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四、ある青年の絶望
第十六話
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鉛のように重いものが、頭の中にすくっている。何年か前に一度は消えたそれも、気がついたら戻ってきていた。寝たら治るだなんて、生易しいものじゃない。正直、朝起きてすぐが一番辛い。
また、いつもの夢を見る。
──宿題はしたの?
その台詞から始まった。今日はそのパターンか、とぼんやり思う。
もう何年も付き合ってきた。きつくないと言ったら嘘になるが、かなり慣れたはずだ。
最後に母親に会ってから、もう四か月が経とうとしている。夢の中の母は、そのときよりもずっと若い姿で仁王立ちしていた。
宿題はとうの昔に終わらせたと伝える。今日は友達の家に誘われたから、早く終わらせたのだとまくしたてる。
うまいようにはいかなかった。
──そんな約束、お母さんが断っておくから。お受験はもうすぐなの。勉強しなさい。
親の口癖。当時はその言葉に違和感は覚えなかった。「普通」の子どもは、そんなことしない。ごく一部だけなのだと知ったのは、ずっと後になってからだ。
両親は二人揃って医者。年の離れた姉と兄は、超難関中学に通っていると聞いた。そんな言葉が幼稚園児に理解できるわけもなく、このときは「にいちゃんとねえちゃんは凄いんだ」くらいに思っていた。
──あんたもじきに、そうなるのよ。
母はそれが決定事項のように言っていた。
無知は怖い。この時点ではまだ、俺が母の思うような子ではないこと──姉や兄のように優秀ではないことなど、気づきもしなかった。
自分も二人と同じようになれると思っていた。
父はほとんど顔を見せなかった。仕事が忙しいのは理解している。だから寂しいとは言えなかった。こうしているうちに何年経ったんだろう。
自分一人の世界に立っていた子どもは、ある日突然、外の世界を知る。
十歳になったばかりの頃。当時通っていた塾に、自分とはまったく違う世界の住人に初めて会った。
──昨日、母ちゃんにゲーム機買ってもらってさ! やめられなくて夜更かししちゃったよ!
知らない単語がポンポン飛び交う。この頃は姉や兄と遜色ない成績で、少なくとも学年の一割には入っていた。初めて同い年の誰かに、「それってなに?」と聞いたのがこのときだ。知らない世界の話は面白かった。
同時に、自分がいた世界の狭さを知る。
──母さん。模試の結果出たから見といて。
──へえ、やるじゃない。これなら国立医大も余裕ね。
そこにあったのは、誰がどんな成績をとったとか、次の試験はいつだとか、そういう類の話ばかりだった。
そのとき姉は大学生、兄は高校生。そうなるのも仕方ないかもしれないけど、小学生にはきつかった。
その頃からだろうか。頭に鉛が付きまとい始めたのは。
狭い世界に押しこめられていた当時の友達とは、話が合わなくなった。いや、俺が合わせるのをやめたのか。とにかく、人との距離がわからなくなっていった。
──今日のテストは何点だった?
家に帰れば、そんな言葉が宙を飛ぶ。素直に答えて喜ばれることは、ほとんどなくなった。
──またそんな点数取ったの? 最後に満点を取ったのはいつ?
