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第四話

ヒト・カタ・ヒト・ヒラのこと6

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 しかしながら、南郷は面と向かって「お前の弁当なぞいらん。帰れ」とは言えなかった。
 そこまで徹底的に突き放すのは良心が痛むし、仕事上の人間関係にダメージが大きいと判断した。
 結局、人目を避けて分舎裏の土手で弁当を開けることになった。
 弁当箱の中身は、いなりずし、かんぴょうの海苔巻、赤飯の握り――俗にいう助六寿司だった。
 これが鏡花の手作りなのは、一口食べて分かった。
「ぬ……」
 不味い。
 不味いのだ。
 信じられないほどに、不味い。
 リアルに、地味に、本能的に拒絶する程度には、不味い。
 最初に食べた赤飯の握りは、硬めに炊いたのだろうが、生煮えでアルファ化しきっておらず、ボソボソと口の中でバラける。
 更に悪いことに、何の味付けもされていない。小豆の豆臭さだけが餅米に浸透していた。
 南郷は、口の中に溜まった咀嚼物を理性で強引に飲み込まざるを得なかった。
 こちらの気など知らず
「あの……どうですか、南郷さん?」
 鏡花は呑気に味の感想なぞ求めてきた。
 悪気は無いのだと思う。
 誰にでも失敗はあるものだ。
 続いて、箸で海苔巻の感触を確かめる。確かな弾力があった。米に問題ないことを確認して、南郷は口に運んだ。
「ぐっ……」
 舌の上に乗せた瞬間、強烈な生臭さが鼻まで突きぬけた。
 かんぴょうから凄まじい鉄の臭いがする。
 恐らく、乾物から戻すのに失敗しているのだ。
 失敗したまま調理した結果、鉄臭い煮物に仕上がってしまったのだ。
 南郷は鼻呼吸を止めたまま、一思いに飲み込んだ。
 青ざめる南郷の気も知らず
「あの……私、早起きして作ったんです! ネットでレシピ見ながら、初めてだけど頑張りました!」
 鏡花は健気に頑張ったアピールをしてきた。
 初めての料理……言い換えれば南郷はモルモットにされたというわけだ。
 自覚なき悪意に悶絶、白目を剥きつつ、南郷は最後の一品、いなりずしに手を付けた。
 流石にいなり寿司で失敗するわけがなかろう。
 市販の油揚げを煮て酢飯を入れるだけだ。なんなら、いなり用の調理済み油揚げも売っている。
 これさえマトモな味なら、今までの苦痛は大目に見るつもりだった。
 箸でいなりの重量を感じながら、丸ごと口に運んだ。
 ボリっ……と、してはならない音がした。
「うぅぅぅぅ……」
 いなりの中に、具が入っていた。
 火の通っていない、味のしない野菜のブロックが、無数に詰め込まれていた。
「私、南郷さんの好きなものって知らないんですけど、体に良さそうなお野菜をたくさん――」
 鏡花の乙女ちっくな独り言。
 南郷はボリボリと出来損ないの料理を噛み砕き、胃袋に落とし込むと、箸を置いた。
「なあ……鏡花さんよ」
「あっ、私のことは呼び捨てにしてください! 南郷さんより年下ですし、人間的にも全然及びませんし………」
「味見したのか……これ」
「あっ……急いでいたので、そのままお弁当箱に入れたんですけど……」
 南郷は頭を抱えた。
 なんたる思慮の浅さ。人に物を食わせる域に達していない。味見もしていないモノを他人に食わせるなど言語道断。こいつ絶対、学生時代は家庭科の成績悪かったろうなと確信。人間的に未熟すぎて、説教する気も起こらなかった。
「……次からは味見して持ってこい」
「えっ? 次も食べてくださるんですか!」
 鏡花の勘違い南郷に思わず殺意を抱かせるのに十分すぎたが、言葉選びを間違った南郷にも責はあるので、ここは堪える。
 冷静に、できるだけマイルドに、分かるように話してやらねばと思った。
「他人に食わせるなら、自分が食べて美味しいと思ったものだけにしろ」
「えっ? はい……?」
 鏡花は南郷の言っていることを分かっているのか、分かっていないのか、もうこの際どうでも良かった。
 今は、弁当箱を視界に入れたくなかった。
「なんで……俺に弁当なぞ持ってくるのか……!」
 有難迷惑である。
 正直、鏡花のことは好きか嫌いかで分別すれば後者にあたる。
 エリートぶった学歴だけ高い世間知らず現場知らずの傲慢小娘なぞ、南郷の機嫌が悪ければ殴り殺しているかも知れなかった。
 だが何を勘違いしたのか、先日の事件以来、鏡花の南郷への態度は180°転向していた。
「私……正直、南郷さんのことは苦手でした。無職で、低学歴で、住所不定の男の人なんて、関わりたくなくて、とても迷惑で……」
「ケンカ売ってんのかい……」
「ちっ、違います! 私、南郷さんのおかげで、人を見る目が変わったんです。経歴なんて上辺だけで、人を判断すべきじゃないと……南郷さんが教えてくださったんです!」
 人を下げたり持ち上げたりと、上下移動の幅が大きい。話していて疲れる。
 南郷が憔悴していると
