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薔薇の令嬢は静かに生きたい
しおりを挟むどうか、どうか俺の言葉を信じていて。俺が愛しているのは君だけだから。
あなたはそう言ったけれど、あなたのその言葉を信じ続けられるほど、私の心は強くなかった。
◆◆◆◆◆◆◆
ある日の午後のこと。
「きゃあ!」
と、女の子の悲鳴が聞こえた。なんと私の真横から。
私は移動先の教室から自分の教室へと戻っているところだったので、ただただぼんやりと歩いていただけだった。
だから私の真横で何が起きて、何故女の子が悲鳴を上げたのかは分からなかった。
しかし、彼女は私に向けてがばりと頭を下げて言うのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
と。
何が起きたのかも分からなければなぜ謝られたのかも分からない。
ただ、私に向けて謝っているので、私が何か言わなければならないのだろうとは思った。
しかし、私が口を開く前に、彼女は逃げ出すようにその場から去っていったのだ。
……はぁん?
あれは一体なんだったのか、そう思いながら小さくなっていく彼女の背中をしばらく見ていた。
我に返って周囲を見渡してみれば、この現場を目撃していた全員の目が点になっていた。
良かった、何が起きたのか分からなかったのは私だけじゃなかったみたいだ。
と、思っていたのはその日だけ。
なぜならこのよく分からない現象が、その日から頻発するようになったから。
「あ、ごめんなさいっ!」
ある時は焦ったように。
「ご、ごめんなさい……」
ある時は怯えたように。
そうして彼女は決まって逃げるように去っていく。
私は謝られるようなことなんて何もされていないし、逃げられるようなこともしていない。ただただ歩いているだけなのだ。
それなのに彼女は当たり屋のようにやってきては謝って逃げていく。
一体何がしたいのだろうと思っていた。
しかし疑問に思い続けていたのは、私だけだったようだ。
なぜなら、噂が立ち始めたから。
私、クレア・ローラットが、あの子、ジェニー・サリスをいじめている、と。
……いやいやいや、どうしてそうなった。
私なんかその噂で初めてあの子の名がジェニーであると知ったくらいなのに、なぜ私があの子をいじめなければならないのだ。
……と、思いたい気持ちは山々だったのだが、現状が少しずつ見え始めて、なんとなく理解が進んでいった。
あの子、ジェニーは私の見ていないところで、私の婚約者であるフォルクハルト・ハーマン様に近付いているらしい。
その結果フォルクハルト様に近付くジェニーと、私に謝るジェニーを見た人々が、フォルクハルト様に近寄るジェニーを私が疎ましく思っている、と勝手に想像して噂を流し始めたようだった。
……うーん、なんというか、すごく迷惑。
フォルクハルト様に誰が近付こうと私が文句を言う筋合いなどない……にも等しいのに。いやあるけど。あるかないかでいえばあるよりのあるというか、普通にある。
あるけど、文句が言えるのかと問われれば言えないと断言出来る。
一応婚約式を行ったので正式な婚約者ではあるけれど、立場の都合上文句など恐ろしくて言えないのだ。
フォルクハルト様は次期公爵様であり、結婚のお相手なんて選り取り見取り。
薔薇を思わせる鮮やかな赤い髪に、若葉のような美しい新緑の瞳。世の女の子皆を蕩けさせるような整ったお顔で、いつも優し気な微笑みを湛えた穏やかな方。
それに比べて私は取り立てて力があるわけでもなくお金があるわけでもなく領地に特産品があるわけでもない平凡な子爵家の娘。
容姿だって鮮やかさとはかけ離れた薄っすい緑色の髪に平凡な青い瞳。そして愛想笑いの一つも出来ないのかと言われてしまうほど笑うのが下手くそな、華やかさの欠片もない顔。
家柄の時点で釣り合っていないし、鮮やかなフォルクハルト様の隣に並べるような華やかさも持ち合わせていない。
正直前々から婚約破棄されるのも時間の問題だと思っていた。
どうせこの婚約自体が彼の気紛れだろうし、そもそも由緒正しき公爵家のご長男様とそこら辺の子爵家の娘の婚約など、どこから横槍を入れられて破棄になるか分からないのだから。
……まぁ、一応彼は何度も私に愛しているよと言ってくれているし、私も実は彼のことが大好きだけれど、大好きだからこそ、捨てられた時の傷は深いもの。
だから、臆病な私はフォルクハルト様から目を背けるように、常に距離を取っていた。
それはともかくとして、だ。
噂によるとジェニーは男爵家の娘らしい。
家柄的には私よりもちょっとだけ下だった。
おそらくそれが噂が独り歩きを始めた原因なのではないだろうか。
男爵家の小娘が、私の婚約者であるフォルクハルト様に近付きやがって、的な。
