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国崩し・東瀬織と悪意の箱のこと

国崩し・東瀬織と悪意の箱のこと4

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 平松秀忠、33歳。
 男性、独身。
 職業、官僚。役所勤めである。それも中央官庁である。
 彼はエリートだった。
 エリートでなければならなかった。
 しかし、今や元エリートである。
 過酷な役所勤めの1年が終わった。
 最後の三ヶ月は地獄だった。
 仕事でしくじり、部下には侮られ、上司にはいびられ、同じく省庁務めの、しかも高級官僚である兄にはネチネチネチネチ小言を言われ、気が狂いそうだった。
 平松の精神を安定させるストレス解消法――それは帰宅と共に始まる。
 一人暮らしの都内のタワーマンションの一室、散らかった部屋に待つのは一風変わったサンドバッグ。
 ストレス解消用打撃引き受け人形、商品名〈凹凹くんMk.4V〉である。
「クッッッソァッッッ!」
 平松の蹴りが〈凹凹くんMk.4V〉の頭部に炸裂ッ!
 平松は肩幅が広い。ガタイが良い。
 背広を脱いで、ネクタイを振り乱して、ワイシャツの下の筋肉が脈動する。
 高校時代はスポーツマンだった。その方が進学、就職で有利に働くから箔付でやっていた。
 しかし素人の蹴りである。それもデスクワーカーの感情に任せた蹴り。醜いフォームでキレの欠けた一撃を、〈凹凹くんMk.4V〉は見事に一身で受け止めた。
『いってーじゃねーかよ 気をつけろバァカ……』
 〈凹凹くんMk.4V〉がスピーカーから男の声を発した。
 録音音声である。平松の兄の声だ。
 これは〈凹凹くんMk.4V〉の機能の一つだ。
 ムカつく奴の音声データを入力することで、実際に復讐したような気分になってスカッとすると好評な機能なのだ。
「気をつけろだぁ~~? テメーこそ目ん玉どこにつけとるんじゃゴミクソ兄貴がァ! いつまでもガキの頃みてェーーにエラソーな口叩いてんじゃあねェーーーーーッッ!」
 平松の怒声とビンタが〈凹凹くんMk.4V〉に飛ぶ!
『チッ……イッテ-ナ』
 スピーカーから聞こえる兄の声。
 ちなみに、この音声は昨年の新年会でわざと兄の足を踏んで録音したものだ。
 この〈凹凹くんMk.4V〉に、兄の声を吹き込むめに。
「偉そうに! フンッ! エラそうにッ! フンッ! いっつも見下しやがってぇ~~! お前に!フンッ! おン前にィ! フゥン! おゥ前に俺の何が分かるんじゃぁ~~~ッッッッッ!」
 何度も、何度も、平松は狂乱のビンタを打ち込み続けた。
 〈凹凹くんMk.4V〉のボディ表面は衝撃吸収用のウレタンとラバーに覆われている。
 彼はユーザーのストレスを優しく体で受け止めて、心のケアという御役目を立派に果たしていた。
 〈凹凹くんMk.4V〉は現代社会の理不尽にささくれた人々の心を癒すために作られた、機械の救世主(マシーン・メサイヤ)だった。
 過去に二代目凹凹くんがSNSで紹介されバズったことからベストセラーになり、「悪趣味」と批判されつつも未だにジワジワと売上を伸ばしている。
 主人がストレスと体力を使い果たすまで、〈凹凹くんMk.4V〉はひたすら現代人の歪みと痛みを受け止め続けるのだった。
 殴り続けるというのは意外と体力を使う。
 殴打開始から5分後――平松はダウンした。
「はーっ、はーっ! ふはーーっっ!」
 汗だくで息を切らして、フローリングの床にへたり込む。
 無駄に高い家賃のタワーマンションは防音そして断熱しよう、室内は帰宅前から暖房が効いている。
 そこで激しい運動をしたのだから、1月上旬でも汗が流れる。
 肉体的、精神的疲労に塗れた、臭い汗だった。
「うぅ~~……」
 平松は頭を抱えた。
 いつも、こうして酷い自己嫌悪に陥る。
 バカなことをしている。まともな人間の、大人のすることではない。
 学のない下々の庶民ならともかく、エリートのはずの自分がこんなことをしている……恥ずべき行いだ。
 今の自分は、惨めすぎる……!
