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子爵令嬢は平民騎士と恋に落ちる

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 一目惚れって、本当にあるんだなぁ。なんて、他人事のように考えながら私は愛しい人をこそこそと眺めていた。
 私が通う学園の隣には、騎士の訓練施設がある。
 私には縁のない施設だし毎日毎日何気なく通過していただけだったけれど、ある日ふと施設内へと視線を向けた。ただなんとなく。特に意味なんてなく。
 その時、とても逞しくて素敵な男性が目に入った。
 私が通う学園には貴族しかいなくて、貴族のご令嬢達は皆線の細い男性を素敵だと言っていた。
 それを聞いていた私はそんなもんなんだろうな、としか思っていなかったし、誰が素敵であろうとそのうち父が勝手に結婚を決めるのだからどうでもいいとさえ思っていた。
 しかし、私がどうでもいいと思っていたのは線の細い男性のことだけだったのかもしれない。
 あの日、あの方を一目見た瞬間、心の底から素敵だと思ったから。
 私が一目惚れした相手は、とても背が高くて腕も胴回りも太くて逞しい人だった。
 太いとはいえ無駄な肉は一切ついておらず、鍛え上げられた美しい肉体。額に光る汗さえも宝石のように素敵だった。
 彼の存在に気が付いてからというもの、訓練施設前を通るのが毎日の楽しみになった。
 それまでは学園なんてつまらないと思っていたし、ただただ義務感だけで通っていたけれど、彼の姿を瞳に映すその一瞬が一つ増えただけで学園に行くことさえも楽しみになる。
 学園内に彼がいるわけでもないのに。
 学園内に彼がいないということは、彼は貴族ではないのだろう。
 彼が貴族でないのなら、彼と私の人生が交わることはない。だって、私は親の決めた相手と結婚しなければならないのだから。私は、ただの駒でしかないのだから。
 別にそれを悲観したことはない。当たり前のことだもの。母もそうだった。祖母もそうだった。きっと曾祖母だってそうだったはず。
 あんな素敵な方がこの世にいると知れただけで良かったのだ。きっと。

 そんな風に自分の気持ちに蓋をして、日々を過ごしていたある日のこと。
 放課後、いつものように何気なく訓練施設内に視線を向けながら通過しようとしていた私の瞳に、いつもとは違う様子が映る。
 施設内はざわざわと騒がしく、あたふたと慌てふためく人々の姿が目立つ。
 尋常ではないなと思った次の瞬間、施設の入り口近くに膝をついたまま動けなくなっている怪我人がいることに気が付いた。
 よく見れば、彼の腕には何ものかに切り付けられたような、さっくりとした切り傷がある。血はまだ固まっていないし、あれなら治癒魔法で簡単に治すことが出来る。そう思った私は思わず施設内へと足を踏み入れていた。

「失礼いたします」
「え!?」

 怪我人の男性は驚いていたけれど、治癒魔法を使うのなら早いほうがいいので私はそれに構うことなく治癒を施していく。
 怪我人の男性の「誰だこれ」という視線を受けつつ、そういえば私は例の彼を見るためにいつもこっち側を見ていたし、この人もその時なんとなく視界に入っていた気がするけれど、彼にとっては一切見ず知らずの人間が突然乱入してきて治癒魔法を使い始めたのだ。そりゃあ「誰だこれ」状態になっても当然だろう。
 なんとなく気まずい空気を感じながらも、治癒を終える。問題はこの空気の中、どうやって撤退するかだ。
 何事もなかったかのように「ごきげんよう」とでも言って退散するか、それとももう無言のまま逃げるように立ち去るか、どちらが目立たずに済む?
 その時、撤退方法を考える私の耳に大きな声が飛び込んでくる。

「逃げろ!」

 という、とても大きな声。
 さっきまで怪我人だった男性は、混乱する私を置いたまま急いで動き出した。放置されていた己の剣を取りに行ったようだ。
 その場に座り込んだまま置き去りにされた私はと言うと、明らかに初めて見た妙な生き物と目が合ってしまって完全に固まってしまっていた。
 ダメだ、動けない。何、あれ。

「失礼!」

 何もかもを諦めたところで、私の目の前は暗くなった。
 妙な生き物から攻撃を受けたからではない。それから守るように、誰かが私の身を抱きしめたのだ。
 私の視界には目の前の人の胸元だけ。頭上では、ギギギという不思議な物音が鳴っていた。

