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四、ある青年の絶望
第十五話
しおりを挟む思い返せばずっと、一人だった。
父には望まれず、母にはとうの昔に見限られた。優秀な姉と兄には、どう頑張っても追いつかない。出来が悪い子。何度そう言われたかわからない。
変えたくて、変わりたくて。全てが壊れた十八の冬。
今日の夢は、そのときの記憶を丁寧にたどっていった。
* * *
「もう統計とは一生わかり合えない気がする」
分厚い教科書を胸に抱えてあまねが呟いた。
大学生活最初の定期試験が迫りつつある。さすがのあまねも、〈獏〉の活動を休止してテスト勉強に勤しんでいた。
「えーっと、心理学じゃ統計は必須なんだっけ?」
あまねは無言で頷いた。前にパソコンのよくわからないアプリを使うと聞いたことがある。教科書も一回見せてもらったけど、高校の範囲を超えるとまったく理解できなかった。やっぱり俺は、理系科目向いてない。
あまねは淡々と、ただし顔を少し青くして呟く。
「もう無理。平均とか、なんとか分散とかわからない」
「平均くらいわかれよ……」
あまねは教科書を開いては閉じてを繰り返している。心なしか顔がげんなりしているような気がする。これは本格的に理解できてないやつだ。
「教科書見せてよ。高校までの範囲なら教えられるから」
「ほんとに?」
嬉しそうに身を乗り出してくる。詰め寄り方がすごい。食われそう。俺は悪夢じゃない。
受け取った分厚い教科書を、パラパラとめくってみる。最初の方だけなら俺でもなんとかなりそうだ。
さらにあまねはこんなことを言った。
「あと、パソコンの操作……」
「それは自分でなんとかしてください」
「すご……。わからなかったところ全部わかった」
あまねはノートを掲げて嬉しそうにしている。
根本的に理解していなかったから、教え始めたときは厳しい気がしたけど、授業自体はしっかり聞いているらしく、ノートはめちゃくちゃ綺麗だった。おかげで教える方も楽だった。これだけできたら、単位は落とさないと思う。
「優吾、理系じゃないよね?」
「んー……。高校は理系クラスだった」
「そうなんだ」
あまねは意外そうに言う。言ってなかったし、そりゃ知らないだろうな。
親の意向で入ったクラスだったから、ついていけるわけもなく落ちこぼれだった。今は思い出したくもない黒歴史だ。
「これだけできるなら、ここよりもいい大学行けたと思うけど」
玉響大学は偏差値こそ低くはないけど、地方の私立大学なので人気はあまりない。ここと同じかそれ以上の大学はごまんとあるので、通っているのは、他の私立大学や公立大学に受からなかった生徒が大半だった。
「……まあ、いろいろあってな」
あまねの場合、悪夢に関すること以外は、言葉を濁されたらそれ以上追求してくることはほとんどない。会話はそんなに続かないが、無駄に求められることがないのは楽だ。
各自のテスト勉強に戻った。
「…………」
突然会話がなくなった。遭遇してから約三カ月。こういうこともたまにある。今更気まずいとは思わない。
「ねえ、優吾痩せた?」
そしてまた、脈絡もなく会話が始まる。
「そんなことないと思うけど」
反射的にそう答えたものの、実際はどうかわからない。体重計は実家に余っていた気がするけど、必要になるとは思わなくて持ってこなかった。
頭痛がしたり上手く眠れなかったりっていうのはあるけど、今に始まった話じゃない。関係ないと言い聞かせる。
でも、彼女は率直な感想しか言わない。思ったことを全部口に出すほどじゃないが、嘘をつけるほど器用でもない。だからこそ、無視はできない。
「別に俺はいいよ。身長も体重もほぼ平均だから。あまねの方が心配」
見ればすぐに、あまねが小柄で痩せているのはわかる。あまり食べない質なのは知っていた。
「……私はチビだからいい」
不貞腐れてしまった。失礼なことを言ってしまったなと後悔する。
「服と言えばさ。もう八月だけど。その服装暑くないの?」
あまねは春に会ったときとほとんど変わらない服装をしている。長袖のシャツにカーディガン。いやカーディガンくらい脱げよ。
確か、三着くらいを着まわしていると聞いたような気がする。人目を気にしなければ、それで足りるそうだ。
「……暑い。けど服ない。お金ない。置く場所もない。買いに行く時間もない」
そんなにないないと言われると悲しくなってくる。本人はどう感じているんだろう。相変わらずの仏頂面で、なにも伝わってこない。
とはいえ、この国の真夏をその恰好で乗り切るにはかなりの精神力がいる。彼女が弱いとは微塵も思っていないが、はたしてそんな芸当ができるだろうか。
「あと、売ってるところ知らない」
彼女は、少なくとも俺より長く玉響に住んでいるはず。世間知らずにもほどがある。
「玉響駅の反対側に、でっかいショッピングモールあったろ。そこで買えると思うけど」
そう言ったけど、いい反応は返ってこない。無言で顔をそらされた。
忘れてた。こいつ、極度の人見知りだった。最初に声をかけられたときも、めちゃくちゃ緊張していたのを思い出す。
「……一緒に行く?」
このまま放っておくのも不憫なので誘ってみる。今度はいい反応が返ってきた。
「……行く」
短い返事。その答えが信頼であるのなら嬉しい。
「ん。じゃあテスト終わったらな。予定空けとくよ」
頷く彼女は、かすかに笑っていた。気がする。
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