「うぅ~~……ちくしょォ~~……ッッ!」
 いったい、どこで人生の歯車が狂ってしまったのか。
 平松は一流の大学を出て、祖父の代からのコネもあって財務省に入省した。
 確固たる学閥の庇護の下、安泰な官僚人生を送る自信があった。
 やるべきことはやっていれば相応に恵まれた人生になるのは当然のことで、給料が安いだの不幸だのと嘆く下々の人間は怠惰なだけなのだ。運命と世間を恨むのは筋違いなのだ――と信じて疑わなかった。
 しかし、平松は10年前に思い知った。
 順風満帆な人生というのは、邪魔者がいないだけの幸運な人生なのだと。
 一般的な人生とは得てして障害と悪意ある邪魔者に溢れており、連中は常に成功者の足を引っ張って、泥沼にハメようと狙っているのだと。
 果たして平松は底なしの沼に落ち、未だ沈み続けている。
 平松の家は代々官僚である。一種の世襲と言って良い。
 中央省庁に入るだけの資格、すなわち東大を卒業すれば後は学閥とコネが全てをエスコートしてくれる。
 中央省庁で出世するために最も必要なスキルは、責任逃れ。その一点に尽きる。
 新人時代こそ議員相手に法案説明という下っ端仕事を押し付けられるのだが、そこで議員連中の怠惰と無能ぶりを実感し、自分たちこそが国家を運営している! という確実な自信を得るのだ。
 当選一期目の若手議員ともなれば、レクチャー即ち説明会の場でアレコレと熱心に質問もしてくるのだが、官僚たちは彼らを内心
(どうせ来期にはいなくなるくせにでエラそうな口効いてんじゃねぇよ木端議員が……)
 とか
(質問すりゃ仕事した気になれんのか? 三流大学出のタレント議員が……)
 とか、このほか見下しているのだ。
 議員当選が二期、三期と続いて安泰になったベテラン議員に至っては、もはや仕事する気もないようで
「うんうん、なるほど、分かった分かった」
 と適当に相槌を打って流してくれるので、仕事相手としてはやり易くなる。
 衆愚政治と国家運営の本質を知り、霞が関の官僚たちは同僚に責任と面倒事を押し付け合って、うまく立ち回ることで国家運営のヒエラルキーの上層へと昇っていくのだ。
 兄、平松秀康は総務省の官房総括審議官をやっている。
 局長クラスの役職だ。
 つまりは、めちゃくちゃ偉い高級官僚である。
 対する弟、平松秀忠は財務省の外局務め。
 当初は外局でキャリアを積んで財務省に栄転する出世コースだったはずが、想定外のトラブルに巻き込まれた。
 10年前、形ばかりの財務監査役として送り込まれた先の医薬庁が、政治的スキャンダルと複雑な事情により解体され、平松の経歴にもミソがついた。
 そのまま本省に復帰する目処も立たず、半端な管理職として空しい日々を送っている。
 すなわち兄に対して相対的下級官僚に位置するわけで、親戚一同の集まる新年会などでは晒し者も同然なのであった。
「うぅ~~っっ……!」
 胃袋がキリキリと痛んだ。
 今年の正月、新年会のことを思い出してしまった。
 親戚のババァは兄貴ばかりに媚びを売り、自分の方には見向きもしなかった。
 祖父からも見放され、言葉には出さずとも「お前はもういらない」という意思を感じた。
 今の自分は、失敗作……!
