ヒト・カタ・ヒト・ヒラ

さんかいきょー

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第三話

53:明日への帰り道

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 崩れていく。
 長い……長い悪夢が、音を立てて崩れ落ちていく。
 かつて多くの改造人間を作り出した、暁のイルミナの拠点跡は最後の時を迎えていた。
 壁面のいたる所に大小の破孔が生じ、すぐ傍の東京湾から膨大な浸水が進行していた。
 床面は原理不明の砲撃の直撃を受け、コンクリートが砂と化して液状化、更には分子運動の停止により氷結、シャーベット状の沼と化して沈んでいく。
 その沈みかけた一角に、エイリアスビートルの残骸が転がっていた。
 四分割された内、頭部の付いた部分だけが辛うじて残存している。とはいえ、頭以外に残っているのは胸と肩の一部分だけだ。生命活動を維持できる状態ではなかった。
 体表も石灰化が始まり、絶命は時間の問題でしかない。
 勝敗は決したのだ。
 そんな惨めな敗者の残骸の傍らで、園衛が身を屈めた。
「言い残すことは……ありますか」
 道は違えてしまったが、旧知の仲である。
 せめて遺言くらい聞いてやるのは、人として当然の情けであろう。
 エイリアスビートルは、苦しげに首を傾けた。
「義妹……鏡花には……俺は、殺されて当然のゴミクズで……バケモノだったと……言ってくれ……」
 消え入りそうな声の懇願だった。
 園衛は答えなかった。是か非であるなら、非なのだろう。そんな嘘は吐けないと……。
「――バカな奴め」
 背後からの声に、園衛は振り返った。
 南郷だった。
 出血する脇腹を抑えながら、エイリアスビートルを見下ろしていた。
「俺を殺したいなら……そんなバケモノになる必要なんかない。人間のまま、真正面からブン殴りに来れば良かった。素手が怖いならナイフでもハジキでも持ってくりゃ良かったんだ。アンタは……バカだよ」
 侮蔑、軽蔑、そして僅かな同情の混じった発言だと、園衛には分かった。
 エイリアスビートルは、どう受け取ったのか……。
 南郷の方を見ていない。闇の遙か天上に、感情の読めない目を向けていた。
「お前に何が分かる……。無力な、ただの人間だった俺は……こうするしか……」
「ああ、そうかい……。俺も、ただの人間なんだがね……」
 皮肉のようで、説得のようでもある南郷の物言いは、そこで終わりだった。
 敵と分かり合う必要などない。あるいは敗者の心まで蹂躙するのは図々しいとでも思っているのだろう。
「グッ……ゥァ……」
 南郷が呻いて、脇腹を抑えた。出血が酷い。
 止血しようと、園衛が立ち上がった。
「南郷くん!」
「うるさいな……。小娘みたいに騒ぐなよ……。ゴホッ! あんたらしくない……」
 応急処置をしようにも、包帯すらないのだ。手の施しようがないから、南郷は事実を伝えただけだ。
 そしてエイリアスビートルもまた死に向かって往く。石灰化が進行する。バキバキと音を立てて、石灰化した肉体が崩壊し始めた。
「南郷……俺は死んでもお前を許さん……。この世に恨みが残るなら……未来永劫お前を呪ってやる……!」
「なんだ? 俺に謝ってほしいのか? 冗談じゃねえ……ふざけろ……」
「いつか……お前を……呪い殺して……ッ」
 徹底的な対話と相互理解の拒絶で、お互いを突き放す。
 あまりにも悲しすぎる最期だと……園衛は溜息を吐いた。
「南郷くん……」
 せめて、もう黙ってほしいと口を挟もうとした。
 その時、園衛は視界の隅に小さな光を見つけた。
 崩壊していく床面で、何かがうっすらと、赤く光っている。
 光の正体を確かめるより早く、南郷がそれを指差した。
「生憎だが、あんたのミチヅレは……俺じゃないと思うぜ……?」
「な、に……?」
「見えるか? あの、花……」
 南郷の指差す方向に、エイリアスビートルが首を上げた。既に筋肉の石灰化も進行している。僅かな動きですら、体表がひび割れ、崩れていく。死を早めるだけの運動だった。
 それでも、死にゆく改造人間は動いた。
 この期に及んで、南郷が自分を欺くなどとは露とも思っていない。
 花と……花という言葉を聞いてしまったから。
「オオ! オォォォォォ……ッッ!」
 エイリアスビートルの目が見開かれ、嗚咽のような声が漏れた。
 その視線の先には、一輪の薔薇が咲いていた。
 こんもりと積もった灰の上でぼぅっと光る赤い薔薇は、誰かの魂の欠片なのかも知れなかった。
「いち……か……」
 愛する人の名を呼びながら、エイリアスビートルは倒れた。
 もはや、首を動かす力すらなかった。頭部はほぼ石灰化している。既に視覚も失われ、薔薇の赤が瞳孔に焼き付いて残るだけだった。
 あとは闇の中で、孤独に朽ちるのみ……。
 だが不意に、体が動くのを感じた。
 何者かに体が引き摺られている。
「ああ……面倒くさぁ……」
