去りたい気持ちと闘う。尻込んだら負けだ。
僕が涼む椰子の木陰に入り込んできて、こいつはさも愉快な世間話でもするみたいに話しだした。
「俺たちはよくクレスの方に行くんだが、この島は初めてだな。〈星の砂〉とか言ったっけ。評判が良いからどんなものかと思って行ってみたら、まあ驚いちまった。女の成り損ないみたいなのが厨房に立ってるじゃねえか」
そう言って嗤う。胸糞が悪い。
「遠目で見たんじゃあ分からねえ奴も多いかもしれんが、俺はすぐ分かったよ。お前を知ってるからな。そうじゃなくても声を聞いたら分かる。男が必死に裏声使ってるってな。俺はすっかり気分が悪くなったんで、すぐ店を出た。ああいう奴が作った料理で食事なんかしたら穢れちまう。そうだろ? なのに、連中ときたら気にせず食ってるんだから、まったく、アウリーってのは変な奴ばっかりだ。慣れろって言われても慣れねえよ」
苦難話をしたいのなら、相手を間違えている。だが、当然分かっていて僕に言っているのだ。
「……少し姿を見ただけで話したこともない人のことを、よくもそんなにこき下ろせるな」
僕の反発に大した効果はない。分かっていても、黙って聞いてやるのは癪だった。
「お前にとっては居心地が良さそうな場所だろうと思ったよ。街の真ん中に女の成り損ないばかり集めた店があるなんて聞いたときはいよいよ反吐が出そうだった。お前も雇ってもらったらどうだ?」
青い海を見つめ耐える僕の頭上に浴びせられる、屈辱的な言葉。他人への侮蔑を込めなければ会話もできない下劣さ。お前は人の成り損ないじゃないのか。噤んだ口の奥で主張したところでなんの訴えにもならない。だが、口から出したところで無意味なことを、僕は嫌というほど知ってしまっている。だから、苛立つ心を押さえつけ、黙っていたのだ。
なのに、続けて浴びせられた嘲笑があまりにも挑発的だったから、僕はいよいよ耐えられなかった
「違った。お前は男の成り損ないだったか。……いや? なんだか判らねえのか。需要がないなら変態の掃き溜めさえ雇っちゃくれねえよな。はは、可哀想に」
とは言え、履き物もなく、いかにも病院着らしい薄青色の長衣だけを纏ったこの姿で、何処に行けるというのか。本気で逃げられるなんて、もちろん思ってはいない。患者が消えたとなったら病院としては一大事だろうし、官憲にも届けが出るはずだ。上手くいって、今日一日姿をくらませられるかどうか、そんなところだろう。
幼稚な反抗だ。実際のところ、僕が選べる選択肢は多くない。その中に納得できるものがないから、他人に迷惑を掛けるのを分かっていてこんな事をしている。
僕は自分の影を追って辿り着いた砂浜に座り込んだ。白い砂を手に取り、指の合間から滑らせれば、それはまるで細かな水晶片のようにきらめく。
寄せては引く波の打ち際を見つめ、その先の水平線へと視線を移した。まだ明るみきっていない夜と朝の狭間の色をした空に、一瞬の輝きが三度走った。音もなく海上に落ちる光。明朝に雷が起こるのは、この地域特有の現象なのだと、レナートから聞いた。
雷神は本来、ファーリーンで信仰されるべくして生まれた神らしいが、実際にはこのアウリーの端にある島々で厚い信仰を集めてきたようだ。古の人たちは、この朝を告げる雷光に何を見出したのだろうか。
今日は一日、海を眺めて過ごそうか。早朝に音のない雷が見えた日は、快晴になるらしい。その分暑くもなるだろうけれど、椰子の木陰にでも隠れればやり過ごせるのではないだろうか。海風は存外涼しい。
僕は立ち上がって、浜を進んだ。透明な海水が砂をさらう場所に、足を浸す。水はくるぶしまでやってきたかと思えば、遠くに去っていく。白砂が泡立つ水に巻き込まれて舞う。その様子を眺め、海と自分の呼吸を合わせてみた。背中を照らす日光の熱さと、足元へ這って来る海水の冷たさを感じる。この島は海の匂いに包まれているけれど、いざ海の中へ入ってみれば、その香りがより強まることに気づいた。鈍くなって久しかった感覚が、戻ってきている。
僕は運が良かった。ハーワサーは本来、フォルマでもとうに禁止されている薬だ。それでも、実際のところ貧民街などでは不適切な調合でより危険なものと化して出回っているのが実情と聞く。僕の状態に対して他に方法がなかったのだろうけれど、主人は僕のために法を犯し、薬学に詳しく、口の堅い医者を僕に宛てがった。たぶん、ハーワサーを中断してもさほど酷い状況にならないのは、その医者が手を尽くしてくれたからだろう。だが、いずれにせよ、その件が露呈すれば、主人も医者も只では済まなかったはずだ。
僕は、彼らのもとから消えて良かったのだと思う。彼らは人格者で、有能で、僕のために裁かれたり、その地位を失うようなことは、決してあってはならない。
レナートは十二歳のときに事件に巻き込まれたらしいけれど、僕が一室に匿われ外界との関係を殆ど断つことになったのも、その年頃だったと思う。実際、僕は自分の正確な年齢が分からない。主人に拾われたとき、僕は幼かった。今よりもずっと痩せていたらしいから、発育がとても悪かったのかもしれない。その点を鑑みれば、僕は今二十歳くらいだろうし、当時の見た目をそのまま受け取れば、十八くらいだろう。発育不全であったことを十分に考慮したなら、レナートと同じ二十二歳にもなれるかもしれない。
