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八、ある母親の願い
第三十七話
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紅く染まっていた葉が、アスファルトの上にはらはらと落ちる。見あげると、その木には一枚の葉も残っていなかった。さらにその上には、灰色の雨雲がかかっている。最近は、ずっとこんな天気だ。この雨で、このあたりの木の葉っぱは、根こそぎ落とされるんだろうな。そんなことを思いながら、なんの変哲もない歩道を歩いた。
あれから三日が経った。
あまねはまだ、玉里さんに会えていない。
「あ、おかえり」
建付けの悪いボロアパートのとびらを開けると、なんの戸惑いもなく先代が出迎えた。
「……おかえりって、俺の家じゃないんだけど」
「似たようなものでしょ」
それは防犯上どうなんだ……と思ったけど、こんな状況である以上、先代に言うわけにもいかず、そろそろと部屋にお邪魔する。
あれから三日。あまねは夢にとらわれたまま、眠り続けていた。
三日前、夢からはじき出されてすぐは、なんの違和感もなかった。たいしたことはないと、たかをくくっていたのだ。少し揺すれば、すぐに起きるだろうと。
いつもと同じようにあまねを起こそうとしても、うんともすんともいわない。実年齢よりも幼く見える寝顔は、ぴくりとも動かなかった。
先代と相談して、少し様子を見てみることにしたけど、すでに三日が経過している。そろそろどうにかしなければならない。先代は普通の人には見えないから、俺がどうにかするしかないんだけど、その方法はよくわからなかった。ただこうして、様子を見に行くことしかできない。
「今日はどうしたの? こんなに早く」
先代が聞いてきた。今は午前八時。大学が始まる前に寄ったのだ。
あまねが目覚めないとわかったときの、先代のうろたえようはすごかった。あまねが五歳のときから一緒にいるから、当然と言えば当然なのだが……。今は多少落ち着いているようだが、不安を隠すことはできていなかった。
「たいした意味はないよ……。ただ、朝になったら起きてないかなって、それだけ」
そんな淡い希望は、昨日の時点で打ち砕かれているはずなのに、まだそんなものにすがりついている自分に呆れる。不安を隠せないのは、俺も同じだ。
あまねのことは一応、医者には相談してある。そのときはなんの異常もないと言っていた。それでも不安感がなくならないのは、はるか昔、夢に囚われた〈獏〉がいるという話を聞いているから──。
耳が痛くなるくらい静かな時間が過ぎていく。ぽつりと先代が言った。
「ねえ、玉里さんをここに連れてくることはできない?」
「え?」
可能か不可能かを問われると、不可能に近いだろう。俺は赤の他人である上に、玉里さんにはあの悪夢の中での記憶はない。怪しまれて断られるのがおちだ。
「あまねが夢にとらわれているのなら、現実であの子の夢を叶えてみる。……って、こんなもの、ただの言葉遊びね。忘れてちょうだい」
先代はそう言ったが、もうそれ以外の方法は思いつかなかった。
教科書が入ったリュックを持って立ち上がった。
「今日、玉里さんに会ってくるよ。もし、本当に玉里さんがあまねの母親なら、この状況を知らないのも酷だろうし」
玉響大学の食堂は、いつも二時頃まで開いている。人混みを避けたい人達や、昼休みに予定があった人達はこの時間に使用しているが、たいした数ではない。いつもは賑わっている食堂が、ひどく静かだった。
幸い三限に授業は入っていなかったから、この時間に来ることができた。食券販売機には誰も並んでいない。横目で見てからスルーする。
「すみません」
学生がいなくて談笑していた調理員の人達に話しかけた。彼女等は不思議そうな目でこちらを見てくる。その中で一番若い女性と目があった。
「玉里千尋さんはいますか?」
「私ですけど……」
不思議なものを見る目が、奇怪なものを見る目に変わった。