 南郷のイラつくような声がした。
 南郷が、サザンクロスが、憎むべき相手が、自分の体を引き摺っていると、エイリアスビートルは気付いた。
 ――何のために?
「なんの……つもり……だ」
「うるさい……黙って死ね……。ただの気紛れの大サービスだ……」
 南郷が悪態を吐いていると、また別の腕がエイリアスビートルを掴んだ。
「南郷くん……。キミという男は……!」
 園衛の声がした。
 呆れたような、だが嬉しそうな声を出して、南郷と共にエイリアスビートルを、どこかに引き摺っていく。
 暫く移動させられて、エイリアスビートルの体は床に下ろされた。
「右大さん……一花さんは、そこにいますよ」
 エイリアスビートルの耳元で園衛が優しく囁いた。
 もう何も見えない。感じない。耳も遠くなっていく。だが、傍らに妻がいると思うと……右大高次は少しだけ楽な気分になれた。
 辛うじて声帯が動いてくれると願って……右大は声を搾り出した。
「南郷ゥ……礼は……言わん……ぞ……」
「いらんわ……。とっとと逝っちまえ……」
 南郷の声は、もう聞こえていなかった。
 お互いの悪態が言い終わった時には、エイリアスビートルの命は消えていた。
 無表情な頭部に深い亀裂が入った。完全な石灰化……すなわち、改造人間の死。
 右大高次だったモノの亡骸は、小さな薔薇に寄り添うように横たわっていた。
 知人の最期を見届けて、園衛は湿っぽい溜息を吐いた。
「……右大さんの魂は……これで救われた。きっと、一花さんと同じ所に――」
「俺は……死後の世界なんて……信じてませんよ」
 気紛れなリアリストは、そう言って膝を着いた。
 南郷の体からは、ついに立つ力も失われていた。
「うっ……ぐぁ……ゴホッ!」
 マスクのエアフィルターから大量に吐血して、南郷は崩れ落ちた。
 その足元のコンクリートが、液状化した底面にずるりと飲み込まれていく。
「南郷くんっ!」
 園衛はとっさに手を伸ばすが、南郷には届かない。南郷も腕を伸ばす力が、気力がなかった。
 消えかける意識の中で南郷が死を受け入れようとした時、頭の中で声がした。
(まだダメだよ……)
(死なせてあげない……)
 遠い昔に南郷が自ら手にかけた、世界で一番愛しい少女の声だった。
 遠い昔に南郷が殺すしかなかった、世界で一番愛しい魔女の声だった。
 マフラーの呪布に残留した彼女の怨念が、まだ南郷を苦界に繋ぎ止めようとしている。
「勘弁してよ佳澄ちゃん……もう楽にさせてくれよ……」
 幼馴染を殺してから初めて、南郷は弱音を吐いた。
 戦いは全て終わった。復讐をするのも復讐されるのも終わった。
 だから、この悪夢から解放してくれ――。
 男が初めて抱く弱々しい願いを、衝撃と叫びが拒絶した。
「死なせんぞ! 南郷くんッッッッ!」
 頭上から、園衛の声。
 同時に、首を引っ張られる衝撃と痛みが、南郷の意識を覚醒させた。
「ウッ……?」
 南郷の首に巻かれたマフラーが、園衛の腕に巻きついていた。
 首吊りの形で、南郷は呪いに殺されながら引き上げられていく。
 殺すのか助けるのか判然としない奇妙な状況。
 園衛は思わず笑いを零した。
「ハハッ! そのマフラーの怨念は、とんだツンデレだなあ! キミを殺したいのか助けたいのか良くわからん!」
 そして南郷をある程度引き上げると、腕を掴んだ。
「私は! この力で人を救うと決意した! だから、キミも救う!」
「ここで助けなくても……俺は、もう……」
「うるっさぁぃ! 私のワガママのためにィ! 黙って私に救われろォォォォォォォォッ!」
 圧倒的な精神力と腕力と、決断力を一方的に押し付けて、宮元園衛は南郷十字を引っ張り上げた。
 まとわりつく地獄の氷泥を振り払って、死の泥沼から愛と熱情とで抱き上げた。
 正確には――肩に担ぎ上げた。
 あまりロマンチックな姿ではないが、人を運ぶにはこの方がやり易い。
「さあ、帰るぞ南郷くん! 家に帰るまでが戦争だッ!」
「勝手に……あなたの家を……俺の家に……」
「帰ったら! 肉を食おう肉を! 私は年齢的に量を食うのが少しキツくなってきたから、いい肉を適量食うぞ! ちなみに! キミの仕留めたイノシシじゃあない! あのイノシシはオスだった! 冬のオスは食えたもんじゃない!」
「俺の話……聞いて……」
「私も若い頃、野営した時にイノシシ仕留めたから知ってるぞ! 澪の奴はドン引きしてたがな! ハハハハハハ!」
 肩の南郷の呻き声を完全に無視して、園衛は上に向かって跳んでいく。
 崩れ落ちる階段を、コンクリートの壁を足場にして、超人的な脚力で駆け上がっていく。
 奔放だった若き日に、一人の戦士だった少女時代に還ったように、高らかに、あけっぴろげに笑いながら、宮元園衛は悪夢の出口を目指すのだった。
 愛する男と共に進む、明日への帰路に――憂いなし。
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