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第二章

五幕『潜入』

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 ──近づいてよく観察してみると、外観は質素な豆腐型に見張り台がいくつも設置された、一見するとどんなスパイでも侵入不可能に見える造りになっていた。突出した見張り台では何名かの構成員が双眼鏡を覗きながら、遠方を注意深く監視している。地上には対戦車砲、五十口径の固定機関銃などただのテロ組織にしては過剰な対策がされていた。

 ……急遽建設されたとは思えない堅牢さ。並みの爆弾じゃあ吹き飛ばせないが、十全とは言い難い。柱を吹き飛ばしていけば、自重で瓦解するか。

 連行されていく間、グレイスは内観を隅々まで見渡した。リュックサックや携帯は入口で奪われてしまったが、頭の中に白紙を用意し、そこに地図を描いていく要領で暗記していくため、書くためのペンや紙は必要なかった。

 中の見張りにはアメリカ人の姿もあり、彼らは外を見張っていた【アル・アドル】の構成員とは違い、スコープとフォアグリップを装着した【M4A1】アサルトライフルを装備していた。レッグホルスターには【M1911】ハンドガンを入れており、破片手榴弾も携帯して顔もマスクで隠している。グレイスが事前に調べていた通り、元CIAのマーティン・ジョンソンが支援しているようだが、彼が【アル・アドル】に提供したのは最低限の装備、そして自分自身が姿を隠すのにちょうどいい要塞。もしアイヤールが組織ごと反旗を翻してこようとも、マーティンが雇ったアメリカ人傭兵の集団には勝てない。ようは【アル・アドル】はマーティンの武器密売の目くらまし、『死の商人』にいいように利用されているだけということだ。

 薄暗い二階に連行されたグレイスは、その奥にある扉を抜けた先の部屋へ入った。そこには血痕や拷問器具などがあり、そういった関連の部屋なのだと悟った。
 グレイスは銃口を突きつけられ、古びてささくれた木製の椅子に着席した。対面にはターバンを巻いた三十代くらいの男が座り、威圧的な眼光でグレイスを睨みつけていた。

「あー、マイク・ベンソン? お前は何故ここに来た?」

 拙い英語を話した男は、グレイスのリュックサックから取り出したパスポートと実物を照らし合わせて見ている。グレイスは何も知らない体を装いながら、おずおずと嘘を語ってみせた。

「……観光で来たんだが、ガイドとはぐれてな。遠目に人が見えたんで道を訊こうと思ったんだが、まさかこんな恐ろしい場所だとは」

「運が悪いなベンソン、お前は暫く家に帰れないと思え。ここにはがいるが、一先ずアイヤール将軍が帰ってくるまではそいつと同じ部屋に閉じ込めておく。もし不必要と判断されたら……」

「帰してくれるか?」

 男は不敵に口端を吊り上げ、何も答えなかった。言外に嫌なニュアンスを伝えてきたが、グレイスは始めからそんな期待はしていない。それでも無知を装うために道化たのだ。

『こいつはあのアラブ野郎と同じ部屋に入れとけ。ったく、美女ならやり放題だったんだがな』

 男の下衆な笑みと発言はその場にいた【アル・アドル】の構成員五人を爆笑させたが、グレイスは腸が煮え返る思いだった。その発言が出てくるということは、恐らく過去にその経験があるからだろう。実際にからテロ組織に仲間入りする人間も少なからずおり、今際には簡単に組織を裏切って命乞いをしてきたこともあった。だが、グレイスはそのあまりにも無責任な在り方を許せず、罪を償わせるために幾度も殺めてきた。
 
 立ち上がったグレイスは再び銃口を背中に当てられながら、先導されるままに部屋を出て階段を上った。そして最初の角を曲がり、いくつかの部屋を通りすぎた先にある古臭い扉の前に立つと、雑な荷物チェックをされてから手錠も何もつけられずに薄汚れた牢屋へ入れられた。

「……」

 中には先の構成員らが先客と称した、アラブ人の男がハイライトの消えた瞳で寝そべりながらグレイスを見上げていた。二人入るには窮屈な牢屋内を見渡すと、ところどころに血痕が付いている。グレイスを見る男の唇が切れているところを見るに、彼は何度も暴行を加えられたのだろう。無残に足の爪も剥がされていた。

