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霧中

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 昼下がり、アリスはロフィのシャツに刺繍をしていた。小鳥をねだられて、胸元に入れている。小姓見習いの間で流行っているのだとか。

 考え込むことも多く、このところ眠りが浅くなってしまっている。細かな作業をしていると、つい眠気がさした。

「姫様、よろしいでしょうか?」

 ミントが来客を告げる。離れに来る者など限られている。フーかシェリーシュか……、くらいなものだ。でも彼らはミントにすれば「客ではない」。

「小リスが参っておりますわ。お通ししてよろしゅうございますか?」

 返す理由もなく彼女は頷いた。こちらにやって来るのはどういう風の吹き回しか。以前はロフィの世話を押し付けにやってきた時だから、もう五年近くも前になる。

 もしや、また子供が出来てその養育を手回しよく任せにやってきたのかもしれない。そんな想像はミントにもつくらしく、早々腹立たしそうにしている。

 居間に入ってきたブルーベルは、案内を待たずにアリスの対面の椅子に掛けた。ドレスの皺を指で伸ばし、アリスに微笑んだ。

「趣味のお邪魔して悪いわね。まあ上手に出来るのね、青い鳥が可愛いわ」

 アリスの膝の刺繍をのぞき込んで褒めた。これには彼女もミントも面食らう。ブルーベルからこんな如才のなさを向けられたことがないからだ。見下した言葉しか飛んでこなかったのに。

「お茶にしましょうよ。ゆっくり話したいことがあってね」

 まだ時間にしては早かったが、ねだられてはしょうがない。ミントに頷いて用意を頼んだ。ミントはメイドにそれを伝え、ほどなく支度が整った。茶菓子類は昼食時に一緒に届くし、お茶の準備は離れのキッチンでも十分だ。

「あんた達、下がってちょうだい。邸内の切り盛りの話をするから聞かれちゃ困るのよ」

 お茶を運んで来たメイドにブルーベルが命じた。メイドはミントを見てミントが頷く。ミントに任せれば楽が出来るので、素早く居間から下がって行った。

「あんたは……、お姫様にくっ付いたものだから、まあいいわ」

 控えることを許可されたミントは、当然とした表情でアリスの背後に立った。

 アリスより先にティーポットに手を出し、自分のカップになみなみとお茶を注ぎ、そのついでにアリスの分も満たしてくれた。

「あら、お茶に差はないのね。まあいいわ。お茶くらい安いもんだし。他で差をつけているのなら、構わないのよ、全然」

「何のご用でしょう?」

 ミントが問う。無礼なブルーベルには敢えてアリスが言葉をかけてやる必要はないと断じている。

「そうよ、ご用よ。わたしね、この邸を出ることにしたの」

「どちらへお出かけで?」

「夜会や何かに行くのとは違うのよ。ディアーと別れてこの邸を出ていくと言ったの。もう決めたのよ」

 ここでアリスとミントは顔を見合わせた。にわかには信じ難い。けれど、めったと顔を合わせないブルーベルがやって来たのだから、相応の理由はあるはずだ。

 驚いて見つめる二人の視線を嬉しげに受け、一呼吸の後ブルーベルは嘆息して見せた。

「上手くいっていなかったのよ、この頃。遊び暮らすのにも飽きちゃったしね。そろそろ古巣が懐かしくなってきたの。技量が錆びつかない前に舞台に戻るわ」

「……それはディアー様も了解されていますの?」

 やっとアリスも声が出た。ブルーベルは頷いてから茶菓子に手を出した。口に入れるでもなく皿の上で崩し弄んでいる。苛立つことの少ないアリスだが、その仕草だけは嫌だった。食べ物で遊ぶ人は好きではない。

 ミントとまた見合った。ディアーも承知なのであれば、正式な別れに違いない。それは二人の問題で口を挟む気も起きなかった。アリスが不安なのはロフィのことだ。まさかとは思うが、邸を出る際に連れて行きたいなどと言い出すのではないかと、胸が騒いだ。

