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禁じられた遊び

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 出立の時刻が近づいた。瞬く間に過ぎた時間を振り返り、アリスは魔法が解けたように思った。

 庭のロエルとは別に、彼女はいとまの挨拶を歓待の礼を述べるために館に入った。人の良い紳士で彼女の言葉に鷹揚に応じてくれた。なるほど公爵夫人の叔父らしく、あのふんわりとした優しさを思い起こした。

 男同士ゆえか、大叔父はロエルの行為に理解を見せるが、公爵夫人はきっとそうではない。息子が彼女とつき合うことを決して良しとしないはずだ。

 切れない糸に絡めとられてしまっているような二人も、必ず過去のものなる。恋が終われば、やましさや罪悪感から放たれて心はどこまでも平穏でいられるだろう。その時を願うくせに、すぐに迫った彼との別れすらひどく切ない。

 ミントの推す彼との恋はきらきらとまばゆい分、儚い。恋の只中にいながらも切なさに泣くのなら、その破局はどうなのだろうか。恐ろしくなる。

(終われるの……?)

 館の主人の見送りを断り戸外へ出た。ロエルは王都付近まで馬で送ってくれると言う。ボンネットに手をやり、ふと前を見た時それが目に入った。既に馬車が用意されていて、側には馬の姿もある。その奥で華やかな装いの女性がロエルに抱きついていた。

(え……)

 異様な情景に目が吸いついた。

 内容までは聞こえないが、女性の声が届いた。親しい間柄なのは考えなくてもわかる。ロエルは女性の腕を解いたが、距離を取るでもなく何やら応じている。彼に姉妹はいないはず。そうであっても成人したきょうだいのありようではなかった。

 これと似た光景を彼女は知っている。ディアーとその愛人のブルーベルの雰囲気がとても近い。そして、そのことで裏切られた惨めさも思い出す。

 アリスはそのまま回れ右をし、その場から逃げ出した。どうしようという意図もない。驚きに怯んで駆け出しただけだ。そっくりうさぎのように。

 ついさっき、ロエルとの関係を終わらせられるのかを恐れたのに、こんなにあっけなく恋の大きな粗が見つかってしまった。彼にとっての女性が自分だけだとなぜ思えたのか。甘い言葉をそっくり信じた自分を呪いたいほどだ。

 泣きながら走り、つまづいて転んだ。手のひらを擦ったがどうでもよかった。立ち上がり、また駆け出した。そこで背後に声を聞いた。

「アリス」

 ロエルだ。彼女は振り返らずにそのまま彼から逃げた。

(嫌)

 それだけを考え走るが、簡単に距離を詰められて腕を取られた。彼女はつかまれた腕を振り解こうともがいた。

「嫌」

「どうか、弁明をさせて下さい。あなたの誤解を解きたい」

「誤解なんて……」

「彼女はリリーアンといって、僕の知人です。僕の連絡が途絶えたので、つてを頼ってここを知ったそうです。まだ療養中だと思ったようで、見舞いにやって来たのだと……」

 夫のディアーはかつて愛人の存在が彼女に知れた時、後をフーに任せたきりにした。ロエルは自分で取り繕うとしている。不始末の処理に違いがあるが、その事実で残酷に打たれるのは同じく彼女だった。

「正直に言います。男女の仲でした。ですが、もう長く会っていないのです。誓って、あなたと重ねて彼女に会ったりはしていません。どうか、これだけは信じて下さい」

「あの方をお一人にして……、お気の毒ではないかしら」

「そんな意地悪をおっしゃらないで下さい。彼女とは別れたつもりでした。改めてそうするつもりでしたが、僕が身体を壊してしまって今に至ります。本当に思い出しもしなかった……」

 声には真実味があり、心情の切実さが伝わる。言葉に嘘は感じられない。しかし、彼女は振り返れないでいる。ロエルとリリーアンという女性の親密さを目の当たりにして過去が甦り、今の衝撃と併せ大きな痛みを感じていたからだ。

 涙ぐみながら告げた。

「……もうお別れしましょう」

「嫌だ」

 瞬時、つかまれた腕に痛みを感じるほど握られた。彼女が顔をしかめてすぐ腕が解かれた。ほどなく彼が跪いた。気配に彼女も驚き振り返る。うなだれた姿勢でドレスの裾に唇を押し当てていた。

「哀れみでも、慈悲でもいいから……」

 普通の令嬢なら、立派な紳士が跪いていれば制止するだろう。しかしアリスは身分上は全貴族の上位にある。だから驚きはしたがややぽかんとしただけだ。

 見て楽しい光景ではない。遅れてしゃがみ、彼の手をドレスから外した。

「許して下さいますか?」

 自分を見つめるロエルの目を受けきれず、逸らした。立ち上がり彼に背を向ける。彼への怒りは既にない。自分を騙したとも思っていなかった。

 彼女の後ろに立つ彼が低い声で言う。

「僕を軽蔑していらっしゃるのは、わかります。それは弁解のしようがない。汚いとお思いですか? あなたには許し難いのでしょうか?」

「そんな……。いいえ」

 ロエルは自由な独身貴族だったのだ。その過去を彼女が責める権利はない。これからも彼の人生は彼だけのものだ。

 彼をなじる気もなく、かといって許すとも言わない。ディアーがつけた傷がぶり返す痛みを感じながら、別れることにも踏み切れない。

 これでは愛情を盾に困らせ、気が済むまで彼を振り回しているようだ。

(わたしは拗ねているだけ……?) 

「あなただけです。僕の全てを捧げて構わない」

 ふわりと背後から抱きしめられた。肩に押し当てた額を感じる。

「何かおっしゃって下さい。……気が違いそうになる」

「……驚いたの、とても。夫があんな風に女性を邸に迎え入れたから……。とても嫌だった」

 彼女の言葉を受けるように、首筋に唇が触れた。しばらく当てがって、彼が強く肌を吸った。彼女が首をすくめると腕を解いた。唇の痕に彼女が指を触れる。

「僕はあなたを裏切ったりしない」

 彼女が振り返ると、彼は自分のシャツのタイを解いた。それを彼女の首にくるりと巻いた。
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