 しかも、今の状態は底ではないのだ。
 聞けば、平松がこうなった原因の一つ、あの忌々しい男が、怪物が、南郷十字が政府に対して反乱を起こしたのだという。
 今は行方不明だそうだが、あのバケモノが簡単に死ぬわけがない。
 いずれ、とんでもないことをやらかす確信があった。
 そうなったら、奴との顔見知りというだけで自分にも責任が飛び火するのは明白……!
「うぼォえ!」
 想像するだけで吐きそうだった。
 腹の底で不快と不安が渦を巻いている。
 安酒と油物を許容量を超えて流し込んだようなムカつきが、胃袋を焼いている……!
 平松を慰めてくれるのは、心なき人形〈凹凹くんMk.4V〉のみ。
『お困り みたいですね』
 不意に、加工された音声が聞こえた。
 すぐ近くの〈凹凹くんMk.4V〉が言っている。それは入力した覚えのない音声だった。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
 突然の怪奇現象に平松はひっくり返った。
 〈凹凹くんMk.4V〉は、傾いた状態で静止していた。
『落ち着いてださいよ 平松さん?』
 まるでニュース番組のプライバシー保護された音声が、平然と会話を続けた。
 〈凹凹くんMk.4V〉は単なるサンドバッグ人形だ。ロボットではない。会話機能など実装されていないはずだ。
『分かり易く言いましょうか 私は あなたにバレないように この部屋に侵入して 痕跡も残さず こういう仕掛けが出来る人間です』
「は、はあ?」
『そして あなたを救える人間です』
 気味の悪い人形が、怪しげなセールスか勧誘めいた内容を話し始めた。
 平松は警察に通報するか、管理人に電話するか、それともここから逃げ出すかの三択が思い浮かぶ。
 しかし――
『平松さん あなたは 選ばれた人なんです』
 もう何年も聞いたことがない賞賛の言葉が、平松の心にぬるりと入ってきた。
「な、なん、だと……?」
『あなたの優れた才能を 私の主人のために使ってほしいのです』
「主人……? だれのことだ……?」
『あなたを苦境から救い出し 元通りの道に返してくれる そういう権力を持った人です』
 つまり、八方ふさがりの平松の現状を打破し、財務省の出世コースに復帰させてくれる……と解釈できる。
 だが俄かには信じられない。
 そもそも、こんな方法で接触してくる相手をどう信用しろというのか。
『まあ いきなり私を信じろ と言っても無理ですよね』
 〈凹凹くんMk.4V〉の向こうにいる何者かは、その程度の疑念は予測済みらしく
『明日 証を お見せしましょう』
 思わせぶりな発言を残して、通話を終えた。
 平松はその日、不安な一晩を過ごした。
 しかし、通報も何もしなかった。
 大きな不安の中に、僅かでも期待があったのは確かなのだ。
 そして翌日――期待は確信に近づいた。
 登庁と共に、異変が起きたのだ。
 いつもネチネチと小言の煩い、忌々しい課長がネットのニュースに出ていた。
 電車内での痴漢で現行犯逮捕、と。
 平松のデスクのパソコンには、一通のメールが入っていた。
 フリーメールのドメインから送られてきた、短いメール。
『まず一人、あなたの敵を消しましたよ』
 信用の証を見せられて、平松は顔を覆った。
「ぷふっ……ぷくくくくくく……」
 笑いを手で抑え、誰にも見られないように、覆い隠した。
 確信した。
 誰かを陥れることで、追い落とすことで、得をする人間がいるのだ。
 権力闘争に加担するのは。多少のリスクはあるだろう。
 だが、チャンスであることに変わりはない。
 このまま逃げ道もなく定年まで落ちこぼれとして生きていくより、ずっとマシな選択肢が見えた。
「むふーっ! ぷくくくく……いいぞ、いいぞ……いいじゃないか、悪魔との契約……! 上等……!」
 俺にもやっと運が巡ってきたのだと――平松秀忠は確信した。
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