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6 家に帰りたい
しおりを挟む再び眠ることはできずに寝床の中で鬱々としているうちに、陽が落ちて夜闇が訪れた。
朝に小屋で野菜の汁物と黒麺麭を食べた以外には、あの男に飲まされた甘い水はともかくとして……なにも口に入れていない。さすがにひもじい心持ちになって、被っていた掛布を退けながら起き上がる。
闇に慣れた目を凝らすと、寝台の脇には水差しと椀の置かれた机があった。寝台の上でもぞもぞとにじり寄りながら手を伸ばして水差しを取り、中身を直接口にする。香りのついた甘い水が喉を滑り落ちていく。
……口移しされたのはこれだ。
「うぅ……」
口内を犯されたときの甘い痺れを感じて、思わず顔をしかめてしまう。しかし、口の中から甘みが消えていくと、また水が飲みたくて仕方がなくなった。もう一度飲んだら止めよう、そう思いながらもまた一口、やっぱりもう一口と飲んでいるうちにとうとう水差しを空にしてしまった。
「はぁ、腹減ったなぁ。もう帰りたい」
少し空腹が紛れはしたが、水だけでは物足りない。水差しを抱えた格好で情けないぼやき声を上げた時、扉を軽く叩く音がした。
「失礼いたします。灯りを持って参りました」
「えっ? ああ、ありがと」
丁寧な口調と共に入って来たのは、片手持ちの蝋燭立てを携えた老人だった。見かけの齢に似合わずしゃきりと伸びた背筋をした老人は、滑るように歩きながら灯りを点けていく。昼間とまではいかないが、暗闇に居たシタンからしてみれば眩しいくらいに室内は明るくなった。
「厠などは、あちらの部屋にございます。お使いなられますか」
「あ、そうなんだ……。うん、使わせてもらいたいかな……」
老人がついと手先を向けた寝室の壁に、黒みを帯びた木製の扉が設けられていた。水ばかり飲んで少しもよおしてもいたし、顔でも洗いたい気分だった。頷けば老人は穏やかに微笑みながらシタンの腕から恭しい仕草で水差しを取って机に戻してくれた。
「かしこましました。夕餉は既にご用意致しておりますので、直ぐにお出しいたします。まずは所用を済ませましょう。さあ、奥へどうぞ」
人の良さそうな老人に促され、寝台を下りておぼつかない足取りで立ち上がる。
「ご無理はなさらぬよう。ゆっくりと歩いてください」
「う、うん。ちょっと、腰が痛い……」
「でしたら、私めにおつかまりください」
「いや、そこまでじゃないから、大丈夫だよ。歩きにくいけど」
「左様ですか」
よろめきでもしようものなら支えようというのか、歩調を合わせて傍らに付き添う老人を気にしながら、まだ痛む体をやっとの思いで動かして隣室へと入った。そうして、諸々の用を済ませて寝台に戻ったシタンは、そこで自分の境遇をはたと思い返す。
老人の丁寧な態度に流されてすっかり忘れていたが、ここは領主の城なのだ。また対価を求められるにしても、ひとまず家に帰りたい。禁猟の期日まではそう遠くない。今のうちに出来るだけ狩りをして収入を得ておかなければならないのだから。それに、恐ろしい領主の元になど長く留まりたいと誰が思うのか。
「あ、あの、俺、どうなるのかな。家に帰りたいよ……」
眉尻を下げて情けない声で訴えると、老人は小さく首を横に振って眉根を寄せて困り顔で微笑む。悲し気にも見えるその表情に、自分が悪いことをしたつもりなどないのだが、罪悪感を覚えてしまう。
「私めはお仕えしている身ですので、どうにもして差し上げられません。そういったご相談は領主様になさられるのがよろしいですよ」
「え、あ、ごめん、そうだよな……」
「あの方は、貴方様を無碍に扱ってはならないと命じられました。きっと何かしら思う処が、お有りになるのでございましょう」
「そ、そうなのかな? だけどさ、あ、あんな……、いや、その……」
口ごもるシタンを前に、老人は労わり満ちた笑みを向けてきた。領主とシタンの間でなにが起こったのかなど、老人には知れているだろう。これ以上なにを訴えたところで、やぶ蛇なってしまうだけのような気がする。
「……な、なんでもない……。どうせろくに歩けないし、やっぱりここにいるよ」
なんとも居たたまれない気分になり、力なく肩を落として話を切り上げた。
「それがよろしいかと思われますよ。……では、夕餉をこちらへお運び致します。少々お待ちください」
老人は笑みを絶やさないまま小さく頭を垂れてから、静かに寝室を出て行った。
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