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第四話
ヒト・カタ・ヒト・ヒラのこと23
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氷川朱音は、学校に通うようになった。
三か月間休んでいたので学級委員はとっくに解任されており、何の権力も役職もないヒラ生徒となったわけだが、不思議と人を惹き付ける雰囲気が新たに備わっていた。
長期休学のブランクを感じさせない堂々とした振る舞いで、以前より明るくフレンドリーに男女の垣根なく談笑し、上級生や教師ともハッキリと対等に意見を交わす。
クラスメートは口々に
「朱音ちゃんって、なんだか大人っぽくなったよね~」
とか
「氷川さん、なんか可愛くなったっつーか……」
とか
嫌味のない賞賛を送り、憧憬の眼差を向け、一種の崇拝めいた雰囲気が漂い始めていた。
以前のように園衛が週に一回でも学校の様子を見に来ていれば異常に気付いたのだろうが、現在は宮元家の存在意義をかけた厄介事の最中であり、朱音は野放図に自由を謳歌していた。
夕暮れ、下校時間、クラスメートに笑顔で別れを告げて、田舎の自転車専用道路を暫く歩くと、帰り道に人気がなくなる。
人目のない、一人ぼっちの逢魔が時に、朱音は軽やかにステップを踏む。
「そう……私は自由♪ 全部から解放されたぁ~自由なのぉっ♪」
暮れなずむ空に、踊り狂うは影法師。
跳ねて、回って、歌って、笑って、踊り狂って、不意にぴたりと動きが止まった。
「はい……分かっていますとも。私の自由は束縛される。私の自由は捧げられる。全てはご上意のままにぃ……」
陶酔の面持ちにて、夢見心地に。
ここにはいない誰かに向かって、氷川朱音は忠誠を示した。
傍目から見れば狂っているのか、あるいは中学生なら誰にでもあるちょっとした青春の発作か、いずれにしても人目がないからやっているので問題ない。
帰宅の道程を大きくはずれて、15分ほど歩いて、朱音は目的地に着いた。
県道から大分離れた一軒家。
小さな頃から知っている、馴染みの家。
表札に書かれた姓は〈東〉の一文字。
ここは幼馴染の、東景の家だ。
外はもうすっかり暗いのに、家に明かりはついていない。
だが、中に人がいるのは分かっていた。
インターホンのボタンを押す。
安っぽい電子音が家中に響くのが聞こえた。
だが、無反応。
10秒待って、もう一度押す。
電子音に紛れて、階段を降りる音が聞こえた。
服の擦れる音、慌てて靴を履く音が聞こえて、30秒後に玄関のドアが開いた。
「こんばんは、東くん♪」
闇の中で、朱音は笑った。
寒気のするような笑いだった。
夜の冷気が形になったような、凄絶な微笑みだった。
尤も、家の中の景には暗くて見えていないのだが。
「なに……なんか用……?」
景には生気がなかった。
無理もない。
同居人の瀬織が死んで、景はまた学校に来なくなった。
打ちひしがれて、泣き疲れて、寝間着のまま着替えもせず、幼馴染の哀れな姿があんまりにも滑稽で
朱音は吹き出した。
「むフッ……かわいソ」
震える声で嘲笑う。
景は朱音の意味の分からない言動に怒るでもなく、面倒臭そうに溜息を吐いた。
「なに……なんなの? 用がないなら帰ってよ……」
「用があるからぁ……私は来たの」
「だからなに……」
「お告げを伝えにぃ……来たのぉ……」
朱音は歓喜に喉を震わせていた。
朱音の精神はいま、別の何かと繋がっていた。
自我の境界が、濡れた砂糖の香りを放ちながら、ぐずぐずに溶けかけていた。
敷居の外で、制服の内側で、氷川朱音は神懸り湿っていた。
「花は枯れて、若葉は芽吹いて、また花が咲くぅ……」
「えっ、な、なに……?」