「ロフィ坊っちゃまは正式に姫様のお子になっておられますわよ。ドリトルン家の跡取りですもの、この家を離れることは許されませんわ」

 ミントがぴしゃりと告げた。そのままアリスの思い通りだが、別な角度でつきんと胸を刺すような痛みもある。

 ブルーベルは汚れた手をナフキンでぬぐい、手を振った。

「いいの。それはそちらでお好きにどうぞ。ただね……」

 やはりあっさりと実子を切り捨てるブルーベルに嫌悪感が湧く。この意味のない対面に嫌気がさした。彼女には珍しくはっきりと不快な表情を顔に出す。ミントを振り返り、

「ご挨拶がお済みのようよ」

 と辞去を促した。

「ちょっと待ってよ。待ってったら。まだ話は終わっていないの。ここからが本題よ。……あなた少し見ない間に雰囲気が変わったわね。前は人形みたいだったのに」

「手短にお願いしますよ」

 アリスの不快を知ってミントが釘を刺す。

「いいわ。明瞭に話すのは得意なの。あのね、ここを出るに当たって、まとまった資金を頂戴したいの。ディアーは駄目よ。あの人にその権利がないの。だから、あなたからフーに頼んでくれない?」

「ご自分で頼めばよろしいのでは? 姫様がお取り継ぎになる理由がありません」

 ミントの言葉にブルーベルは首を振った。フーとの交渉を諦め切っている様子がアリスには不思議だった。これまでドリトルン家で贅沢三昧に暮らしてきた。ディアーの権利がなくても、フーからその資金は出ていただろうに。同じように頼めば済む話に思えた。

「好きにお金が使えたのはディアーが当主を降りる前までよ。その後はまともにドレスだってあつらえてもらえない。三月に一度、しつこくしつこく言ってやっと一着よ。同じドレスで同じ人の前に立つ惨めさったらないわ」

 意味のない奢侈は無駄で下品にもなる。それが常識のアリスには理解し難い話だ。ともかく、フーがブルーベルへの資金を出し渋るというのはわかった。

「わたしだって、あなたに頼みたくてここにいるのじゃないわ。わたしじゃ埒が開かないのよ。あいつ、あなたには甘いから強めに言ってやって頂戴」

 ここでまた主従で顔を見合わせた。フーが離れのアリスに甘いなど、おかしな話だった。義父の命もあったが、自由を奪われ縛りつけられてきたというのに。

「衣装屋に聞いたのよ。わたしがドレスを一着やっと新調したら、あなたには一度に五着も与えたのよね。頭に来るじゃない。問い詰めてやったら「姫君は責務を果たしていらっしゃる、必要があるから許可したまでのこと」ですって! ディアーもいつか言っていたわ。「あいつ、アリスには甘いからな」って」

 フーとディアーのセリフを器用に声真似して再現するから、二人はちょっと笑った。すぐに笑いを引っ込めたミントが、

「確かに姫様はご自分の責務を立派に果たされておいでです。けれど、それでもってフーがこちらに甘いなんて、あなた方の誤解です。外出も制限を受けていて、お好きにあちこちお出かけできるあなたとは違います」

 その制限も亡義父の許可で緩んだことをミントは口にしなかった。しかし、外泊や旅行などは今もって許されていない。

「それは過保護から来るのではない? あなた、世間知らずで頼りないから」

 さすがに「過保護」には失笑が出た。世間知らずで頼りないのは自覚しているが。

「あなたの言葉ならあいつも耳を貸すから、お願いよ。満足のいく額を引き出してくれたら、ロフィには今後関わらないわ。その念書を書くつもりよ。これも交渉材料になるのじゃない?」

 再びアリスはミントと見合う。労に見合う条件に思えた。のち、ブルーベルが実母の権利を振りかざしに現れても、その念書があれば追い返すことが出来る。

 アリスが頷くとミントも頷きを返した。

「では、今からこちらに呼びましょうか? あなたも同席して……」

「それは止めておく。結果を知らせてくれればいいから。この程度は欲しいのよ」

 ブルーベルはミントの言葉を遮り望む金額を提示した。不自然な拒絶で違和感がある。「フーはアリスに甘い」と言うのなら、彼女を手切金の交渉の場に連れてくれば事が足りる。アリスを盾にフーに要求を突きつければいいのに。

 アリスは違和感以上に思い至らないが、ミントはその不自然な点を突いた。強気なブルーベルらしくない逃げ腰だ。
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