 思えば、それが運命の瞬間だったのだ。
 出会ってはいけないはずの私たちが出会ってしまった。そんな運命の瞬間。

 私を守ってくれたのが例の彼だと気が付いたのは、不思議な物音が聞こえてからほんの数秒後のこと。
 そっと顔を上げたら、いつも遠くから見ていたはずのあの逞しい腕があった。
 もっと顔を上げたら、いつも遠くから見ていたはずのあの素敵な男性がいた。
 遠くから見ていても素敵だった彼は、近くで見るとより一層素敵だった。
 彼は申し訳なさそうな顔でこちらを見下ろしている。
 唇が動いているので何かを言っているようだけれど、私の耳には己の心音が爆音でなっており、他には何も聞こえない。
 返答を求められている可能性があるから、しっかり彼の言葉を聞かなくてはと思っているのに、心に全くもって余裕がない。

「大丈夫ですか?」

 やっと聞こえた彼の声は、心が落ち着くような美しいテノール。

「は、はい。ありがとうございます」
「よかった」

 彼はそう言って私から離れようとしたのだけれど、完全に腰が抜けてしまっていた私は彼の支えを失った瞬間よろめいてしまう。すると彼はもう一度優しく支えてくれた。
 そんな時、さっき私が治癒を施した怪我人が戻ってきて、私に「ありがとうございました」と言って頭を下げる。

「お前は保護対象者を放置してその場を離れた罰として腕立てだ」

 私を支えてくれている彼が、そう言い放つ。

「あの、でも、勝手に入り込んでしまったのは私でございます。悪いのは私ですわ」

 その場で腕立て伏せを始めた男性を見ながら、彼にそう言うと、彼は苦笑を零しながら「規則ですから」と言う。
 それを見て、ふと思う。実はこれはただの訓練で、私は彼らの邪魔をしてしまったのではないのかと。

「あ、あの、私、咄嗟でしたから、つい治癒魔法を使ってしまったのですが、これは何かの訓練だったのでしょうか? もしや、私は皆さまのお邪魔を」
「あぁ、いえ、これは事故でしたので助かりました。ありがとうございます」

 あ、事故だったのか、よかった。……いや、よくはないけれど。事故だし。ちなみにさっき私が見た妙な生き物は訓練用に用意された小型の魔物らしい。なにかの手違いでとても生きが良く、暴走してしまったんだとか。
 なんにせよ訓練の邪魔をしてしまったわけではなくてよかったと胸をなでおろしていると、私たちの元に先生らしき人がいらっしゃった。学園的に言うと先生だけれど、こちらではなんとお呼びするのだろう。

「おい大丈夫か!? 怪我人か!?」

 先生らしき人は、私を見て慌てている。

「いえ、怪我人はあれです」

 彼が未だに腕立てをしている元怪我人を指さした。

「……ピンピンしているようだが」
「こちらのご令嬢が治癒魔法を施してくださいました」

 彼のその言葉で、先生らしき人がじっと私を見る。

「その制服はお隣の。うちの事故に巻き込んでしまい本当に申し訳ない」
「い、いえ、私は通りかかっただけですので」
「それでも巻き込んだことには変わりない。お前、その方をお屋敷まで送ってさしあげなさい」
「わかりました」

 先生らしき人に声をかけられた彼は、深く頷いている。
 律儀に送ってくれるという彼と共通の話題なんてもちろんなくてしばらくはお互い無言だった。
 しかしふと彼が口を開いた。

「あの治癒魔法は、難しい魔法なのでしょうか?」
「いえ、切り傷に対する治癒魔法ですので、初歩的なものですわ」

 難易度があがるのは骨折の治癒あたりからなので。

「俺にも使えますか?」

 彼のこの一言で、私はあの憧れだった素敵な彼と流れるようにお知り合いになってしまったのだ。
 お互いの時間が空いた時に、私が彼に治癒魔法を教えることになったから。彼は平民だから魔力を持ちながらも魔法を習う機会に恵まれなかったのだそうだ。
 それからというもの、二人が恋に落ちるのにそう時間はかからなかった。
 だって彼が平民で私が貴族の令嬢だったから、大っぴらに会うわけにもいかなくて、でも治癒魔法は教えて差し上げたくて。そうなるとこそこそ会わなければならないし、大声で話すわけにはいかないから小さな声で、そうするとおのずとお互いの距離が近くなって。
 幸せだった。こんな幸せな日々がずっと続けばいいのにと思っていた。
 二人きりで会って、治癒魔法を教えて、なんてことないお話をしたりして。ただそれだけで幸せだったのだ。
 貴族という身分なんていらないから、彼とずっと一緒にいたい。彼だけがいてくれればそれでいい。
 たったそれだけのことが、どうしてこんなにも難しいのだろう。
 どうしてこんなにも、幸せな時間はすぐに終わってしまうのだろう。

