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第一章

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「尚ちゃああーんっ」

 光線銃も顔負けの明るい声と共に、背中にずっしぃぃぃっと重みが増す。ウッと呻きたいところだが、あえて何も感じていないかのように平然を保つ。

 ついでに適当な推測をしてみる。

 これはアレだろう、そう、心霊現象。それっぽい。でも呪われるようなことなんかしたかなあ俺、と脳内をぐるぐる回転させる。あくまで自己評価だが、彼は極めて模範的な生活を送っている。ましてや人から恨まれるなど、もってのほかだ。

 唯一思い当たることといえば、今朝「お前はチビなんだから栄養摂れ」と言って朝食のトマトを妹に押し付けたことくらいしかない。だが、これは妹や弟がいれば誰だってやるはずだ。そうに違いない。

 しばらく妄想に浸っていたら、

「もっぉぉおおおおおおおおおぉぉぉぉおおっ」


 という大声が耳元に飛んできた。遠慮もへったくれもない。前向きに考えると気を遣わない関係だといえる。
 しかし、少しは彼の鼓膜を心配してほしいものだ。もう長くない気がする。

「尚ちゃんっ。尚ちゃあああんっ。無視はよくなーいっ」

 先にしびれを切らすのは、いつだって美桜だ。無視だああ、無視だああああっと背中に張り付いたまま暴れまくる。

「ああ、美桜か。俺になんか憑いてるのかと思った」

 尚樹が声を発すると、「遅いー遅いぞー」とか文句を垂れながらようやく彼から剥がれる。

 いつからか始まった、二人のオリジナルの朝の挨拶だった。飽きもせず毎日行っている。というか美桜が勝手に飛びついてくる。

「あのねえ、ちゃんと女の子の匂いがするでしょっ」

「でも俺の背中は女の子特有の柔らかい二つの膨らみを感じなかったんだよな」

「むきぃーっ。まだまだ発展途上なんだからぁーっ」

 今どき「むきぃー」とか恥ずかしげもなく言えるやつがいるんだな、といつものことながら感心する。さすが天野美桜だ。

「なにが発展途上だよ。二年になっても制服に着られてるくせに」

 絶対成長するんだから、と大きめのサイズの制服を買ったあの日から一ミリも成長していない気がする。入学したての小学生にありがちな『ランドセルが歩いている』という現象と酷似している。
 他校からも可愛いと評されるのセーラー服なのにもったいない。

「尚ちゃんは大器晩成という言葉を知らないの?」

「お前こそ知ってんのか」

「知ってるよー。本当に可愛い子は制服を脱いでから頭角を現すって意味なのだ」

 冗談は笑ってやるのがマナーだ。
 しかし、冗談を言っているように見えないから反応に困る。

「信用してないな? もうちょっと時間が経ったら、尚ちゃんもビックリの美人さんに変身するんだから」

 へいへい、とやる気のない返事をすると、彼女は不満そうに唇を尖らせた。

「あーあ。わたしも華弥ちゃんみたいになりたいな」

「お前の親友だな」

「うん。三日月華弥はね、わたしの憧れなんだよ」

 美桜は人見知りが激しいうえにこんなキャラだから、なかなか友達ができない。こうやって高校生になっても、毎朝尚樹にくっついて登校しているくらいだ。
 小学生の頃、不登校気味の美桜を「家が隣だから」という理由で毎日引っぱって登校していたら、いつの間にか高校生になっていた――そんな感じだ。

 そんな彼女にできた初めての友達が、三日月華弥なのだ。

 尚樹は深い関わりがないから性格は知らないが、明らかに外見は違う。低身長で癖っ毛の強い美桜とは違い、高身長で艶のあるストレートヘアーが似合う女、それが三日月華弥だ。おまけに胸の大きさも正反対である。