『……英語は話せるか?』

 グレイスは男の傍で膝を曲げ、牢屋の前にいる構成員に聞こえない声量でそう耳打ちした。すると男は瞠目し、グレイスの碧眼を凝視した。

「……随分ラフな恰好だな。CIA、か?」

「いや、ただのナイスガイだ。金のためにお前を助けにきた。あんた、名前は?」

「アーキル……アーキル・シャリーフだ」

 よろよろと体を動かしているところを見るに、アーキルが相当痛めつけられてきたのは一目瞭然だった。起き上がった彼の体を支え、グレイスは笑みを見せた。

「俺が話しかけてるのはスケルトンじゃないよな? おい、まだ生きてるか?」

「二日間、何も食べてないんだ。死にかけだよ」

 乾いた笑い方で過酷な現状を明かしたアーキルは、グレイスの二の腕を細い指で掴みながら、ゆっくりと捕虜になってから今日に至るまでの経緯を全て語り聞かせた。

 休暇にボディーガードを連れてモナコを訪れたアーキルは、クルージングの最中に【アル・アドル】の構成員に襲撃され、ボディーガードは全滅。その後この要塞へと連行され、大金を要求されたという。更にアイヤールはアーキルの身柄と引き換えに政府に向けて多額の身代金を提示しており、彼らは限界まで搾取を実行しようとしている。しかし、政府に動きがないとわかるや否やに激昂したアイヤールは、アーキルを拷問する映像を送りつけた。グレイスも、彼の壮絶な動画には目を通してきていた。

 ふと、グレイスはある可能性を思いつき、咄嗟に頭の中に保存してある要塞の見取図を顧みていた。彼は行き当たりばったりの作戦は嫌いだ。『周到な準備が勝利を招く』という言葉の通り、備えを万端にしておくにこしたことはない。
 雑な荷物チェックでは引っかからなかった仕込みナイフの感触を確かめ、牢屋の見張り番をしている構成員二人を見据えた。一人は小柄で、十代前半の男。もう一人は身長は高いが痩せ型で、同じ年頃の若者だ。両者とも常に【AK-47】の引き金に指を添えていることから、銃の扱いには不慣れなのだろう。手榴弾等の携帯はなく、無線機も持っていなかった。

「……もう少し待てそうか?」

「はっ、待つことにはもう慣れた。それで希望すら捨てかけたが、今は君がいる。私は信頼だけ預けて、静かに眠ることにしよう」

 そして横になったアーキルは、本当に眠りについてしまった。一瞬、グレイスは彼が安堵のあまり息を引き取ったのではないかとぎょっとしたが、耳を澄ませばしっかり呼吸をしていた。

『……なあ、またいつものやらねえか?』

 不穏な発言を聞き取ったグレイスは、視線をばれないように見張り番へと向けた。

『またか、ライ。この前殴りすぎて幹部に説教されたばっかだろう? いい加減その暴力的な性格直さねえと、そのうち将軍様に殺されるぞ』

『だーいじょぶだって。ほら、あそこのアメリカ人見ろよ。むかつく面してんぜ? あいつなら何発殴っても叱られねえって』

 ライと呼ばれた大柄の男はグレイスを指差し、下賤な笑い方で小柄の男の腰についていた牢屋の鍵を奪い取った。

『あれがアメリカ人? バカいえ、ありゃお高く留まった気障なイギリス人だろ』

『なんだっていいさ。俺の鬱憤を晴らしてくれんならよ!』

 小柄の男の制止を振り切ったライは牢屋の扉を開け、ずけずけと中に入ってきた。そして座っているグレイスを見下し、嘲笑を浮かべて彼の髪を乱暴に掴んだ。

『いい顔だなぁ、おい。皮を剥がしてうりゃあ、いい値がつきそうだ』

『それで売れた試しがあるか? 奴らが欲してるのは皮膚より臓器だ。だからいつまで経ってもお前は下っ端なんだ』

『黙ってろ、リール! ……ったく、てめえの面のせいで仲間に嫌な思いをさせられただろうが!』

 理不尽なことを口にしたライは、グレイスの髪を引き上げて無防備の頬を力づくで殴った。直撃の寸前で掴んでいた髪を離されたため、グレイスは勢いのまま牢屋の壁に顔を衝突させてしまい、切れた額から流血した。

「……」

『……んだよ、その眼は』

 無言で睨みつけてくるグレイスに神経を逆撫でされた気分になったライは、もう一度彼の髪を掴んで今度は膝立ちを強要した。

『生意気にお飾りの筋肉なんかつけやがって。お前はボディービルダーかなんかか? ……こんな見世物でしかねえ筋肉より、俺の筋肉の方が何倍も優れてるってこと教えてやるよ!』

 ライはグレイスの鳩尾を狙い、力の限り拳を打ち込んだ。苦しそうに呻くリアクションを期待したライだったが相変わらずグレイスは無反応で、ただ目の前の少年を見据えていた。