「もう、会えないかもしれません」

 ある日、いつもの場所に行くと、とても深刻そうな顔をした彼がいた。そして彼はそう言ったのだ。

「なぜ?」

 私が問いかけると、彼は物悲しげに目を伏せる。

「試験に合格して、無事騎士になれました」
「それは、おめでとうございます」
「それで……早速極秘の任務に就くことになりました」
「極秘……?」
「家族以外には、どこに行くのかも何をするのかも教えられない任務です」
「家……族」

 家族という短い言葉が、私の頭の中をぐるぐると回る。
 私が彼の奥様になれば今から彼が行く場所も何をするのかも教えてもらえるんだ。
 でも、そんなことは出来ない。そうなりたいのに、きっとなれない。私に身分なんてなければよかったのに。
 スカートの裾をぎゅっと握りしめながらそんなことを考えていた時だった。
 彼が、私をぎゅっと抱きしめてくれた。

「最後に少しだけ、こうさせてください」

 苦し気に言葉を詰まらせながら彼は言った。最後だと。
 ……最後を告げるのは私だと思っていた。父が勝手に私の結婚を決める時、それが最後だと思っていた。それまではずっと一緒にいられると思っていたのに。

「私、あなたの家族になりたい。身分なんていらない。あなたがいればそれでいいのです」
「……ごめんなさい。俺は、あなたを不幸にはしたくない」

 それが私たちが交わした最後の言葉だった。

 そんな別れから約二年が経とうとしていた。
 いくら時が経とうと、そこはかとない寂しさと悲しみは尽きることを知らず、私はいつまで経っても立ち直れないまま無気力な日々を送り続けていた。
 きっとあの別れの瞬間が私の人生の終わりの瞬間だったのだ。

「すごいな……勲章の数が一つ二つ三つ……九つも! お前と同じくらいの年の男だ」
「クソほどどうでもいいですわ……」

 朝食の席で、父が新聞を眺めながら私に話しかけてくる。

「汚い言葉遣いをやめなさい。まったく、どこで覚えたんだそんな言葉……。俺はお前の結婚の相手をだな、あ、こいつ……なんだ、一応侯爵か……身分が釣り合わんな。いや、身分はともかくとして九つも勲章を貰って、王家のお気に入りともなると競争率がとんでもなく高いな……」
「……クソほどどうでもいいですわ」

 身分なんて本当に、クソほどどうでもいい。捨てようと思ってたくらいだもの。
 そんな無気力な私に、父は名簿のようなものを差し出してきた。

「次の夜会でこの男たちを自分の目で見ておいで」
「……なぜ」
「お前の結婚相手になるかもしれない相手だからだ。この三人は、あちらから縁談を持ち掛けてくる可能性が高い。俺のおすすめはこっちだ。こっちの男なら金もあるしお前に苦労はさせないだろうから」

 と、名簿をとんとんと指しながらごちゃごちゃ言っているけれど、私の耳には半分も入ってこなかった。だって誰と結婚したって同じじゃないの。彼じゃないんだから。

「行きたくないな……」
「絶っっっ対に行け。このままでは適齢期を過ぎてしまうぞ」

 私の両腕を掴んで、強くそう言った父の目は完全に血走っていた。ちょっと怖かった。
 それから数日後、父が絶対に行けと言ってきた夜会の日。
 逃げ出したい気持ちもあったけれど、侍女長に即確保されてしまったのでどうしようもなくなった。
 どうしようもなくなって、結局どうでもよくなった。夜会に行こうが引きこもろうが、彼に会えないことに変わりはないのだから。

「ねえ侍女長」
「はい?」
「私ね、好きな人がいるのよ」
「へ!? 大変! じゃあこんな枯れ枝のような腰ではいけませんねぇ! コルセットをもう少し調節して……お胸と腰に何か詰め物でも」
「夜会には来ないの」
「……そう、でしたか」

 侍女長、私の腰を見て枯れ枝だと思っていたのね。「だとしてももうちょっと詰めておきましょうか」じゃないのよ。詰めなくてい……詰められたわね。

 結局強制連行された夜会の会場に、いやいやながら一歩足を踏み入れる。
 きらきらと輝く照明も、これでもかと着飾った女性たちが纏う色とりどりのドレスも、とても美しい。でも、そこに私の求める人がいないのが悲しい。
 探せば級友がいるかもしれないと思ったけれど、きっと皆さま各々の結婚相手を探すのに忙しいだろうから邪魔は出来ないし、私は大人しく壁の花を決め込むことにした。
 父に自分の目で見ておいでと言われた相手の名前も結局覚えてこなかったから、やることもない。適当に時間が経ったら帰ればいいだろう。
 そんなことを思いながら、ふと顔を上げるといくつかの人だかりが目に入った。
 大きな人だかりは二つほどだろうか。ここからは遠すぎて人だかりの中心がどなたなのかは分からない。しかし今日の夜会には王子殿下が出席すると父が言っていたし、どちらかは王子殿下なのだろうな。
 まぁ中心が誰であろうと末端貴族の娘である私には関係ないけれど。