「少しだけ、お話いいですか?」
玉里さんは、突然の話にとまどっていたようだけど、周りの人に言われてしぶしぶ帽子とエプロンを外した。夢で見た彼女とまったく同じ姿で安堵する。
しんと静まりかえった食堂の、さらに周りに人がいないところに移動する。俺と玉里さんは向かいに座った。
「今日は、どのようなご用件で?」
突然やってきた学生にも、玉里さんは笑顔で応じる。
どう説明したらいいか迷っていた。夢の中であなたに会ったことがあります、だなんて言えないし……。
結局、こう言うことしかできなかった。
「──あなたの話です」
予想外の話だったようで、驚いた目を向けられた。
あまねの話を、少しだけ事実を曲げながら説明した。罪悪感はあったけど、夢だの〈獏〉だのって話を大っぴらにすることはできないから、独自に調べたことにした。「雨音」の話に動揺した玉里さんは、俺達がどうやって彼女にたどり着いたかまで気が回らなかったらしい。目を丸くして聞きいっていた。いつか不思議に思うときが来るだろうが、そのときはあまねに任せよう。
「……ということです」
話し終わったときには、なぜかこちらが緊張していた。玉里さんは、信じられないという様子だ。
「それでその『あまね』さんはどこにいるの?」
当然の質問だった。
「本当は、あまね自身の口から、この話をするはずでした。今あいつは、眠ったまま目覚めないでいます。原因は……わかりません」
玉里さんの驚きの色が濃くなった。構わずに続ける。
「まともに確認をとらずにこの話をしたのは、軽率だっていうのはわかってます。境遇が似ているというだけで、あなたがあまねの母親だと決めるけることも。でも、どうしても伝えないといけない気がして……」
適当な言葉を持っていないのがもどかしい。冷や汗をかきながら玉里さんの表情を見ていた。驚きと疑いが、その顔にはっきりと浮かんでいた。
玉里さんが立ち上がった。そんなくだらない話をするなんて、と言われそうな気がして身体が硬くなる。
「その子のところに案内してくれますか?」
「え?」
今度は俺が驚く番だった。こんな突拍子もない話を、彼女は信じたのか。
フリーズしかけた頭を無理矢理動かしてなんとか答えた。
「わかりました。案内します」
あれから三日が経った。
あまねはまだ、玉里さんに会えていない。
「あ、おかえり」
建付けの悪いボロアパートのとびらを開けると、なんの戸惑いもなく先代が出迎えた。
「……おかえりって、俺の家じゃないんだけど」
「似たようなものでしょ」
それは防犯上どうなんだ……と思ったけど、こんな状況である以上、先代に言うわけにもいかず、そろそろと部屋にお邪魔する。
あれから三日。あまねは夢にとらわれたまま、眠り続けていた。
三日前、夢からはじき出されてすぐは、なんの違和感もなかった。たいしたことはないと、たかをくくっていたのだ。少し揺すれば、すぐに起きるだろうと。
いつもと同じようにあまねを起こそうとしても、うんともすんともいわない。実年齢よりも幼く見える寝顔は、ぴくりとも動かなかった。
先代と相談して、少し様子を見てみることにしたけど、すでに三日が経過している。そろそろどうにかしなければならない。先代は普通の人には見えないから、俺がどうにかするしかないんだけど、その方法はよくわからなかった。ただこうして、様子を見に行くことしかできない。
「今日はどうしたの? こんなに早く」
先代が聞いてきた。今は午前八時。大学が始まる前に寄ったのだ。
あまねが目覚めないとわかったときの、先代のうろたえようはすごかった。あまねが五歳のときから一緒にいるから、当然と言えば当然なのだが……。今は多少落ち着いているようだが、不安を隠すことはできていなかった。
「たいした意味はないよ……。ただ、朝になったら起きてないかなって、それだけ」
そんな淡い希望は、昨日の時点で打ち砕かれているはずなのに、まだそんなものにすがりついている自分に呆れる。不安を隠せないのは、俺も同じだ。