『こいつ、案外丈夫な体してんじゃねえか?』

 リールはからからと牢屋の入り口で笑っているが、ライの目は冷えていた。

『──つまんねえやろうだ』

「──っ‼」

 何気なく発したライの言葉に、グレイスは目を見開いて初めてリアクションを示した。だが、任務の最中であることから、歯を砕きそうになるほど噛みしめて憤怒を抑制する。もしこれが限定された状況でなければ、ライの命はなかっただろう。

『なっ⁉ おい待て、ライ! そいつも殺したらまずいって!』

 銃口をグレイスに向けて引き金に指を添えたライの動きを見たリールは、咄嗟に身を翻して牢屋の中に入ってきた。そしてライの隣に立ち、グレイスを無許可で殺そうとしている彼を必死になって宥めている。とはいえ、その声はライに届いていなかった。

 昔から村で一番強かったライは、家族を養うためにこの【アル・アドル】の構成員となった。多くの軍人を殺して活躍し、大金を得ようと野望を抱いていた。
 しかし、現実は甘くなかった。構成員となって初めての任務は、捕虜の入った牢屋の門番。一度も訓練に参加できず、この要塞内を闊歩するアメリカ人の傭兵にはずっと見下されてきた。その影響もあり、ライは一目グレイスを見た時からその存在が気に食わなかった。グレイスの姿を、無意識のうちに彼らに重ねてしまったからだ。

『ライッ‼ 下手なことしたら俺まで殺されちまうよ!』

『うるせえっ!』

 怒りで我を忘れたのか、ライは仲間であるはずのリールに銃口を向けた。委縮したリールは口を噤み、やむを得ず牢屋を出ていった。

『……服を脱げ。そうすりゃあ、生かしてやるよ』

 再び銃口をグレイスに向け直し、ライは高圧的にそう告げた。だが、無言のまま行動を起こさないグレイスを見て、ライは大きく舌打ちした。

『言葉が分かんねえか? ……ああ、気取った発音の英語じゃなきゃあ、てめえらには通じねえもんな‼』

 グレイスは、判断に迷いが生じていた。
 ここでライを殺すのは容易だが、それでは自分の首を絞めるだけだ。だが、死んでしまっては元も子もない。仕込みナイフを用意し、ライの喉仏に狙いを定めた瞬間──。

「──おいっ! 勝手に何やってる!」

 そこへ突然現れたのは、【M4A1】を携えたアメリカ人傭兵だ。人数は合計五人だが、一人一人の身体能力はライやリールなどの下っ端とは比較にならない。そのため傭兵五人が現れた瞬間にライは顔を青ざめさせ、リールは入口で動揺のあまり固まってしまっていた。
 ──同時にそれは、グレイスが待っていた最高の好機だった。

「こいつ、捕虜を殺そうとしたらしい」

『……余計な手間増やしやがって』

 先頭に立っていた巨漢がそう発し、一人で牢屋内に入ってきた。体躯の歴然とした違いに縮こまったライを、巨漢は冷ややかな目で見下ろしていた。

『──役立たずが』

『──っ⁉』

 次の瞬間、巨漢はレッグホルスターから【M1911】を抜き取ってライに向けて三度発砲した。上半身に集中的に弾丸を浴びたライは、その場で仰向けに倒れこんで動かなくなった。

『ライっ⁉』

 驚愕に顔を染めたリールは敵討ちとばかりに【AK-47】を構えようとするが、近くにいた傭兵が【M4A1】をフルオートで発砲。ズタボロになった体を壁に打ち付けたリールは、ゆっくりと膝を折るように崩れ落ちた。

「──ふっ!」

 一瞬の隙を突き、グレイスは仕込みナイフで近くにいた巨漢の内ももを二度切りつける。そしてその痛みに膝をついた巨漢の喉にナイフを突き刺し、そのまま首元についていた手榴弾を取り外してピンを抜き、銃口を向けている傭兵の方へ転がした。

「──っ⁉ グレネードだ‼」

 何者かが警告した直後に爆発した手榴弾は、ひと時の銃声を消滅させる。グレイスは巨漢を盾にしてアーキルと自身を爆風から守っていた。そして用済みとなった巨漢をどかし、新手が来ないうちに前方で伏している傭兵を全員牢屋に引きずり込み、装備を次々に剥いではその身につけていく。

『……』

 無言で──否、目を開いているのが精いっぱいの虫の息であるライは、すぐ傍にいるグレイスを見上げていた。てきぱきと装備を整えていくグレイスは、たった一言だけ返してやった。

『これでもつまんない男に見えるか?』

 最後に【M4A1】を手に取ったグレイスは、手を広げて屈強な全貌をライに見せる。突然アラビア語を聞いたライは少しだけ口端を上げ、静かに瞼を閉じた。
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