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第三話

剣舞のこと・舞姫は十字星に翔ぶ12

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 〈タケハヤ〉と装甲服の修理に関して、南郷は小美玉分舎に何度も赴くことになった。
 個人用にカスタマイズされた装備品の調整には使用者の同伴が不可欠であるし、特に〈タケハヤ〉に関しては七年間に渡って非正規の整備を繰り返したため、正常な状態への復帰にひどく手間取っていた。
「お前ェ、この人工筋肉なんだよツギハギじゃねーか! どっから持ってきたナニくっつけたんだよ!」
 ガレージにて、四方山が解放された〈タケハヤ〉の腕部を指差して叫んだ。
 摩耗し尽くした正規部品を補うように、非正規の人工筋肉がフレームに適当に張り付けられている。これで動作するのが信じられない、整備した奴はどういう神経をしているのかと、プロの観点で激怒していた。
 整備した当人である南郷も、流石に責任を感じているようだ。
「運送会社で使ってる作業用倍力服のパーツを使ったんだ……」
「そりゃ部品作ってるメーカーは同じだけどよォ、軍用と民生用じゃリミッターの制限値も違うし、そもそもコイツのドライバが対応してねぇからバグだらけで……ああああああああ!」
 四方山はモニタに表示される〈タケハヤ〉のOSに蓄積された不具合の山盛りを前にして、頭を掻きむしって絶叫。
 現代では民間の輸送業者等でも倍力服、つまりパワードスーツは広く普及している。それらは人工筋肉駆動の外骨格式のスーツが主流で、マイコンとAIによるモーションアシストにより、殴る蹴るといった危険な動作は制限されている。
 人工筋肉自体も打撃等に耐える構造ではないので、戦闘用に用いた場合のハード面への負荷は計り知れない。
 四方山は憔悴した面持ちで南郷を睨んだ。
「OS再インストールしちゃダメか」
「それは勘弁」
「新しいOSあるぞ。今年度から配備が始まった正式採用機の」
「使い慣れた方が良い」
 パソコンの古いOSに固執する年配ユーザーのような頑固さであった。
 四方山は南郷との対話を諦めて、モニタに向き直った。
「目障りだからとっと失せろ! テメーのせいでヘルプ呼ばなきゃならんわ!」
「ああ……」
「古いバージョンのOS弄ってる子いただろ! 所長に連絡取ってもらえ! 大至急!」
 四方山はもう南郷のことは眼中になく、部下の隊員に向かって指示を飛ばしていた。
 ここに突っ立っていても仕様がないので、南郷は別の場所で別の作業を進めることにした。
 〈装輪機高機動運用研究室〉。
 そこは坐光寺の部屋だった。
 部屋の中は乱雑で、床には書類や資料の詰まったダンボールが積み重なり、デスク上には工具や文具、サプリメントやレシートが散乱する混沌とした様相であった。
 掃除もしていないようで、棚やパソコンケースには埃が積もり、天井付近には蜘蛛の巣、書類の隙間に紙魚が潜り込んでいくのも見えた。
 デスクの横には、デルタムーバーのプラモデルまで置いてある。
 デルタムーバーとは、各国の軍隊が配備している市街戦用の有関節装輪装甲車のことだ。見ようによっては、四本足のロボットに見えないこともない。
 坐光寺の部屋にあるデルタムーバーのプラモデルは三本足なのだが、そんなことはどうでも良い。
「25mm機関砲とロケランが欲しいってぇ?」
 突飛な注文をつけられて、坐光寺は薄笑いを浮かべながら首を傾げた。
「それとグレネードランチャーとスモークディスチャージャー。可能なら小銃も」
 南郷の更なる物騒な要求に、坐光寺は肩をすくめた。
「ホ! 戦争でもやる気? 車両用装備なら、たぁしかにワタシに頼みに来るのが理に適っているネ」
「万一の備えってやつですよ。お願いできますかね」
「装備だけなら、ここにあるネ。でも実包は無理。ウチの管轄じゃなーい♪」
 自衛隊の弾薬類は地区ごとに厳重に管理されている。警備用の拳銃弾や小銃弾ならともかく、火砲用の弾薬類は一般の駐屯地には常備されていない。装備の開発研究を行う施設なら、尚のことだ。
「それに、デルタムーバー用じゃキミのバイクに積めないと思うけどォ?」