「あちらの中心には王子殿下がいらっしゃるのですって」

 近くにいたご令嬢たちの噂話が耳に滑り込んできた。
 やっぱり王子殿下がいらっしゃるらしい。ちょっと見てみたかったな。紙面では見たことあるけれど、本物は見たことないもんな。

「もう一つの人だかりにはどなたが?」
「それはほら、先日国王陛下から直々に爵位を賜ったという侯爵様ですわ」
「あぁ、あの九つもの勲章と爵位を賜ったっていう」

 父が新聞を読みながら言ってたやつか。競争率がとんでもなく高いって言ってたの、本当だったんだなぁ。

「どんな方なのかしら?」
「分かりませんわ。でも王女殿下だか公爵令嬢だかと婚約なさるって話でしたわよ。そのために武功を立てて爵位を賜ったのですって」
「愛する女性のために武功を立てるなんて素敵なお話だわぁ! でも私たちには関係のない話ですわねぇ」

 侯爵様も王女殿下も公爵令嬢も雲の上の人たちですものねぇ。と、見ず知らずのご令嬢達の会話に心の中で相槌を打つ。
 ……さてと、そろそろある程度時間が経った頃合いなので私は帰ろう。
 あ、でも帰る前にほんの少しだけ、あのテーブルに並んでいる美味しそうなお菓子をいただこうかしら。

「あら、人だかりが動き出しましたわね」
「本当だわ。なんだかうごうごしててちょっと気持ち悪いですわねぇ」

 うごうごってどういうこと、と思って人だかりのほうに視線を向ける。
 するとそこでは本当に人だかりがうごうごと蠢いていた。ちょっと怖い。
 なんであんなにうごうごしてるんだろうと少し観察してみると、どうやら中心人物が人だかりから脱出しようともがいているらしい。
 きょろきょろと頭が動いているので王女殿下だか公爵令嬢だかを探しているのだろうか。しかしそんな高貴な方はもっと会場の中央にいるものなのに、なぜか彼の顔は真逆の方向を見ている気がする。遠くてはっきり分からないけれども。
 そういえば、あの背の高さと髪の色、彼に似ているな。こんなところにいるはずなんてないのに。
 ……ああもう、悲しくなるだけだから帰ろう。泣いてしまいそうだ。
 小さくため息を零し、美味しそうなお菓子も諦めて、私はつま先を出入口へと向けた。

「待って!」

 一歩踏み出したところで、聞き覚えのある声がした。ここにはいないはずの人の声だ。

「ま、待って……すみません、通してください」

 いよいよ幻聴まで、と思いながら声の主を確認しようと振り返る。
 しかし私は声の主の姿を確認することは出来なかった。目の前が真っ暗になったから。

「やっと、やっと見つけた」
「……え?」

 目の前が真っ暗になったのは、ぎゅっと強く抱きしめられたからだった。
 そっと顔を上げたら、恋焦がれていたあの逞しい腕があった。
 もっと顔を上げたら、恋焦がれていた愛する彼がいた。

「俺と結婚してください」
「……ど、どう、して?」
「早く言わないと、誰かに取られるから」

 私が疑問に思っているところは早さとかそういうところではない。

「いえ、あの、どうしてここに、あなたがいらっしゃるの?」
「どうしてもあなたを俺の手で幸せにしたかったのです。だからその、武功を立てれば爵位が貰えると聞いて頑張りました」

 ということは、父が新聞を読みながら言っていたあの九つもの勲章を貰ったとかいう侯爵とは彼のことだったのだ。大変、クソほどどうでもいいとか言ってしまったわ。

「だから、俺と結婚してください」
「でも……侯爵様と私のような末端貴族とでは身分が釣り合いませんわ」

 お別れをしたあの日の私たちと今の私たち、いつの間にか立場が逆転してしまっていた。
 あの時ならば私が身分を捨てれば良かったけれど、今回はそうはいかない。どうすることもできない。