「冬は次の命に備える季節。死は生の終わりではなく新しい始まりなんですよ……。だから、わたくしは冬が好き……」
暗がりの中で、朱音はぶつぶつ意味の分からない内容を口走る。
その異様さに景は恐怖した……が、聞き覚えのある言葉に反応した。
「朱音ちゃん? いま、なんて……?」
「ウフフフフフ……二度も言わない。巫女のお告げは一度きりよ」
「は? 巫女?」
「そう。私は巫女として選ばれたの。神様の意思を代弁する巫女。特別な存在なの……。普通じゃないのぉ……キャハハハハ!」
仰け反り、笑う、人外のように。
夜の空気が心地良くて、選ばれた存在になれた優越感と達成感が幸せすぎて、邪気と無邪気の頂点で、朱音は飛び跳ねていた。
「ウヒヒヒひひひ! せいぜい恋焦がれてねえ、東くぅん! きみがあの御方を想えば想うほど、私の中の種が育つのぉ!」
「種? あの御方? なっ……なんのことさ!」
「土が良ければ、種はどこにでも根付くもの。私は土。あの御方を育む苗床の土ぃぃぃぃ……」
「だから誰のことだよ、それっ!」
思わず、感極まって景が玄関の敷居を越えた。
跨いではならない境界を越えて、夜の世界の住人と成った少女に触れた。
景が失敗に気付いたのは、間近で朱音の顔を見た瞬間だった。
触れてはならぬモノに、触れてしまった。
「誰ってぇ……? 鈍いなあ……。ラブコメ漫画の主人公みたいに鈍いぃぃぃ……。それとも、ホントは分かってるくせに、わざわざ私の口から聞きたいのぉ……?」
「ひっ……」
身の毛が――よだつ。
闇の中、乱れ髪。
見知った少女の両目は青白く、瞳の奥に鬼火が灯っていた。
「哀れな人間……教えてあげるよ。生まれ変わった私が全てを捧げた、偉大な神様の御名前をぉ……」
朱音の冷たく濡れた唇が、はむっ……と景の耳たぶを噛んで
「東瀬織……さま」
死んだはずの少女の名前を、鼓膜の奥に流し込んだ。
氷川朱音は以前と変わった――と、人に良く言われる。
人が変わった。人から変わった。
人でなしに、生まれ変わったのだ。
三か月間休んでいたので学級委員はとっくに解任されており、何の権力も役職もないヒラ生徒となったわけだが、不思議と人を惹き付ける雰囲気が新たに備わっていた。
長期休学のブランクを感じさせない堂々とした振る舞いで、以前より明るくフレンドリーに男女の垣根なく談笑し、上級生や教師ともハッキリと対等に意見を交わす。
クラスメートは口々に
「朱音ちゃんって、なんだか大人っぽくなったよね~」
とか
「氷川さん、なんか可愛くなったっつーか……」
とか
嫌味のない賞賛を送り、憧憬の眼差を向け、一種の崇拝めいた雰囲気が漂い始めていた。
以前のように園衛が週に一回でも学校の様子を見に来ていれば異常に気付いたのだろうが、現在は宮元家の存在意義をかけた厄介事の最中であり、朱音は野放図に自由を謳歌していた。
夕暮れ、下校時間、クラスメートに笑顔で別れを告げて、田舎の自転車専用道路を暫く歩くと、帰り道に人気がなくなる。
人目のない、一人ぼっちの逢魔が時に、朱音は軽やかにステップを踏む。
「そう……私は自由♪ 全部から解放されたぁ~自由なのぉっ♪」
暮れなずむ空に、踊り狂うは影法師。
跳ねて、回って、歌って、笑って、踊り狂って、不意にぴたりと動きが止まった。
「はい……分かっていますとも。私の自由は束縛される。私の自由は捧げられる。全てはご上意のままにぃ……」
陶酔の面持ちにて、夢見心地に。
ここにはいない誰かに向かって、氷川朱音は忠誠を示した。
傍目から見れば狂っているのか、あるいは中学生なら誰にでもあるちょっとした青春の発作か、いずれにしても人目がないからやっているので問題ない。
帰宅の道程を大きくはずれて、15分ほど歩いて、朱音は目的地に着いた。
県道から大分離れた一軒家。
小さな頃から知っている、馴染みの家。