「コネクタを噛ませれば大体の武装は使える。11式の正式採用機があると聞いた」
「今は20式だネ。20式支援戦闘装輪車。バイクからバギーに仕様変更されたヨ。昔の防衛省関係者が全員定年退職したから、晴れて無罪放免。キミの愛機の兄弟は7年の謹慎期間を終えての釈放ってワケさ」
 坐光寺はデスクの上に資料を広げて見せた、
 〈20式支援戦闘装輪車〉のマスコミ向け公開資料だった。〈タケハヤ〉に近似した外観のオリーブ色の機体が、四輪バギー形態と戦闘ロボット形態の両方で掲載されている。
「特戦群と空挺団に少数配備されてるだけだから、修理用のパーツを融通するのは苦労したらしいよ? キミの装甲服も、似たようなのは一部にしか配備されてない。メタマテリアル製電磁反応装甲を使用した歩兵用防御兵装……その試作型を昔キミたちは試験運用してたんだねえ」
「詮索は勘弁してもらいたいね」
「一部じゃ噂として有名さ。誰がリークしたのか、巷じゃ都市伝説にもなってるとか?」
 事実に蓋をしようとしても、人の口は完全に塞げるものではない。
 試作兵器を運用するにあたって、大小の関係者は100人はくだらなかったわけで、断片的な情報を知る誰かが曖昧な情報をネットに流したのか、あるいは中枢の関係者が隠蔽を良しとせず意図的に情報を漏えいしたのか、今となっては確かめようがない。
 かつて南郷たちと改造人間との戦いは、バラバラに分解されて、複数の都市伝説として情報の海に散らばっていた。
 仮に、元ネタである南郷自身が都市伝説を事実として修正しようとしても、誰も信じないだろう。
 伝説の信奉者にとっては、事実は世界観を壊すノイズでしかないのだから。
 故に、南郷は噂話に口を挟む気はなかった。黙って聞いている。
「フヒヒヒ、まあどうでも良いサ。キミは園衛様のお気に入りのようだからネ。ワタシとしても、装備の融通くらいはしてあげたいネ。園衛様のためにも」
「随分と、あの人に入れ込んでるようだな」
「ここの連中は、大なり小なり園衛様に御恩があるのサ。特に所長……いや課長は園衛様の大の信奉者でねえ~? あの方のためなら命を捨てても良いと思ってるようだネ~」
「はあ」
「ここは流刑地みたいなモンでね。厄介事の関係者、自主退職しなかった連中、あるいは退職されて機密を口外されると困るような人間の隔離施設なのサ」
 この場合の自主退職というのは、なにかしらの問題を起こした人間の実質的な懲戒退職にあたる。
 責任を取って穏便に辞めてくれれば、ある程度は転職の面倒も看るという暗黙の了解があるのだ。
 四方山の件を踏まえれば、この坐光寺という男にしても、脛に傷持つ人間なのは大体察しがつく。
「問題はあっても才能はある人間。そういう人材を拾う神あり。それが園衛様なのヨネ。あの御方の口効きでここは設立されたのサ。だから、土浦試験場の小美玉分舎なんていうややこしい名前になってるのヨ」
 事情は分かったが、なんとなく話が長くなりそうな雰囲気がある。
 だが、ここで逃げ出すタイミングを掴めないのが南郷の不器用さだった。
「かくいうワタシもねえ! デルタムーバー開発に類稀な才能を持ってるんだよねえ! だけど! 陸自の次期主力デルタムーバー開発コンペに負けた! なァぜだッ!」
 そんなこと言われても困る。
 坐光寺の身勝手な自分語り、過去語りが開始されてしまった。
 これがムカツク相手なら一発食らわせて黙らせて逃げてしまえるのだが、装備を融通してくれるという借りのある相手なので邪険にするわけにもいかず、南郷は観念して老人の昔話を聞くようなものと思うことにした。
「ワタシの作ったデルタムーバーは、コレ! 社内コードはオクトオロチ!」
 言うと、坐光寺はデスクの横にあったプラモデルを掴んで乱雑な卓上に置いた。
 そして、引き出しからリモコンを取り出して操作し始めた。ラジコンだったらしい。
「ガスタービンエンジンを主機にして装甲は極限まで軽量化! コンセプトは殺られる前に殺れ! 搭乗オペレーターには投薬処置を施して、反応速度を10倍に引き上げる! その戦闘能力は旧世代機と比較して当社比1000%! 10倍だぞ10倍! つまり理論上は一騎当千! サウザンドなカスタム! だからワタシの開発チームは畏怖を込めて社内で坐光寺サーカスと呼ばれていたッ!」
