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72)人工呼吸のシーン

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 学校のプールでゆかりちゃんが溺れて、美咲ちゃんが飛び込んで救い出して、プールサイドで人工呼吸をして蘇生させる、なんていうシーンを撮ろうとしていたのだけど、しかしそれは叶わない夢として終わってしまったようだ。

 ロケ車に乗った僕たちは学校をあとにしている。
 何ならばそれをこの作品のラストシーンにしようなんて企んでいたこともあったのである。
 重なり合う唇と唇をアップで捉えるのだ。

 どうやってその唇の柔らかさを表現しようか、男子と女子の唇ではなくて、女子同士の唇だぞというアピール。
 唾液が糸を引いたりしたら、見ている人たちは興奮すんだろうな。
 その人工呼吸のシーンの前、二人は緊張するだろうな。
 色々と夢は広がっていたのだけど。

 しかしそもそも、人工呼吸シーンの許可が下りなかった可能性もある。
 マネージャーさんに「無理です」と言われる可能性、美咲ちゃんかゆかりちゃんが「嫌です」っていう可能性。

 「どうしてそんなことをいきなり仰られるんですか?」

 「企画書に書いていませんよね? 契約段階で、そんな話しは一切ありませんでしたよね?」

 「なぜそんな無理が通用すると思われたのですか?」

 「これってキスシーンですよね? こんな作品で、ここまでやるわけないですよ?」

 最高に蔑まれながら、マネージャーさんにも担当者さんにも、取るに足らない提案だと一蹴され、ただただ恥をかいて終わり。
 そういう可能性が極めて高く、その最悪の可能性に思いを馳せれば、提案する機会がなくてむしろ良かったのかもしれないけれど、何か寂しいというか、大きな心残りがあって、後ろ髪を引かれる。

 まあ、しかし別にシチュエーションは人工呼吸である必要はないんだ。
 だからプールで溺れなくてもいい。
 とにかく唇が重なればいい。何とか二人のキスシーンを撮れないものか? 

 確かに人工呼吸というのは最高にロマンチックなシチュエーションである。捨てがたいアイデアではあります。
 キスそのものではないのに、唇が触れ合うなんて! 
 欲望ではなくて、必要性を動機にして唇が触れ合う。

 「命を助けるために、仕方なくやります」っていうのが、逆ににロマンチックを漂わせるのだ。
 思えば童話のお姫様、シンデレラか白雪姫が王子様のキスで目覚めるというのも、結局のところ人工呼吸の言い換えだろう。
 結論、人工呼吸最高。

 いや、もう諦めよう。それよりもまずは次のシーンのことを集中しよう。
 思えばこの作品の撮影も折り返し地点をとうの昔に過ぎ去って、大詰めを向かいつつある。
 残すところ、もう何と、え? あと三シーンだけ! 
 今朝、午前の撮影では何も貢献出来なかった。その事実は本当に悔しくて、やりきれない気持ちにしかならないのだけど。
 しかしこうやってまた指揮を取れたこと自体が奇跡なので、後悔よりも前向きな気持ちのほうが強いことも事実。

 「監督復帰おめでとうですね」

 ロケ車で隣に座った、我が担当者さんが言ってくる。

 「波乱万丈な現場ですよ。僕もこんな現場、初めてだ」

 「担当者さん、僕を裏切りましたよね? あなたは一度は僕を見捨てた!」

 そんな恨み言を僕は言わない。この人はこの人なりに良くやってるって僕は思ったりもするから。

 「これから頑張りますよ」

 「ラストスパートです、一緒にやり遂げましょう」



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