「あっ、尚ちゃん、いやらしいこと考えてるな」

「考えてねえっ」

 なんでそうなるんだよ、と美桜の頭を軽く小突く。あたぁっ、と漏れた声がわざとらしい。

「隠そうったって無駄だよー? さしずめ、華弥ちゃんのおっぱいの大きさでも想像してたんでしょう。大きいなあ、歩くたびに揺れるなあ、きっと中には無限の夢と希望が詰まってるんだ。あの柔らかい温もりに包まれて眠りたいなあ、みたいな。どうだね?」

 キメ顔で見つめられても困る。

 どうせお前の欲望だろ、という意味を込めて大きな溜息をお見舞いする。

「女子がおっぱいとか言うな。はしたないぞ」

「うわうわ、男女差別? 嫌な時代になったものだわ」

 美桜はこんなにも冗談を言う明るい女の子だ。一番のチャームポイントは笑顔だろう。しかし、それも限られた人の前だけだ。

 美桜は校門が近づいてくると目を輝かせ、わおああとか、がおおおとか、なにかに取り憑かれたような奇声をあげながら勢いよく走りだした。

 自分の視力と聴力を疑いたくなるほどの異様な光景だが、もう慣れてしまった。いや、感覚が麻痺したのかもしれない。

 彼女がなにを見て豹変したのかはわかるが、念のため前方を見ると、三日月華弥の姿が確認できた。かなり目を凝らさなければ見えない。
 どうしてわかるんだ、と美桜に聞けば、抜群の笑顔で「ニ・オ・イ」とか言ってのけそうだから怖い。

「華弥ちゃあああああああああん」

 全速力で走っていって、そのままの勢いで親友に飛びつく。それをしっかりと抱きとめる三日月華弥。運命の再会を果たしたカップルみたいだが、これは二人の日課で、尚樹は毎日目にしている。

 尚樹も抱擁中の二人にゆっくり近づいていく。華弥がこちらに気づいて深くお辞儀をする。

「沢井君、おはよう」

 そこにいるだけで様になるような立ち姿に、整った顔立ち、そんな華弥に声をかけられるたびに緊張してしまう。一呼吸おいて、おう、と返す。

「おはよう、三日月」

「美桜は、今日も本当に可愛いわね」

 胸の中にいる美桜の頭を撫でながら、華弥は呟く。慈しむように、目を細めている。不思議な女性だ。
 
 だからだろうか、慣れない言葉がぽろりとこぼれた。

「いや、三日月も可愛いと思うけど」

「……今、なんと?」

「え、三日月も可愛いって」

「沢井君」

 はいっ、と背筋を伸ばす。言うつもりはなかったし、言ってから恥ずかしくなってきたが、間違ったことは言ってないだろう。

「本当?」

「……はい?」

 今度は疑問符をつけずにはいられなかった。意味を理解して、すぐに頷いた。

「決まっているだろう」

「そんなの、初めて言われたわ」

「はあ? 冗談だろう」

 しかし彼女はなにも答えず、静かに首を振った。

「私って、本当に可愛くないのよ」

「三日月?」

 いったいどうして、と続けようとしたが、それを遮るように彼女が口を開いた。

「この子をもらっていくわね」

 美桜は手を引かれて教室へと連れて行かれる。時折こちらを振り返っては、眩しい笑顔で何度も手を振る。可愛いなあ、と思いながら見送るのが尚樹の役目だ。
 二年になり美桜とクラスが離れて心配していたが、三日月華弥という素晴らしい友人ができた。


 彼も自分の教室へ向かおうと足を踏み出そうとした瞬間、その子は現れた。

 マショマロのようにふんわりした口調で彼を呼んだ。なおきくぅ~ん、と。呼ばれるたびに思うが、子犬の鳴き声のような、見事な「くぅ~ん」だ。

「おっはよ~」

「あー、東原」

「ダメだよ。東原なんて、夢乃悲しいよ。ちゃんと夢乃って呼んで。ね? な・お・き君っ」
 
 東原夢乃は常に全身からピンクのオーラを放っているクラスメイトだ。

「ああ、悪い。夢乃、おはよう」

「わお~、夢乃、感激だよ。ありがとう」

 えへっ、と小首を傾けた瞬間、彼女の周囲にハートが舞ったように感じた。その魔法はどうやって使うんだ、と毎回尋ねたくなる。
 もし尋ねたなら、きっと彼女は笑顔で「それはね、乙女のヒミツなのだっ」とにっこり笑って答えるだろう。ソースは四月の尚樹。と五月の尚樹。と今月の尚樹。
 つまり性懲りもなく毎月尋ねている。こんな茶番に付き合ってくれる夢乃は正真正銘、ホンモノのヒロインだと思っている。