そんなような話を小耳に挟んだ時は「なるほどな」と手を打ったものだった。
だって私は一切そんなこと考えていなかったから。
ただ、まぁそういった理由で子爵家の娘が男爵家の娘をいじめる、という構図は理解できる。
家同士の小競り合いなんかも見たことがないわけではないし。
「きゃあっ、ご、ごめんなさい」
今日も今日とて当たり屋のように近寄ってきて謝っては逃げていく彼女を見て思う。
やっぱり理解できない、と。
これでは、いじめられに来ているだけじゃないか。
うるうると涙をためた菫色の大きな瞳にきらきらと輝きながら靡く金糸雀色の髪を思い出しながら、そう思う。
それだけ綺麗ならば、わざわざ私に近付かずに、そっとフォルクハルト様だけに近付けばいいのに。
私とフォルクハルト様は別々のクラスなのだし、どんくさい私は噂さえ聞かなければ、きっと気付けない。
もしかして……いじめられたいのか?
いや、そんな、まさか。
誰がわざわざ好き好んでいじめられたいだなんて思うのか。
いや、でも、わからない。
もしかしたら揉め事を起こした上で奪い取りたい、みたいな趣味があるのかもしれない。人の趣味なんて十人十色だし……?
どちらにせよ私には理解出来ないけれど。
……あぁ、もしかしたら、あの子が男爵家の娘だからかもしれないのか?
私に直接文句は言えないけれど、私の悪評さえ湧けば私を陥れる材料になるわけだから、その悪評を利用して自ら手を出さずとも私が勝手に消えてフォルクハルト様を横から掻っ攫うことが出来る、みたいな……?
思い返してみれば、以前どこぞの伯爵令嬢が私に直接文句を言ってきたことがあった。
あなたとフォルクハルト様は釣り合わないだとか、身の程知らずで恥知らずの女だとか、それはもうとにかく好き放題言いに来た。
そりゃそうだよなぁ、と思っていた私は一切口を開かずただただ俯いてやり過ごしたっけ。
それで、私に文句を言っても無駄だと判断したのかその後その人は一切接触してこなかった。
しかしフォルクハルト様と私とでは釣り合わないと、きっと誰もが思っている。
そしてそれは私が一番、痛いほど理解している。
私だって、なぜ私なのかと思っている。そう思わない日はないくらいに思っている。
怖いから、フォルクハルト様本人には聞けないけれど。
そんなぐるぐるとまとまらない思考を抱えたまま、誰とも口をきくことなく授業を終え、帰宅した。
帰宅すると、私は決まって温室へと向かう。
私の可愛い可愛い薔薇たちの世話をするために。
両親は忙しいし、兄弟たちともあまり交流をしていないので、ここ最近は家族の誰とも顔を合わせることなくこの温室に入り浸っている。
どうせ、誰と顔を合わせたってどんくさい、邪魔くさいと罵られるだけだもの。
私は親族内で一番面倒な存在だった祖父に、誰よりも嫌われた厄介者だった。
わりと幼い頃からだったので、何が原因だったのかは知らない。おそらく私が人見知りをする子どもだったから可愛くなかったのだろう。
それから大きくなるにつれて、これ見よがしに怒鳴り散らされたり聞こえるように悪口を言われたりと散々だった。
そんな祖父は最近やっと亡くなったけれど、私が厄介者であるという印象だけは根強く残ってしまった。
学園では邪魔者として、家庭では厄介者として皆から白い目で見られる。
そんな私が唯一穏やかな気持ちになれるのが、この温室だった。
この温室は私のお誕生日に私がいただいたもので、ここの鍵は私しか持っていない。
内側からも鍵がかけられるので本当の本当に一人きりになれる場所なのだ。
可愛い薔薇たちに水をやり、葉を剪定していく。
そして土の様子を確認して、必要であれば肥料や魔石の粉を足していく。
魔石の粉の配合次第で花弁の色味や形状が変わってしまうから、慎重に。
今目の前にある薔薇は、今から七年前、私が六歳の頃に私自身が品種改良をして作り上げた薔薇だった。
薔薇の品種改良を教えてくれたのは私の侍女。
祖父に悪口を言われて落ち込んでいた私を見兼ねて、彼女が薔薇の品種改良の方法を教えてくれたのだ。
その侍女は、この家で唯一私に優しくしてくれる珍しい人で、最初こそ折角そんな侍女が教えてくれたことだし人と顔を合わせなくて済む口実にもなるしという思いで手を出してみただけだった。
けれど、私はすぐに夢中になっていったのだ。
いくつかの薔薇を育て、いくつかの魔石の粉を準備して、あれこれ交配してあれこれ調合すれば見たことのない薔薇が咲く、その流れが楽しくて仕方がなくなっていった。
そうしてどんどんのめり込んで、出来上がった新しい薔薇は、蕾のうちは普通の薔薇だが、完全に咲いてしまうと真っ赤な花弁がルビーのように結晶化する、とんでもなく綺麗なものだった。
綺麗な薔薇が咲いた!
