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箱の中のアリス

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「父に何かあったの?」

「いえ、ご実家のことではございません。その……」

 快活でものをはっきりと言う侍女には歯切れが悪い。具合でも悪いのかとその手を取った。鏡台の椅子に座るように促す。

「どうかして? 体調が悪いのなら、母屋へ人を呼んで来るから」

 ミントはアリスの前で強く首を振った。

「わたしの身体は元気です。ぴんしゃんとしておりますわ」

「そう。なら良いのだけれど……。いつもと様子が違うから不安よ」

「姫様……」

 ミントは顔を上げ、アリスをしっかりと見た。視線は物言いたげで強い意志を感じる。彼女はたじろいだ。

 しばらく言葉を溜めたミントは、エプロンのポケットから何かを取り出した。灯りの乏しい中でもそれが白く浮きたって見える。

「……お夕食の後でしたわ。居間の長椅子の下で見つけました。ロフィ坊っちゃまのお世話や何やらで、忙しくしておりまして、確認するのが後になってしまいました」

 ミントの膝に乗っているのは手紙だと、もうアリスにも気づいた。すぐにロエルからのものだと察した。夕食の前後はロフィが賑やかにしていることがあって、今夜もそうだった。バスを促すミントとふざけて逃げるロフィ。アリスもそれに加わって子供をなだめた。他、寝室の支度をするメイドたちが離れを行ったり来たりしていた。

 アリスは立ち上がり、枕元に置いたノートブックを開いた。挟んだはずの彼からの手紙はそこにはなかった。逆さに振っても落ちてはこない。

 その背中にミントの声がかかる。いつにない震えを含んだものだ。

「このお方は、……一体どなたのでしょうか? ミントにお教え下さいませ」

 振り返る勇気が出ない。ミントの目を見るのが怖かった。

(知られてしまった)

 アリスは唇を押さえた。そこからやっと潰れた声を出す。

「お前、読んだの?」

 読んだからミントはここにいるのだ。わかりきっていながらそんな言葉しか出てこない。彼女にまつわる全てをミントは担っている。誰のものか不明の手紙が離れにあれば、確認するのは当然のことだった。その上で、大した内容でないなら書き物机の上に置いておくはずだ。そして、翌朝「姫様、お手紙が落ちておりまして……」と伝えれば済む。寝室にアリスを訪ねることもない。

 手紙の様子から彼女との親しさも伝わったはずだ。手紙をねだるような内容は、アリスの立場で人目に触れていい男女間のものではない。

「はい……」

 重い静けさが続いた。おしゃべりなミントの沈黙が、そのまま彼女への痛烈な非難だった。

 どれほどかの後で、彼女はようやく振り返った。薄暗がりの中で侍女と向き合う。責められて当然の振る舞いを裏でしていた。知られたからといって非難から逃げるのは卑怯だと思った。

「姫様、ミントは決してお責めしようというのではございません。ただ、心配申し上げているのですわ。どうかミントに、お相手がどういった方か、姫様とどんなご関係かを教えて下さいませ」

 切々とした声にアリスは涙ぐんだ。男性との文通が露見した驚きと動揺が去った。後には忠実に支えてきてくれた侍女を裏切った申し訳なさ、自身へのみっともなさが込み上げた。

 どんな時も味方で側にあり頼りない世間知らずの彼女の盾になって支え続けてきてくれたのは、ミントだった。

「ごめんなさい、本当に馬鹿ね。恥ずかしいわ……。お父様に知れたら、なんて情けないと思われるか……」

「姫様、大丈夫でございます。ミントは決して誰にも口外はいたしません。姫様のお為にならないようなことをするわけがございませんわ。どうかご安心下さいませ。姫様お一人で抱え込まれるには、大き過ぎる問題でございますわ」

 アリスの手に負えない事柄だから、心の外へ溢れ出てしまった。今夜ミントに見つからなかったとして、別な誰か場所で、もっと違った露見の仕方をしたかもしれない。

(わたしだけでなく、ロエルにも大きな迷惑をかけたかもしれない)

 迂闊な自分を振り返る。

(ミントで良かったのだわ)

 そうならなかっただけ。少し何かが違えば、彼をも危機に晒したのだと恐ろしさに震えが走った。



 身震いする彼女をミントはベッドに掛けさせ、ショールを羽織らせてくれる。背をなぜながら問う。

「これは、レイナ様が送って下さるのでございますね?」

 彼女へ届く手紙類は実家の父かレイナからのみだ。まさか父親が絡むわけもない。ミントには手紙の男性がレイナに近しい人物だということことまで想像ができていた。

 アリスはミントの質問に頷いたり言葉を返すことで、ロエルの素性をあらかた告げてしまった。これまでの二人の経緯も打ち明けることになった。

「まあ、孤児院への寄付も小姓見習いの件も、ロエル様がお知恵を下さったとは……。ミントは何も承知しておりませんでしたわ」

 ミントはあきれた表情だ。蚊帳の外に置かれた状況は面白くはなかったが、説明でロエルがまともな紳士であるようには思われた。彼の母親の公爵夫人にも紹介されたと聞いた時には、驚きに目を見張った。その一点のみでも彼への心証は悪くない。