陽光が海を照らし始め、空と連動して青色が広がっていく。遠くで賑わい始めた街の音と、波音を聴きながら、ここに人がやって来ないことを願った。今は一人でいたい。
椰子の立木に近づき、毛羽立った幹を背にしてまた座った。目に映る光景を、美しいと感じられる。どうせなら、この感覚を持ったままで死ぬことはできないだろうか。感動を失って生き永らえるより、世界の美しさを感じながら息絶えたい。けれど、痛みや苦しみに苛まれながら死ぬのも嫌だ。我儘だろうか。けれど、願望なんて大抵は我儘なものではないだろうか。
考え事をしながら風景を眺めて過ごす時間は、僕が感じている以上に早く過ぎ去っていくらしい。随分と高くなった太陽と気温に、もう正午も近いことをさとった。夜になったら病院に戻ろう。その前に見つかって連れ戻されるかもしれないけれど、それならそれで仕方がない。そう自分の中で決めて、後で悔いないよう海から来る風を吸った。
「ザヒル?」
『リオン』に馴染んできた今になって、その名で呼ばれるなんて全く想像していなかった。僕は驚き、振り返ってしまった。無視ができれば良かったと、呼び掛けてきた相手を見てすぐに後悔した。嫌な記憶が蘇る。
「ああ、やっぱりザヒルだ。なんだ、どうしてこんなところにいるんだ?」
さも親密げな口調で話しかけてくるが、こいつに関しては碌な思い出がない。人違いだなんて主張して通用するはずもないだろう。僕は沈黙して、ただ相手を見つめた。
「そう怖い顔するなよ。美人の睨みってのはことさら恐ろしいって、お前は分からんのか? まあ、そうだろうな。お前は自分より美形の人間なんて知らんだろうし。ところで、おい、俺のこと覚えてるよな?」
「……何の用」
僕は低く訊ねた。できる限り。けれど、こいつは僕の声を聞くなり笑い出した。
「冗談だろ? もう十分な歳じゃないか。まだそんな半端な声してるのか、お前。もう意気がって男みたいに振る舞おうとするのはやめたらどうだ? ガキの頃ならいざ知らず、その歳になったらどう頑張ったって通用しねえぞ」
「……質問に答えられないらしいね。なら、はるばる僕を馬鹿にするためにアウリーまで来たのか。余程の暇人?」
「おうおう、随分と強気に口応えするようになったな。生憎、俺は貿易商に弟子入りしたんでね。もう四年も忙しくしてるさ。お前がご主人様に囲われて暇に暮らしてた間もな」
嫌味ったらしい物言いは相変わらず。僕は人に対して、さほど強い感情を持つことがない人間のようだが、こいつばかりは嫌っている。無遠慮に近づいてくる生粋のフォルマ人らしい見た目をした男を、僕は無視しようと試みた。この場から立ち去りたい気持ちと闘う。尻込んだら負けだ。
僕が涼む椰子の木陰に入り込んできて、こいつはさも愉快な世間話でもするみたいに話しだした。
「俺たちはよくクレスの方に行くんだが、この島は初めてだな。〈星の砂〉とか言ったっけ。評判が良いからどんなものかと思って行ってみたら、まあ驚いちまった。女の成り損ないみたいなのが厨房に立ってるじゃねえか」
そう言って嗤う。胸糞が悪い。
「遠目で見たんじゃあ分からねえ奴も多いかもしれんが、俺はすぐ分かったよ。お前を知ってるからな。そうじゃなくても声を聞いたら分かる。男が必死に裏声使ってるってな。俺はすっかり気分が悪くなったんで、すぐ店を出た。ああいう奴が作った料理で食事なんかしたら穢れちまう。そうだろ? なのに、連中ときたら気にせず食ってるんだから、まったく、アウリーってのは変な奴ばっかりだ。慣れろって言われても慣れねえよ」
苦難話をしたいのなら、相手を間違えている。だが、当然分かっていて僕に言っているのだ。
「……少し姿を見ただけで話したこともない人のことを、よくもそんなにこき下ろせるな」
僕の反発に大した効果はない。分かっていても、黙って聞いてやるのは癪だった。
「お前にとっては居心地が良さそうな場所だろうと思ったよ。街の真ん中に女の成り損ないばかり集めた店があるなんて聞いたときはいよいよ反吐が出そうだった。お前も雇ってもらったらどうだ?」
青い海を見つめ耐える僕の頭上に浴びせられる、屈辱的な言葉。他人への侮蔑を込めなければ会話もできない下劣さ。お前は人の成り損ないじゃないのか。噤んだ口の奥で主張したところでなんの訴えにもならない。だが、口から出したところで無意味なことを、僕は嫌というほど知ってしまっている。だから、苛立つ心を押さえつけ、黙っていたのだ。
なのに、続けて浴びせられた嘲笑があまりにも挑発的だったから、僕はいよいよ耐えられなかった
「違った。お前は男の成り損ないだったか。……いや? なんだか判らねえのか。需要がないなら変態の掃き溜めさえ雇っちゃくれねえよな。はは、可哀想に」
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