 それは畏怖というより揶揄ではなかろうか。
 実際、卓上の〈オクトオロチ〉なる機体のラジコンは三本足とは思えぬ曲芸的運動を行っているのだが。
 坐光寺の語りには感情が乗り始めていた。
「なーのにーよォーーーーーッ! テストオペレーターを5、6人病院送りにした程度でょぉぉぉぉぉぉぉ会社のバカどもは開発中止とか寝言ほざきやがってよぉぉぉぉぉぉぉ! ほんっと頭悪い連中は生きてくの楽そうでェ、ウラヤマしいよなぁぁぁぁぁぁぁ!」
「……敵を倒す前に操縦してる奴が倒れたら意味ないんじゃないんですか」
「ぶっ倒れる前に敵を殺っちまえば良いだけだろォーーが! 結果的にこっちのオペレーターが1人死んでも、敵のデルタムーバーを20両倒せば戦術的に勝ち! オクトオロチを量産すれば戦略的に勝ち! 陸上自衛隊完全勝利! はい論破!」
 とんでもない暴論を投げつけてくる言葉のドッジボールをとりあえず受け止めて、南郷は軽く投げ返す。
「使う度にオペレーターが死んでたら、人的資源が損耗しませんかね?」
「今の兵器ってのはね、バカでも使えるように作ってあんの! ほとんど機体のFCSがやってくれるから、ターゲットを選択してボタン押すだけ! その程度の兵隊、代わりならいくらでもいるでしょ? ワタシみたいな天才に代わりはいないけどねぇぇぇぇぇぇ! ハハ――ッ! オクトオロチ完成の暁には、本社の連中はワタシに泣いて謝るだろうネ! 最強兵器作ろうとしたら追放されて完成した今更になって土下座してももう遅い! だよ! ファー―ハハハハーーーーッ!」
 坐光寺の発言は単なる勢い任せのものか、あるいは驕り高ぶった選民思想なのか、どちらにしても南郷の癇に障った。
「あんたと同じこと言ってた連中がどうなったか、教えてやろうか?」
 南郷の冷たい殺気の篭った視線が坐光寺の両目を貫いた。
 坐光寺も噂話としては知っている。
 かつて南郷たちを利権争いの手駒として使っていた高級官僚や政治家が、どういった末路を辿ったのか。南郷は殺戮に馴れた人間だ。
 頭脳を急速に冷却させ、狂人が萎縮する。
「オオゥ……ごーめんごめんネ。言い過ぎたネ。昔話でヒートアップしちゃったネ。ともあれ、左遷されたワタシは園衛様の温情で、ここで研究を継続させてもらってるんだ。園衛様からの注文は、オペレーターの人命重視。それだけサ」
 坐光寺は改心したわけではないようだが、とりあえず機体の設計変更をする程度には園衛に恩義を感じているらしい。
「ま、究極的には敵の攻撃には当たらなければどーってことないんだけどね!」
 果たして、どこまで園衛のオーダーに応えているのかは疑わしいものだ。
 怨念と狂気を吐き出してスッキリしたのか、坐光寺は落ち着いて話を本題に戻した。
「装備の融通は効かせてあげたいんだけどねえ……。ここ一応お役所だから、手続きは面倒だし、予算には限りがあるのヨ」
「つまり、出来ないと?」
「ワタシの一存では難しいってことヨ。オクトオロチも実機を動かせないから、こうして縮小模型でやりくりしてるの。最近はその……財務監査とか仕分けとかでちょっと……ねえ?」
 坐光寺が気まずそうに言葉を濁した。さっきまでの勢いはどうしたのか。
 その時、坐光寺のデスクの端で固定電話が鳴った。内線の呼び出しだった。
 坐光寺が受話器を取ると、顔色が変わった。
「ウッ……キヤガッタカ」
 口調が硬い。片言になっている。
 受話器を置いて、南郷を見る。
「ガレージに行った方が良いかもヨ……」
「なんで」
「財務監査庁の……抜き打ち検査が来たのヨ……」
 傍若無人な狂人は、抗えない巨大な権力に怯えていた。

 財務監査庁――それは、財務省の外局である。
 国家財政を支配する財務省は全省庁、ひいては日本国におけるヒエラルキーの最上位にあるといっても過言ではない。
 その権力構造の一端を担う財務監査庁は、各省庁に予算の無駄遣いがないかを監視するために近年設立された外局であり、他省庁には秘密警察のごとく恐れられていた。
 万一、監査の目に留まれば責任者には重い処分が待っている。