それも答えられないようになった。
一度だけ、鉛が消えたことがある。ある日突然、なにもなくなった。そうだ。彼女と見ず知らずの誰かの夢へ入った後のような、そんな感覚。それもいつの間にか、なくなってしまった。
頭はいつも重かった。
中学に入ると、小学生の頃とは比べようもないほどの勉強量に置いて行かれそうになっていた。そんな俺を母は見捨てたが、父は納得できなかった。
──そんなこともできないでどうする。
それが口癖だった。いっそのこと、見捨ててくれたらいいのにとさえ思った。
塾も変えられた。楽しそうにゲームの話をしていた彼が、今なにをしているのか、俺は知らない。
周りの人間に慣れることもないまま、二年が過ぎ、三年目に入った。学校でも家でも、話題はもっぱら受験のことで、息が詰まりそうだった。
──ふうん。あんたもそこ受けるんだ。へぇー。
ちょっかいをかけに来るのは姉だけで、あとの家族は無関心。当の姉も、ただ弟が後輩になるかもしれない状況に、興味があっただけなのかもしれなけど、今となってはわからない。確かめる気もなかった。
そうして、到底「普通」とは言えない一年が過ぎ、その結果得られたものは──。
──母の失望と、父の叱責だった。
* * *
「…………」
怠い。上手く眠れなかった後のような感覚。ようなっていうか、まさにそれなんだけど。夢を見るということは、睡眠が浅いということらしい。夢を見ない日は、ほとんどなかった。
そういえば、今日って何日だったかな。やらなきゃいけないことが多すぎて連日深夜まで起きているせいか、日付感覚が狂ってきている。
覚めきらない身体を無理矢理起こした。
教科書でずっしり重くなった鞄を片手に考える。
このことを、あまねに言うべきなのか。
これは間違いなく悪夢だ。最初彼女の話を聞いたとき、強く否定できなかったのは、その状況に心当たりがあったから。他にもあるけど、確信はない。
俺の場合は、自分の記憶を俯瞰的に追いかけるもの。いくつか他の人の悪夢に入ってみて知ったことだけど、これはよくあるパターンらしい。
この悪夢を食べてもらえるなら、それが最善だ。あまねの両親と繋がっているとは思えないけど、利害は一致する。じゃあ、食べてもらった後は? 食べてもらって解決する問題とは思えない。それが一番大きな疑問だった。
思考は堂々巡りを続ける。
言いたくなかった。同情されたくないとか、恥ずかしいとかじゃない。後ろめたい過去を知られるのが嫌なんだ。けど、自分に限界があるのは、痛いほど知っていた。おまけに試験が近くなるにつれて、夢の内容も酷くなっている。それが終われば山を越える……かどうかはわからない。
決心はつかなかった。
重いため息を一つついて、家を出た。
また、いつもの夢を見る。
──宿題はしたの?
その台詞から始まった。今日はそのパターンか、とぼんやり思う。
もう何年も付き合ってきた。きつくないと言ったら嘘になるが、かなり慣れたはずだ。
最後に母親に会ってから、もう四か月が経とうとしている。夢の中の母は、そのときよりもずっと若い姿で仁王立ちしていた。
宿題はとうの昔に終わらせたと伝える。今日は友達の家に誘われたから、早く終わらせたのだとまくしたてる。
うまいようにはいかなかった。
──そんな約束、お母さんが断っておくから。お受験はもうすぐなの。勉強しなさい。
親の口癖。当時はその言葉に違和感は覚えなかった。「普通」の子どもは、そんなことしない。ごく一部だけなのだと知ったのは、ずっと後になってからだ。
両親は二人揃って医者。年の離れた姉と兄は、超難関中学に通っていると聞いた。そんな言葉が幼稚園児に理解できるわけもなく、このときは「にいちゃんとねえちゃんは凄いんだ」くらいに思っていた。
──あんたもじきに、そうなるのよ。
母はそれが決定事項のように言っていた。
無知は怖い。この時点ではまだ、俺が母の思うような子ではないこと──姉や兄のように優秀ではないことなど、気づきもしなかった。
自分も二人と同じようになれると思っていた。
父はほとんど顔を見せなかった。仕事が忙しいのは理解している。だから寂しいとは言えなかった。こうしているうちに何年経ったんだろう。
自分一人の世界に立っていた子どもは、ある日突然、外の世界を知る。
十歳になったばかりの頃。当時通っていた塾に、自分とはまったく違う世界の住人に初めて会った。
──昨日、母ちゃんにゲーム機買ってもらってさ! やめられなくて夜更かししちゃったよ!