あまねのことは一応、医者には相談してある。そのときはなんの異常もないと言っていた。それでも不安感がなくならないのは、はるか昔、夢に囚われた〈獏〉がいるという話を聞いているから──。
耳が痛くなるくらい静かな時間が過ぎていく。ぽつりと先代が言った。
「ねえ、玉里さんをここに連れてくることはできない?」
「え?」
可能か不可能かを問われると、不可能に近いだろう。俺は赤の他人である上に、玉里さんにはあの悪夢の中での記憶はない。怪しまれて断られるのがおちだ。
「あまねが夢にとらわれているのなら、現実であの子の夢を叶えてみる。……って、こんなもの、ただの言葉遊びね。忘れてちょうだい」
先代はそう言ったが、もうそれ以外の方法は思いつかなかった。
教科書が入ったリュックを持って立ち上がった。
「今日、玉里さんに会ってくるよ。もし、本当に玉里さんがあまねの母親なら、この状況を知らないのも酷だろうし」
玉響大学の食堂は、いつも二時頃まで開いている。人混みを避けたい人達や、昼休みに予定があった人達はこの時間に使用しているが、たいした数ではない。いつもは賑わっている食堂が、ひどく静かだった。
幸い三限に授業は入っていなかったから、この時間に来ることができた。食券販売機には誰も並んでいない。横目で見てからスルーする。
「すみません」
学生がいなくて談笑していた調理員の人達に話しかけた。彼女等は不思議そうな目でこちらを見てくる。その中で一番若い女性と目があった。
「玉里千尋さんはいますか?」
「私ですけど……」
不思議なものを見る目が、奇怪なものを見る目に変わった。
「少しだけ、お話いいですか?」
玉里さんは、突然の話にとまどっていたようだけど、周りの人に言われてしぶしぶ帽子とエプロンを外した。夢で見た彼女とまったく同じ姿で安堵する。
しんと静まりかえった食堂の、さらに周りに人がいないところに移動する。俺と玉里さんは向かいに座った。
「今日は、どのようなご用件で?」
突然やってきた学生にも、玉里さんは笑顔で応じる。
どう説明したらいいか迷っていた。夢の中であなたに会ったことがあります、だなんて言えないし……。
結局、こう言うことしかできなかった。
「──あなたの話です」
予想外の話だったようで、驚いた目を向けられた。
あまねの話を、少しだけ事実を曲げながら説明した。罪悪感はあったけど、夢だの〈獏〉だのって話を大っぴらにすることはできないから、独自に調べたことにした。「雨音」の話に動揺した玉里さんは、俺達がどうやって彼女にたどり着いたかまで気が回らなかったらしい。目を丸くして聞きいっていた。いつか不思議に思うときが来るだろうが、そのときはあまねに任せよう。
「……ということです」
話し終わったときには、なぜかこちらが緊張していた。玉里さんは、信じられないという様子だ。
「それでその『あまね』さんはどこにいるの?」
当然の質問だった。
「本当は、あまね自身の口から、この話をするはずでした。今あいつは、眠ったまま目覚めないでいます。原因は……わかりません」
玉里さんの驚きの色が濃くなった。構わずに続ける。
「まともに確認をとらずにこの話をしたのは、軽率だっていうのはわかってます。境遇が似ているというだけで、あなたがあまねの母親だと決めるけることも。でも、どうしても伝えないといけない気がして……」
適当な言葉を持っていないのがもどかしい。冷や汗をかきながら玉里さんの表情を見ていた。驚きと疑いが、その顔にはっきりと浮かんでいた。
玉里さんが立ち上がった。そんなくだらない話をするなんて、と言われそうな気がして身体が硬くなる。
「その子のところに案内してくれますか?」
「え?」
今度は俺が驚く番だった。こんな突拍子もない話を、彼女は信じたのか。
フリーズしかけた頭を無理矢理動かしてなんとか答えた。
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