「大丈夫。好きな人と結婚してもいいと言質はとったから」
「言質」
「侯爵という爵位が邪魔なら降格させてもらう」
「そんな……!」

 そんなことするべきではない、そう言おうとしたけれど、彼が私を抱きしめる腕の力を強めたので言葉が詰まってしまった。ちょっと苦しくて。でも、嫌な苦しさではない。こんなに嬉しい苦しさ初めてだった。

「俺は爵位が欲しくて頑張ったんじゃない。あなたが欲しかったから頑張ったんだ」
「私、が」
「俺はあなたを好きになった瞬間からあなたの側で生きられる方法だけを探して生きてきました」

 彼の言葉を頭の中で反芻しながら噛み砕く。彼が私をいつから好きだったのかは分からないけれど、随分と前から考えてくれていたのかもしれない。
 なんて考えていると、彼の顔が私の首筋にうずめられる。

「でも、ダメでした。最後のあの日、あなたを抱きしめた瞬間、側で生きるだけでは足りないと気が付いてしまいました」
「……足りない?」
「この温もりを、他の誰かに取られたくない。あなたが欲しい。ただあなただけが欲しい」

 その言葉を聞いた時、今まで抱きしめられるだけだった私は、思い切って彼の背中に腕を回した。私からも抱きしめられるように。
 そんな時だった。

「素敵ですわぁ」

 という小さな声と共に、小さな拍手が私たちの耳に滑り込む。
 声の主と拍手の主は同一人物で、さっきまで私の近くで噂話に興じていたどこかのご令嬢だった。
 彼女はほんのりと頬を染め、ぱちぱちと拍手をしながらこちらを見ている。
 どうやら私たちが今までやっていた一連のやり取りをずっと見ていたらしい。
 彼女が発生源となった拍手は波紋のように広がっていき、いつしか会場中が大きな拍手で包まれていた。
 思いがけず目立ってしまったことと夜会の会場で婚約すらしていない方と抱き合ってしまったという恥ずかしさで混乱していると、拍手とは違う音が聞こえる。
 カツカツという、靴を鳴らす音だ。

「その子?」

 靴の音と声がした方向を見ると、そこには王女殿下が仁王立ちをしていらっしゃった。
 王女殿下はどうも難しい顔で私のほうを見ている。
 もしや王女殿下と彼が結婚するという話は噂ではなく本当で、私が邪魔なのではないだろうか。

「確か子爵家の子ね」

 そんな王女殿下の声を聞いた彼は、なぜだか私を抱きしめる腕の力をさらに強める。今はどちらかというと離してほしい。怖いから。

「だから伯爵程度にしておいたほうがいいと言ったのよ」

 呆れたような声でそう言った王女殿下は、近くに控えていた人たちのほうへと手を向けてさらに続ける。

「外堀から埋めておしまいなさい! この子の父親が驚いて逃げていかないように! 絶対に断らせてはだめよ!」

 と、どうやら指示を出しているらしい。
 私の頭は混乱してしまってなんだかよく分からないけれど、己の外堀が埋められそうなのだけはなんとなく分かった。
 指示を出した人たちが会場の外へ飛び出していくのを見届けた王女殿下がくるりとこちらを向いて、顔の前でぱちんと両手を叩いて見せる。とても嬉しそうな顔で。

「聞いているわ、あなたたちの恋のお話。両想いなのだから、結婚しても問題はないわよね?」

 私の気持ち的にはなんの問題もないのだが、身分的な問題はある。
 どうしたものかと彼の顔を見上げてみると、彼は全力で首を縦に振っていた。彼の気持ち的にもなんの問題もないらしい。

「彼はね、私の可愛い弟たちの命の恩人なのよ」

 王女殿下の可愛い弟たちというと、この国の王子たちのことだろう。

「弟たちの命を救ってくれた褒美は何がいいかって聞いたら貴族の女の子と結婚したいっていうからお父様……国王が身分を整えて。私はてっきり貴族の女の子なら誰でもいいんだと思ってたんだけど心に決めた子がいるって言うし、そのわりにその子の家名すら分からないって言うんだからもう探した探した!」

 え、王女殿下すごく喋るな。探した探したって。……あぁ、だから彼は最初に「やっと見つけた」って言ったのか。

「じゃあ、とりあえず大まかな準備はこちらで整えるから、どうぞお幸せに」
「はい。幸せになります」

 ひらひらと手を振る王女殿下に、彼が答える。
 そして、彼はふとこちらを見てにこりと笑う。

「改めて。俺と結婚してください」
「は……はい、喜んで」

 大きな大きな拍手の海の中、私たちはたくさんの祝福に包まれたのだった。




 
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