知らない単語がポンポン飛び交う。この頃は姉や兄と遜色ない成績で、少なくとも学年の一割には入っていた。初めて同い年の誰かに、「それってなに?」と聞いたのがこのときだ。知らない世界の話は面白かった。
同時に、自分がいた世界の狭さを知る。
──母さん。模試の結果出たから見といて。
──へえ、やるじゃない。これなら国立医大も余裕ね。
そこにあったのは、誰がどんな成績をとったとか、次の試験はいつだとか、そういう類の話ばかりだった。
そのとき姉は大学生、兄は高校生。そうなるのも仕方ないかもしれないけど、小学生にはきつかった。
その頃からだろうか。頭に鉛が付きまとい始めたのは。
狭い世界に押しこめられていた当時の友達とは、話が合わなくなった。いや、俺が合わせるのをやめたのか。とにかく、人との距離がわからなくなっていった。
──今日のテストは何点だった?
家に帰れば、そんな言葉が宙を飛ぶ。素直に答えて喜ばれることは、ほとんどなくなった。
──またそんな点数取ったの? 最後に満点を取ったのはいつ?
それも答えられないようになった。
一度だけ、鉛が消えたことがある。ある日突然、なにもなくなった。そうだ。彼女と見ず知らずの誰かの夢へ入った後のような、そんな感覚。それもいつの間にか、なくなってしまった。
頭はいつも重かった。
中学に入ると、小学生の頃とは比べようもないほどの勉強量に置いて行かれそうになっていた。そんな俺を母は見捨てたが、父は納得できなかった。
──そんなこともできないでどうする。
それが口癖だった。いっそのこと、見捨ててくれたらいいのにとさえ思った。
塾も変えられた。楽しそうにゲームの話をしていた彼が、今なにをしているのか、俺は知らない。
周りの人間に慣れることもないまま、二年が過ぎ、三年目に入った。学校でも家でも、話題はもっぱら受験のことで、息が詰まりそうだった。
──ふうん。あんたもそこ受けるんだ。へぇー。
ちょっかいをかけに来るのは姉だけで、あとの家族は無関心。当の姉も、ただ弟が後輩になるかもしれない状況に、興味があっただけなのかもしれなけど、今となってはわからない。確かめる気もなかった。
そうして、到底「普通」とは言えない一年が過ぎ、その結果得られたものは──。
──母の失望と、父の叱責だった。
* * *
「…………」
怠い。上手く眠れなかった後のような感覚。ようなっていうか、まさにそれなんだけど。夢を見るということは、睡眠が浅いということらしい。夢を見ない日は、ほとんどなかった。
そういえば、今日って何日だったかな。やらなきゃいけないことが多すぎて連日深夜まで起きているせいか、日付感覚が狂ってきている。
覚めきらない身体を無理矢理起こした。
教科書でずっしり重くなった鞄を片手に考える。
このことを、あまねに言うべきなのか。
これは間違いなく悪夢だ。最初彼女の話を聞いたとき、強く否定できなかったのは、その状況に心当たりがあったから。他にもあるけど、確信はない。
俺の場合は、自分の記憶を俯瞰的に追いかけるもの。いくつか他の人の悪夢に入ってみて知ったことだけど、これはよくあるパターンらしい。
この悪夢を食べてもらえるなら、それが最善だ。あまねの両親と繋がっているとは思えないけど、利害は一致する。じゃあ、食べてもらった後は? 食べてもらって解決する問題とは思えない。それが一番大きな疑問だった。
思考は堂々巡りを続ける。
言いたくなかった。同情されたくないとか、恥ずかしいとかじゃない。後ろめたい過去を知られるのが嫌なんだ。けど、自分に限界があるのは、痛いほど知っていた。おまけに試験が近くなるにつれて、夢の内容も酷くなっている。それが終われば山を越える……かどうかはわからない。
決心はつかなかった。
重いため息を一つついて、家を出た。
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