忘れられた幼な妻は泣くことを止めました

帆々

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外から吹く風

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 アリスの日々は変わらずに過ぎて行く。

 そんな中、侍女のミントが母屋の様子を伝えた。

「あの子リスが大声で喚いているそうですよ。物にも当たって、鏡や大事な花瓶も割ったのですって」

「どうして?」

「ディアー様が当主を降りられたその腹いせでございますわ。邸の実権は大旦那様がお持ちでも、しばらく待てばそれもディアー様に移ると信じていたのですものね。なのに、ロフィ様が現れて。あてが外れて大暴れ……」

 ミントはおかしそうに笑った。

 アリスは笑う気になれなかった。子リスことブルーベルが気の毒なのではない。先日のロエルの言葉が耳に残っているからだ。

 彼はドリトルン家の当主代理を務めることの非を幾つか挙げた。この家への噂や負の印象もそっくりアリスが引き継ぐことになる……。せっかく外に出かける自由が広がったが、周囲からのそんな視線が彼女を待ち構えているとも言った。そして、それらに自分は耐えられるのか、と問うた。

 厳しい言葉に彼女は打ちのめされた。あの場は何も考えられず、ただロエルの前から去りたかっただけだ。どうしてあの人は自分を追い詰めるようなことばかり言うのか。わんぱく少年の意地悪から逃げる少女のような状況で、彼が来ない場所で身を縮めていたかった。

「あなたの人生が食いつぶされてしまう」。

 なのに、ふとした時この声が頭によみがえった。繰り返し、何度も。それは熱のある言葉で、その温みが時間を置いても冷める気配はなかった。

 だからこそ、彼への不快さや嫌悪感、怒りなどは長続きせずに消えていった。

(どうして、あんなことを言うのかしら?)

 関係性の薄い間柄で、その相手の厄介ごとなど知らん顔して聞き流せばいいのに。ひどくおせっかいか……、

(優しさ……?)

 そんなことをつい考えてしまう。もちろん答えは出ない。彼女にはあんなに自分に何かを問い詰める人間を知らない。しかも「あなたの人生」のために、だ。例えば、フーは高圧的だが選択権などほぼくれない。丁重に命じるだけだ。

「……ですからね」

 ミントが声を落とした。居間の開け放した窓から仲間と外遊びをするロフィの声が聞こえる。聞こえる恐れはないが、その耳を憚ったためだ。

「子リスがロフィ様を取り戻すことを考えているのじゃないかと……。当主の産みの母ということで、立場の保全を図るのじゃないかって言う人もあるのですわ」

 などと母屋の使用人たちの噂を披露した。

「まさか」

「ええ。とんでもない話でございます。子リスでは大旦那様がお認めになりませんわ」

 押し付けられた母親役だったが、今ではロフィを失うことは身を剥ぐような気持ちさえする。ミントの言うように高家出身を見込まれての母親役だ。それをそのままロフィの出自に組み込みたいが為の養子縁組だった。

「ディアー様が子リスの暴れっぷりに嫌気がさされたのか、外に逃げ出しておしまいだそうです」

「そう」

 ミントから聞くまで夫ディアーの様子など、頭にも浮かばなかった。つくづく自分とは遠い存在だと思う。子リスを邸に入れたことはまだいい。時間も経ちアリスも少女の幼さを過ぎた。だからディアーの裏切りは放って置けた。舅から自分との結婚を強要されたのだろうと想像もつく。その時、既にブルーベルに夢中になっていたのだから。割り込んだのはこちらだとも言える。

(でもロフィへの無関心は違う)

 血を分けた我が子へのあまりの薄情さには嫌悪感が湧く。その一点のみで男性として尊敬できないと感じた。

 当主を降りたとはいえ、ディアーは邸に当主然と住み続ける。離れと母屋で会うことはなくても、さっきのミントの言葉などのように気配は伝わることは避けられない。

(辛いのではないけれど……)

 そんな男性とここで歪な夫妻としていなくてはならない。長く長く。そんな自分の将来の暗さが肩にのしかかった。こんな物思いは彼女には新しいものだった。

 (夢などないけれど……)

 決まり切ったささやかな日常の繰り返し。それの積み重ねた先に、ぽっかりと空虚な自分が佇んでいる。歳を重ねた手には何が残っているのか……。少しだけそれが恐ろしい。

 重くなった心の気分転換に、アリスはブルーのノートを取り出した。先日、レイナから贈られた品だった。アリスにも女性に流行りのノート作りを勧めてくれた。テーブルに開いたそれには、教わったやり方で既に少しばかりのコレクションが貼られている。

 ページを広げると明るい気分に頬が緩んだ。ロフィの描いた絵、ふと思い起こした詩の一編、余りリボンやレースの切れ端……。他愛のないものでページが彩られている。けれども、その時の自分の大事なものばかり。

(レイナのノートはもっと華やかでおしゃれだったけれども。わたしはこれでいいわ)

 ふと思いついて、寝室にあるものを取りに戻った。引き出しの小箱の中にそれはあった。白いハンカチで青でイニシャルの刺繍が施されている。再会した日にロエルが親切に彼女へ差し出してくれたものだった。

 これもノートにコレクションしたくなった。ごく単調な彼女の生活に、ある意味彼は刺激と変化を投げかけてくれた。捨てがたく忘れがたい思い出だ。

 ハンカチをノートに挟んだ。
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