 末端の関係者にも連座で責任が及び、戒告処分でも原稿用紙500枚に及ぶ自己批判もとい反省文を提出させられる上、各省庁の庁舎および公式サイト、公式SNSに違反者として顔写真を掲載されて吊し上げられるのである。
 監査の大ナタもとい大鎌を振るう死神は財務官僚としての出世コースから哀れ脱線してしまったエリート中の落伍者が多く、彼らの高慢なエリート意識の不満と怒りの矛先は、もっぱら下層の省庁職員に向けられるのである。
 今日も、ここ防衛装備庁土浦試験場絵小美玉分舎に、八つ当たりに等しき死神の鎌が抜き打ちで放たれた。
「なんだ貴様らこのバイクはーーーー!」
「誰の許可もらってバイクいじりなんぞしてやがるんだよえーーーーーーーーっ!」
 ガレージに侵入した二名の若い監査官が怒声を上げながら脚立を蹴り倒した。
 まるでチンピラ同然の振る舞いだが、反抗できる者は誰もいない。
 宮仕えである以上、それは不可能なのだ。
 それでも、耐え難い。人間として、職人としての尊厳を踏みにじるがごとき監査官の行為の数々。
 自分の愛用している工具を踏みつけられて、若い隊員は我慢の限界を超えてしまった。
「その足……どけてくださいよ……っ」
 怒りを噛み潰すような隊員の声。
 それに気づいた監査官の一人は、薄笑いを浮かべて足を上げた。
「おー、悪ィ悪ィ。あんまり汚いんでゴミかと思っちまったよ~~っ!」
 監査官は汚物でもつまむように工具を持ち上げると、握り込んで、隊員の頭上に振り上げた。
「そんなに大事なモンなら、お前のド低能なドミソケースん中にしまっとけやーーーーーーっ!」
 銀色の一閃が隊員の頭部に打ち込まれようとした瞬間、監査官の腕が横から掴まれて空中で止まった。
 救いの手――否、更に邪悪な暴君の手だった。
「ん~~? いけないなあ、暴力は~~?」
 温和な笑みを浮かべる、背広姿の男。年齢は30代前半といったところか。
 腕を掴まれた監査官は、男に慄いて腕を引っ込めた。
「ひっ、平松さんっ!」
 平松――平松秀忠。それが、この男の名前だった。
 彼が首から下げたIDカードは将軍家の印籠のごとき効力を発する。
 平松の肩書きは、〈財務監査庁 第一監査室室長〉。つまり、監査官たちの上司にあたる。
「我々は官僚的ヒエラルキーにおいて貴族に位置するのだ。故に、貴族の我々が平民以下の無納税者に等しい下級官吏に触れたら心と体が穢れてしまう」
 笑みを崩さず、手を汚さず、平松秀忠はルールを以て合法的に断罪する。
 己の独善と独断によって。
「使途の怪しい予算の動きがあると聞いて、わたし平松秀忠みずから監査に参りました。10年前の試作品の分解整備、及び部品調達は明らかな無駄遣いですねぇ~~っ? 即刻、中止を命じます。ここの責任者は?」
 奥から、四方山が歩み出た。
「オレですが……」
「ん~~? そういえば、民間から左遷されてきた老いぼれがいると聞いたことがありますね~~っ? ああ、ここはそういう姥捨て山でしたっけ?」
 嫌味たらしく笑う平松が、部下たちに向けて右手を挙げた。
「笑えますね?」
 笑え、高らかに嘲笑ってやれ、という命令であった。
「ハハハハハハハ!」
「ヒャハハハハハハ!」
 二人の監査官が思いきり下品に大笑いをして見せた。監査対象への亜侮辱行為は、監査官の基本技術として入庁と同時に仕込まれる。
 屈辱に耐える四方山の右手がわなわなと震えた。
 その様を見て、平松はポケットから伸縮式の教鞭を取り出した。
「あらら~? この手は何かな~~? もしかして、私を殴るつもりですか? 殴ったら大変ですよ? あなただけでなく、ここにいる全員が同罪です。懲戒処分だけでなく、刑事裁判も待ってますね?」
「ぐっ……」
「ルールを守るのは社会人の義務。法を守るのは国民の義務ですよ。そんなことも、このド低能ド低学歴のミソは学校で習わなかったんですかね~~っ」
 平松の教鞭が四方山の頭をツンツンと優しく、虚仮にして小突いていた。
「はははははァーーーッ! この臭い頭の中には脳ミソの代わりにシワのないクリームパンでも入ってるんですかねぇぇぇぇぇぇぇ~~~っ」
 権力、圧倒的権力。
 通常の官公庁に籍を置く限り、誰もこの男に逆らえない。
 我が権力の圧倒的愉悦に酔い痴れる平松の肩に、背後からぽんと手が置かれた。