表札に書かれた姓は〈東〉の一文字。
ここは幼馴染の、東景の家だ。
外はもうすっかり暗いのに、家に明かりはついていない。
だが、中に人がいるのは分かっていた。
インターホンのボタンを押す。
安っぽい電子音が家中に響くのが聞こえた。
だが、無反応。
10秒待って、もう一度押す。
電子音に紛れて、階段を降りる音が聞こえた。
服の擦れる音、慌てて靴を履く音が聞こえて、30秒後に玄関のドアが開いた。
「こんばんは、東くん♪」
闇の中で、朱音は笑った。
寒気のするような笑いだった。
夜の冷気が形になったような、凄絶な微笑みだった。
尤も、家の中の景には暗くて見えていないのだが。
「なに……なんか用……?」
景には生気がなかった。
無理もない。
同居人の瀬織が死んで、景はまた学校に来なくなった。
打ちひしがれて、泣き疲れて、寝間着のまま着替えもせず、幼馴染の哀れな姿があんまりにも滑稽で
朱音は吹き出した。
「むフッ……かわいソ」
震える声で嘲笑う。
景は朱音の意味の分からない言動に怒るでもなく、面倒臭そうに溜息を吐いた。
「なに……なんなの? 用がないなら帰ってよ……」
「用があるからぁ……私は来たの」
「だからなに……」
「お告げを伝えにぃ……来たのぉ……」
朱音は歓喜に喉を震わせていた。
朱音の精神はいま、別の何かと繋がっていた。
自我の境界が、濡れた砂糖の香りを放ちながら、ぐずぐずに溶けかけていた。
敷居の外で、制服の内側で、氷川朱音は神懸り湿っていた。
「花は枯れて、若葉は芽吹いて、また花が咲くぅ……」
「えっ、な、なに……?」
「冬は次の命に備える季節。死は生の終わりではなく新しい始まりなんですよ……。だから、わたくしは冬が好き……」
暗がりの中で、朱音はぶつぶつ意味の分からない内容を口走る。
その異様さに景は恐怖した……が、聞き覚えのある言葉に反応した。
「朱音ちゃん? いま、なんて……?」
「ウフフフフフ……二度も言わない。巫女のお告げは一度きりよ」
「は? 巫女?」
「そう。私は巫女として選ばれたの。神様の意思を代弁する巫女。特別な存在なの……。普通じゃないのぉ……キャハハハハ!」
仰け反り、笑う、人外のように。
夜の空気が心地良くて、選ばれた存在になれた優越感と達成感が幸せすぎて、邪気と無邪気の頂点で、朱音は飛び跳ねていた。
「ウヒヒヒひひひ! せいぜい恋焦がれてねえ、東くぅん! きみがあの御方を想えば想うほど、私の中の種が育つのぉ!」
「種? あの御方? なっ……なんのことさ!」
「土が良ければ、種はどこにでも根付くもの。私は土。あの御方を育む苗床の土ぃぃぃぃ……」
「だから誰のことだよ、それっ!」
思わず、感極まって景が玄関の敷居を越えた。
跨いではならない境界を越えて、夜の世界の住人と成った少女に触れた。
景が失敗に気付いたのは、間近で朱音の顔を見た瞬間だった。
触れてはならぬモノに、触れてしまった。
「誰ってぇ……? 鈍いなあ……。ラブコメ漫画の主人公みたいに鈍いぃぃぃ……。それとも、ホントは分かってるくせに、わざわざ私の口から聞きたいのぉ……?」
「ひっ……」
身の毛が――よだつ。
闇の中、乱れ髪。
見知った少女の両目は青白く、瞳の奥に鬼火が灯っていた。
「哀れな人間……教えてあげるよ。生まれ変わった私が全てを捧げた、偉大な神様の御名前をぉ……」
朱音の冷たく濡れた唇が、はむっ……と景の耳たぶを噛んで
「東瀬織……さま」
死んだはずの少女の名前を、鼓膜の奥に流し込んだ。
氷川朱音は以前と変わった――と、人に良く言われる。
人が変わった。人から変わった。
人でなしに、生まれ変わったのだ。
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