その美しさを見て、私は一人で喜んだ。
しかし想定外だったのは新種が咲くと王宮にある専門施設に報告しに行かなければならないということ。
めちゃくちゃ人と顔を合わせなければならなくなってしまったのだ。
一人で王宮に行くわけにはいかないし行きたくないので、結局侍女に付き添ってもらって報告をしにいった。
それから当時は子どもだったので誰だったのかはよく分からないが身分の高い人がこの薔薇をいたく気に入ってくださり、品種改良に成功した次の年の誕生日にこの温室が贈られてきた。
温室を用意するから出来るだけ大量にこの薔薇を栽培してほしいという意味だったのだと思う。多分。
本当は、綺麗な薔薇が咲いた時、家族の誰か一人くらい、褒めてくれるんじゃないかなと思っていた。
けれど、現実は厳しい。
だって、誰一人として褒めてなんかくれなかったのだから。
しかも誰からも褒められないだけでなく年を追うごとに祖父からの悪口がどんどん酷くなっていくし、私はどんどんただの厄介者になっていった。
自分自身と侍女以外を入れさせなかったこの温室に、唯一招いたことのある他人が居る。
それは一応私の婚約者であるフォルクハルト様。
何故招いたのかといえば、見てみたいと言われて断れなかったから。だってあの人、公爵家の人だし断り方も分からないし。
初めてフォルクハルト様がここに来たのは、婚約を申し込まれた時。確か、お互いが七歳の時だ。
温室を他人に踏み荒らされるのは嫌だなと思っていた私に、フォルクハルト様はとびきりの笑顔で言った。
「これ、君が改良した薔薇だよね!?」
と。
私はおっかなびっくりしながらこくこくと数度頷く。
すると彼は何度も何度も「綺麗だね」「すごいね」と褒めてくれた。
かつて誰からも褒められなかったものだから、まさか褒められるだなんて思わなくて、私はただただ俯いて涙を堪えていた。
そんな暗い私にはお構いなしで、フォルクハルト様はとても楽しそうに温室を見学していった。
その一件で、フォルクハルト様はとても優しい人なのだと頭では認識出来た。
しかし幼い頃からもうずっと他人の目や顔色を窺い続けて生きなければならなかった私は、人との上手い接し方が分からない。
結局私は極々小さな声で「ありがとうございます」と言うだけでいっぱいいっぱいだった。
きっとこんなろくに喋ることも出来ない奴なんかすぐに婚約解消されてしまうに違いない、あの時はそう思っていた。
しかしまぁそんなことはなく婚約式までとんとん拍子で進んでいってしまう。
おかしいなぁ、と思いながらも婚約式を挙げたのは今から三年前、二人が十歳になった時。
学園に入学する直前のことだった。
五年間の学園生活を次期公爵様の婚約者として過ごさなければならないというだけで胃が痛かったというのに、今ではいじめっ子という烙印まで押されてしまっている。
なんとツイてない人生なのだろう。
私は、前世で何か大罪でも犯したのだろうか。
そんなことを考えながら薔薇へと手を伸ばした時、指先に薔薇の棘が刺さった。
痛みに目を閉じると、瞼の裏に映像が浮かんだ。
パワハラ上司に罵詈雑言を浴びせられ、精神をすり減らして、しっかりと丈夫な縄を手にした自分の姿。
――あぁ、大罪じゃないや。私、自殺したんだった。
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