「あ?」
 権力の高みにいる自分に気安く触れるなど部下でも許されない。不機嫌な目で振り向いた平松の顔面に、カーブを描いた拳骨が叩き込まれた。
「ぷっぱォォォォォ――――ッ!」
 鼻血を噴出しながら吹き飛ぶ平松。
 工具と部品を撒き散らして床に転がり、オイルの缶に頭をぶつけて油まみれの顔面と化した。
「なっ、なにをするのやーーーーーっ! わっ、私を誰だと思っとるんだボゲェ―――ッ! お前らみてェーな素性の知れねェドテカボチャと違って、私ゃお爺ちゃんの代から官僚――」
 血と油を吐きながら叫ぶ平松の声が、途中でブッツリと途切れた。
 自分を殴り飛ばした男の顔を、7年ぶりに見てしまったからだ。
「ひぃ――お前は――」
「悪い悪い。あんまり息が臭いんでハエかと思って手が滑っちまったよ」
「なんごぉーーーゥ……」
 油まみれの顔が、みるみる内に青ざめていく。
「お、おまえ……生きて……」
「偉くなったな、平松さん。医薬庁で形だけのお目付け役やってた頃から随分な出世じゃんか。下積み時代から応援してたアイドルが売れた時みたいな気持ちで嬉しいよ」
 南郷は淡々と心にもない感想を述べていた。
 そのまま、倒れた平松の前まで寄って、蹴りを腹に叩き込んだ。
「悪い悪い、ゴキブリがいると思って足が滑っちまったよ」
「オウェ………」
 嗚咽を吐く平松。
 上司の危機に、二人の監査官が駆け寄る。それは直情的なものか、あるいは出世の打算か。
「なんだーーーっ貴様――――っ!」
「どこの部署のモンじゃオノレ――――ッ!」
 権力を己の実力と誤認した官僚の突撃など、結果は知れていた。
 監査官は次々に南郷に小突かれて姿勢を崩し、床を転がった。
「うひぃ!」
「まっ……ママにもぶたれたことないのひぃぃぃぃっ!」
 ついさっきまで強権を振るっていた監査官が、今や狼にあしらわれた小型犬のごとき有様を晒していた。
「悪いなー、お坊ちゃんたち。俺は役人でも自衛隊でもないからさ。アンタらのカーストだの士農工商だの知ったこっちゃないんだわ」
 南郷は身を屈めて、平松に顔を近づけた。
 そして、彼にだけ聞こえるように耳打ちをする。
「俺に免じて、今日はこの辺で帰ってくれよ」
「お、お前……ここの連中に私のことを……」
「あんたの昔話をぶち撒けるかどうかは、心がけ次第だな。たとえば、ちょっとくらい装備品やパーツが右から左に移動することもあるわな」
「あ、うう……分かった。分かった……」
 何かの脅迫を承諾して、平松はふらふらと立ち上がった。
「もう……今日はいい。監査終了……。何も問題は見つからなかった……」
 撤収の命令を聞いて、監査官たちは困惑の声を上げた。
「そっ、そんなあ! こんなことされたのにい!」
「帰っちゃうんですかあ!」
 女々しく喚く部下たちに向ける、平松の背中は小刻みに震えていた。
「ここには何もなかった。何も起きなかった。分かるな……?」
 官僚として生きていきたいなら忖度せよ、ということだ。
 上司の言わんとすることを察して、二人の監査官は平松を追ってガレージから逃げて行った。
 ガレージはしん、と静まる。
 やがて、隊員の一人が不安げな声を出した。
「あの……こんなことして仕返しとか……」
「されないよ。あの平松って人とは古い知り合いだから」
 南郷の回答を聞いて、隊員たちの懸念は次第に喜びへと変化していった。
 ガレージに歓声が響き渡るのに、そう時間はかからなかつた。
「やったー! ざまあみろだぜ!」
「スカっとしたなあ! 南郷さんって凄いんスね!」
 自分を称える声に応じることもなく、南郷は背を向けて歩き出した。
「整備をお願いします」
 そう小さく呟いて、ガレージを出ていった。
 未だ歓声の止まぬ隊員たちだったが、パン! と手を叩く音で皆我に返った。
「騒ぐな。あいつは整備の邪魔者をどけただけだ! オレたちは仕事するぞ!」
 四方山の一喝で場は静まり、隊員たちは渋々と〈タケハヤ〉の整備に戻っていった。
「フン……南郷め、ちょっとだけ許してやらあ……」
 四方山も、そんな独り言を呟いて、自分の仕事を再開した。
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