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61 鈍臭いと言われてしまった

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 ――そして、やや長い間を置いて朱い唇が薄く開いた。

「慰みなどでは……、ない」

 鋭さが鳴りを潜めた、掠れ声だった。

「そんな風に思ったことなど、一度もない」

 視線を逸らしたまま、こちらを見ようともせずに発せられたその言葉は、シタンの心には響かなかった。慰みでないのなら、なんだというのか。もっとはっきりと気持ちを言って欲しい。こんな答えは違う。

「だ、だったら、なんであんなことしたんだよ……」

 シタンが勇気を振り絞って聞いても、領主は口を開くどころか眉根を寄せているばかりで、何も言わない。

「なんで……、俺なんかを……」

 領主との関係は、ずっとシタンを苦しめてきた。誰にも言えずに悩んでいたときの不安や、ハイレリウスと出会って気付いた泣きたいほどの辛さ……。それらを忘れてはいない。

 ――もう限界だった。

 積み重ねられてきた気持ちが、大きく膨らんで弾けてしまう。

「俺は、俺は……っ、対価だなんて言われて抱かれるのは、もう嫌だ!」

 喉が裂けんばかりのシタンの叫びは部屋中に響き渡り、領主がはっと息を飲んでこちらを見た。一度弾けてしまえばもう気持ちを抑えることなど出来なかった。ずっと思い続けてきたことを、ぶつけてしまう。

「なんで……、俺がこんな、苦しい思いをしなくちゃいけないんだ! 俺がなにをしたっていうんだよ! さっさと捨ててくれ! もうたくさんだ!」
「捨てはしないっ! シタン、ずっと昔から……、お前だけが欲しかった!」
「ず、ずっと昔からって、なんだよ……。あんたのことなんか、俺は知らないのに!」

 知り合いでもない初対面だったはずのこの男が、なにを知っているというのか。さっぱり意味が分からない。苛立ちながらきつく睨みつけると、領主は痛々しいまでに悲し気な表情で「まだわからないのか」と、言って小さく頭を振った。

「……やはりこんな姿になった私など、お前には受け入れられないのだな」
「どういう意味だよ……」
「憎んでも構わない。私から、逃げないでくれ」

 紫紺の瞳から、涙が零れ落ちた。

 儚いくらいに綺麗な泣き顔だった。震える唇が、消え入るような声音で「シタン……」と、切な気に名を呼ぶ。これが、あの恐ろしい領主だとはとても思えない弱々しい姿だった。
 
 ……ラズが泣いているみたいだ。

 不意に、そう思った。あの日のラズとそっくりだ。潤んだ紫紺の瞳が凄く綺麗で、零れ落ちる涙も何か特別な物のように綺麗だ。触れたら壊れてしまいそうな綺麗さに魅入られながら、涙を流し続ける領主に近付いて濡れた頬に恐る恐る手を伸ばす。

「な、泣くことないだろ……」

 頬をそっと手のひらで包み込んで親指で涙を拭うが、後から後から零れ落ちる涙は一向に止まらない。どうしてか、こちらまで泣きたくなってしまうような涙だった。

「あんたは……」

 ラズに似ている、と言いかけて言葉を飲み込む。

 ……違う。似ているんじゃない。

「ラズなのか?」

 ――泣き濡れた瞳が大きく見開かれる。それが答えになった。

「ラズ!」

 叫びながら抱き締めると、その体が微かに震えているのが分かった。柔らかな黒髪に覆われた頭を撫でて頬を摺り寄せると、小さな頃のラズと同じ良い匂いがした。

 こんなふうに抱き締めたのは、小川で別れを告げられた時以来だ。どんなに行為に溺れ体を重ねていても、愛しさと親しみを込めて抱き締めたことなどなかった。

「……会いたかった。お前がいなくなって、寂しかった。なんで、言ってくれなかったんだよぉ……。こんな立派になってるなんて」

 領主……いや、ラズラウドは無言だったが、背中に回された腕が強くシタンを抱き締め返してきて頬を摺り寄せられると、愛おしくて堪らない気持ちになった。

「……なんで、無理矢理したんだよ……。俺が気付けなかったから、怒ったのか?」
「そんな下らない仕返しのような理由で、私がお前を抱いたと思っているのか。何年経っても、お前はやはり鈍臭いというか、なんというか……」

 ……久しぶりに鈍臭いと言われてしまった。
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