 手紙の調子からあからさまな表現はなくとも、ロエルのアリスへの強い思いが伝わった。一度や二度のやり取りの文面ではない。そんなことは目にしてすぐにわかった。その他の手紙にも似たような文面が綴られているはずだ。だからこそ、ミントは驚愕し恐怖した。無垢なアリスが不埒な紳士に騙されているのではないかと。

 しかし、そうではないようだった。
 
「ギアー様のご友人で公爵様のご子息でいらっしゃる。聞けば、ご立派な方のようでございますわね」

 恐る恐るミントの反応をうかがっていたアリスは、泣き笑いのような顔を見せる。大事な秘め事を信頼できる侍女と共有できたことに、今では芯からほっとしているのだった。

「お優しくて、頼りになるいい方よ。二人で数度会ったことはあるけれど、歩いて少しお話をしただけ。それだけなの。何もないわ、本当よ」

「わかっておりますとも」

 侍女へ伸ばした手をミントは包むように握った。

「ロエル様はもう王都を出ていらっしゃるのでしょう。姫様はお手紙を書かれるおつもりですか?」

「レイナからも言われたわ。気をつけなさいって……。ロエルにも伝えたそうよ。彼はわかったとおっしゃたとか……」

「ではこれは、レイナ様のご忠告前に書かれたお手紙ということでございますか……」

 アリスの様子には逡巡が見られた。レイナの忠告を受けるつもりなら、軽率にノートブックに挟み何度も眺めなどしない。迷い続けたからこそ、仕舞い込みもせず手近に置いていた。

「書いても、ロエルはもう喜んで下さらないかも。迷惑に思うだけかも……」

「そうでしょうか」

 ミントにだって独身貴族の心境など読めない。ただ、手紙を見る限りアリスの立場も慮った上での強い思慕がにじんでいる。

 侍女の身であれば、これ以上のロエルとのつながりは絶対に止めるべきだった。露見すれば、このドリトルン家で窮地に立たされるだけで、何の利もない。束の間の泡沫の恋愛は必ず覚める夢でしかなかった。

(けれど……)

 正論を述べ、主人を諌める気持ちが湧いてこない。幼い頃からのアリスをミントは間近で見て知っている。身分だけはずば抜けて高いが、それに見合う何を与えられてきたのだろうか。累代の高家の堅いしきたりと自由の少ない狭い世界だ。

(まだわたしたち使用人は、身分の枷がない分ましだった。外に出る自由があったもの。どこの高家でも、日雇いのメイドをしたりお給仕をしたりでこっそり稼ぎに出ていたわ。そこに息抜きも楽しみもあった……)
 
 アリスは挙句に、金で悪徳と評判の金貸しの家に売られるも当然に嫁がされた。食うに困らないだけで狭い世界は変わらない。実家への支援を盾に無理を飲まされ続けてきた五年……。

(いや、もう六年か……。そしてこれからも……。姫様の一番美しい時期は、この小さな離れで過ぎて行ってしまう)

 そんなアリスの儚い恋を摘み取る勇気が、ミントには出ない。今ここで断ち切らせるのは残酷だと思った。主人のためを思えば、すぐにでも危険な遊びの愚を解くべきだ。

 (思うからこそ、恋をしてほしい)

 二人に先はないが、今はある。自分なら巧く終局に導けるのではないか。恋の終わりに切なさで溺れても無味無感動の人生よりは潤いがある。

 (振り返って、甘く浸れる思い出くらいあっていい。姫様には本当に何もない……)

 ミントは手紙を開いた。手紙の主はアリスからの返事を待っている。レイナからの忠告はそれとして、本心に変化はないはずだ。

「お返事をお書きになられては?」

「レイナから止められたのに、はしたないわ、これ以上は……」

「でも、ロエル様がお好きなのございましょう?」

 当たり前の問いにアリスはうろたえた。うぶにおろおろと考え惑う様は微笑ましいいが、やや滑稽でもある。そんな主人を前にミントは落ち着き冷静になっていた。

(陶器を割った新入りのメイドみたいでいらっしゃるわ)

 アリス頬を押さえ俯いた。

「ええ」

 とか細い気持ちの吐露がある。

「姫様がはしたないことがありましょうか。ごく立派な紳士とお手紙のやり取りをなさるだけではございませんか。レイナ様は道を踏み外すことを恐れて、敢えてご忠告なさったのですわ。お手紙のやり取りがばれて噂になるとかお二人が駆け落ちをなさるとか、そういう突飛な事態を思われてのことです」

「駆け落ちだなんて、とんでもないわ。まさか、ロエルはそんなこと……」

「ね、そうでございましょう? これまで通り、お手紙を送り合えばよろしいではありませんか。お相手はそれで喜んで下さる。姫様にとってもロエル様とつながっていられることは、お嬉しいことのはずですわ」

「……実はね、書こうと思ったの。レイナに止められた後なのに……。返事はいただけなくてもいいから……」

 涙ぐむアリスに、ミントももらい泣きしそうになる。アリスの胸に萌した希望の火だ。それが彼女の限られたこれからを明るく照らしてくれる。それを倫理や世間体で吹き消すことは、彼女の両手両足を縛るのと何が違うのか……。

「ミントにお任せあれ。上手く計らいますわ。ご安心を」
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