 二年生になって初めて同じクラスになったが、以前から噂は聞いていた。女の子の中の女の子のような可愛い女の子がいるんだと。

 なんじゃそりゃ、という感じだったが、一目見て納得した。女の子の中の女の子の可愛い女の子だ。アニメに出てくる女の子のように、『女の子ならこうあるべき』という条件をクリアしている。

 ふわふわの髪の毛をふたつにまとめている姿は、ミニチュアダックスフンドを彷彿させる。性格も犬のように人懐っこい。おまけに明るく元気で、みんなに平等に接する優しい女の子。しかし、しっかりしすぎておらず、適度にドジを踏む。なにもないところで躓いたり、怖いものが極端に苦手であったり、男心をガッツリと掴むのだ。恥ずかしがり屋ですぐに顔を赤らめるところもポイントが高い。
 可愛らしいものが好きで、よく教室に花を持ってきて飾っている。毎日持ってきているお弁当は彼女の手作りだとか。
 そういえば雨の日に傘を持たずに登校してきたことがあったが、クラスメイトの証言で、捨て犬に差していたということがわかった。
 もしもこれが計算だとしたら尚樹はもう女性を信じられない。

 彼女とは登校時間が一緒なのか、校門から教室まで二人で歩くことがある。ほとんど他の男に邪魔されるから完全に二人、という日は珍しい。

「ねえねえ。尚樹君って、三日月さんと仲良いの?」

「え? 三日月?」

「うんっ」

 違和感を覚えずにはいられなかった。どうして華弥の名が出たのだろう。尚樹と仲が良く見えるとしたら、どう考えても華弥ではなく美桜の方だろう。

「いや、仲良いってほどじゃないな。幼なじみの親友だから」

「あ、知ってる知ってる。天野美桜ちゃんだよね。とってもとっても可愛い子だあ」

「へえ、よく知ってるな」

 こんな女の子の鏡のような娘に、可愛いと言われた幼なじみを誇らしく思う。

「うんっ。よく見てるから。尚樹君のこと」

「はいぃぃぃっ!?」

 こんなことを、完璧なウインク付きで言われたなら、だいたいの男はグッとくるだろう。

 誰にだってやるんだ、無意識でできる小悪魔なんだ、と理性でわかっていても本能が暴走してしまうんだ。きっと、そうだ。そうじゃない男はホモだ。きっと、絶対、そうだ。

「えへへ」

 なんの邪念もない笑顔をこちらに向けてくる。まともに見られない。

「か、からかうなよ」

「だって尚樹君可愛いんだもん」

 同級生に可愛いといわれるとは、完全に動物扱いである。男として以前に、人間としても見られないってことなんだろうか。

「いや、待てよ……ペット……ありか?」

 夢乃が飼い主なら、素晴らしい人生が待っているはずだ。首輪をつけて引きずられたり、顔をぺろぺろ舐めまわしたり――よし、いける。来世はペットでお願いします、神様仏様夢乃様。

「ん? どうしたのー?」

 キョトン、とした顏で覗きこまれる。こんな世の中で穢れなくここまで育ってきた東原夢乃を世界遺産に登録すべきだ、と彼はわりと本気で思っている。

「なっ、ななんでもないっ」

「ふふ、やっぱり可愛いね」

 尚樹はひとつ学習した。東原夢乃は心臓に悪い。非常に悪い。今日も彼女のせいで寿命が縮まるばかりだ。
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