「あっ……いえ、違うんです! 私、別に園衛様と南郷さんの間に割り込むとか。そういうのじゃなくって……」
 鏡花がまた妙な独自解釈を始めた。
「私……南郷さんのことを……兄さんみたいだって……思って……」
 鏡花の兄といえば、先日に南郷が戦った改造人間でもある。
 その兄を殺した当人である南郷を、肉親と同一視するなど……気の迷いが過ぎる。
「不健全だな……。兄貴の仇にそういう物言いは……」
「ですから、その、違うんです! 義兄さんと南郷さんは勿論、違う人間です! 全然似てません!」
「だから?」
「もし……私に実の兄さんがいたら、南郷さんみたいなのかな……って。あの、私、そんな感じで、南郷さんのこと、尊敬しちゃってて……っ」
 しどろもどろに、鏡花は赤裸々に本音を暴露した。
 やはり、妙な懐かれ方をしていると……南郷は反応に困った。
 鏡花は早くに家族を亡くしていると、園衛から聞いている。
 人生の中で欠落してしまった家族関係を、南郷で埋めたいという無意識の欲求があるのかも知れない。
 ここで鏡花を切って捨てるのは容易いが……それは人間として配慮に欠ける行為だと思う。
 少しだけ付き合って、心の隙間を埋めてやるのもまた救済だろう。
 他人を救うのは自分を救うことになると――誰かが言っていた。
「あの……ご迷惑……でしたか?」
 不安げに、鏡花が問うてきた。
 鬱陶しい人間関係だ。こういうものに巻き込まれて、余計なものを背負い込んで、守るモノが増えるから、人間は弱くなる。日和る。強度が下がる。切れ味が鈍る。
 かといって――人の好意を容易に突き離せないのが、今の南郷十字だった。
「俺は……人様に尊敬されるような人間じゃない」
「私は、そうは思いません。人知れず、ずっと一人で戦ってきたことも。空理恵様を助けてくださったことも。義兄さんの苦しみを……終わらせてくださったことも。全て、立派な行いだと思っています。だから……南郷さんのこと、尊敬させてください」
「じゃあ、好きにすると良いさ」
 南郷は素っ気なく、消極的肯定で応えた。
 そうすることで鏡花が満たされるのなら、崇拝でも憧憬でも勝手にすれば良い。正直、持ち上げられるのは気分が悪いのだが、割り切っていくのが人間関係だ。
 一方、鏡花は自分の意思が全肯定されたと早とちりしたのか、少女のように目を輝かせていた。
「好きにして良いんですか? じゃあ、その……に、兄さんって……お呼びしても……」
「……冗談だけにしてくれ」
「そ、そうですよね……。空理恵様みたいな十代の女の子ならともかく、二十歳超えた私に兄さんとか呼ばれてもイヤ……ですよね?」
「だから、そういうことじゃなくてね……」
 やはり、他人と分かり合うのは果てしない困難であると……実感せざるを得なかった。
「あっ……そうだ、南郷さん! 実は、お弁当はついででして――」
 会話に区切りがついた所で、鏡花は思い出したようにバッグの中身を漁った。
「――実は、折り入ってお話したいことがありまして……」
「今度はなんだよ……」
 どうせまた、仕様もないことだろうと辟易する南郷だったが、鏡花の表情が引き締まっていることに気付いた。
 鏡花は、仕事の顔をしていた。
「園衛様より先に、南郷さんにこれを見て頂こうと……」
 鏡花は、A4サイズの紙の束を差し出した。
 何かの書類のコピーだろうか、コピー元であるオリジナルの掠れた印刷が、そのまま複製されている。
 書類の標題は〈ウ計画 進捗報告書 1982年度〉と記されていた。
「なんだい、そりゃ」
「先日の事件を調べている内に、手に入れたものです。ある総務省OBの遺品のコピーなんですが……」
 先日の件――というのは、日本政府にとって既に用済みの過剰戦力であり、裏の事情に精通している南郷と園衛を暗殺するために何者かが刺客を放った一件のことだ。
 鏡花は暗殺の言いだしっぺを探っていたのだろうが、それにしては書類の作製年度が古すぎる。
 40以上年前には。園衛も南郷も存在していない。
「ふん?」
 一体なんの書類なのかと、南郷はページを捲った。
 そして、顔をしかめた。
「なんだこれ……?」
 書類の中身は、全て黒塗り。
 あらゆる文章、あらゆるダイアグラム、人名や記名に至るまで一切合切が
「黒、黒、黒、黒……真っ黒じゃないか」
 印刷ミスでインクでもぶち撒けたかのような有様だった。
 ページを捲り続けて、最後の頁に達すると、最後の行に唯一黒塗りされていない一文を見つけた。
「千秋万歳。Uは万民にとこしえの幸福を与えたまう……。なんだ、この……ポエム?」
 意味が分からない。
 ポエムの意味も、そんなポエムが掲載されているのも、これだけが黒塗りされていないことも。
 そもそも、黒塗りの詩集なぞ芸大の学生の作った前衛芸術だか現代アートとしか思えないのだが――
「それ……公文書なんですよ。総務省の……」
 鏡花が、更に理解を苦しめるようなことを……口にした。
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