忘れられた幼な妻は泣くことを止めました

帆々

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繰り返す日々に

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 実家の高家を訪れた帰りだ。

 みすぼらしくらしくない程度に邸は手を入れられていた。父の療養は続いているが、今年に入り大学に通う頻度を増やしたのだという。研究を続けていられる生活の張りが表情や声にもうかがえた。

 今回もミントが用意したたっぷりのお菓子や果物を振る舞うこともできた。それらは使用人たちの楽しみにもなる。

 月に一度の訪問はこれで五十回を越えただろう。アリスもドリトルン家に嫁いで五年の日々を経た。夫のディアーとは滅多と会わない。結婚当初はこなした賓客の挨拶も、今では愛人のブルーベルが取り仕切っていた。紳士相手には如才ないので、評判もいいようだった。

 アリスは変わらずブルーベルが産んだロフィと一緒に庭の隅の離れで暮らしていた。離れは部屋数を増やし、その中をロフィが走り回っている。元気な子に育っていた。

 既に通いの乳母は去り、代わりに離れ付きのメイドが二人増えた。アリスの身の回りを受け持つ侍女のミントは新人たちを細かく指導している。

 そのメイドの一人が噂していたことがある。

「公園通りの角の店の『レンガ焼き』はお勧めですよ。非番の日に友達と食べたのですけれど、表面が薄い飴でパリパリとして、その下にクリームが詰まっているんです。とっても美味しいですわ」

 アリスは興味津々だった。『レンガ焼き』の名はすぐに覚えた。看板が出て何より人気の店だから人が並んでいてすぐにわかると言った。

 実家訪問の帰りにはメイドに聞いた街で噂のお菓子を買って食べるのが、彼女の習慣になっていた。日々の食事に不満はないが、こういう外での食べ歩きは全く別で心がうずいてならない。元より食べることは大好きなたちだ。
 
 公園前の溜まりに馬車を停め、馬車から外に降りた。御者には待ってくれるように告げ、一人で歩く。いつもそうだった。「買って参りますよ」と申し出られるが、並んで自分で買うのが楽しい。

 メイドの言葉通り、少し歩いた先に看板が見えた。小さな店先には十人ばかりが既に並んでいた。アリスもその後についた。

 クリームの甘い匂いが流れてくる。短いが自由な外での時間は、実家通いのおまけで大きな楽しみだった。

「二つ下さいな」

 一つは今食べる自分用。残りは彼女と同じく自由の少ないミントへのお土産にする。

 紙の包みを受け取った。差し出されたおかみさんの手にアリスは小銭を落とした。

「あら、お客さん、これじゃあ足りませんよ。あとこれを一枚もらわないと」

「え」

 持ち合わせは支払った小銭のみだ。安価な菓子を二つばかり買うのが常で、それしか用意もなかった。馬車を振り返る。

「少し待って下さいな。今、借りてくるから」

「困りますよ。後にもお客が並んでいるのに」

「あ……、なら、いいわ。お返しします。ごめんなさい」

 残念だが、縁がなかったとあきらめよう。彼女は受け取った袋を返そうとした。

「一度包んだものは売り物にならないんですよ。返されたって、こっちは損なんですよ」

 強く返されてアリスはたじろいだ。おろおろしてしまったが、馬車に戻って御者に小銭を借りて来るしかない。

「ちょっと、待って下さいね。お金は払いますから…」

 袋を商品棚に戻し、彼女は列を離れようとした。その背におかみさんのしゃがれた声がかかる。

「ちょっと! 逃げるんですか!」

 そう責められればこの場を去りがたい。「何だ? 泥棒か?」「金が足りないらしい」……。列の中でちょっとした騒ぎになってしまっていた。気まずさやみっともなさ、羞恥で彼女は頬を赤くし、涙ぐんでしまっている。

(どうしよう)

 その時、アリスの側に立った人物がいた。

「これで足りるだろう」

 手持ちの足りない彼女に代わり、菓子の代金を支払ってくれたのだ。男性だった。金さえ払ってもらえれば、おかみさんも文句はない。

「毎度あり。またのお越しを」

 機嫌のいい声が降ってきた。

 驚く彼女へその人物は商品棚の紙包を彼女へ手渡してくれた。列から外れるように彼女を促した。

「……どうも、ありがとうございます…」

「いや、お気になさらないで。『レンガ焼き』が評判で、最近値上げしたそうですよ」

 笑みを含んだ声が返ってきた。

「お住まいをお教え下さい。お借りしたお金はお届けに上がりますわ」

「ごく少額です。無用ですよ」

 他人の親切に甘える経験もない。このままでいいものか彼女には判断がつきかねた。相手は紳士の装いの背の高い男性だった。金髪で非常にきれいな顔立ちだ。青い目が彼女を薄く微笑みながら見ている。

 その視線がふと凝視に変わった。あんまりじろじろ見つめるので、アリスは居心地が悪くなった。本人も返金無用だと言う。親切は親切として感謝し、もう立ち去りたくなった。

「人違いなら申し訳ない。……以前、おそらく、ギアー氏の邸でお会いしませんでしたか?」

 男性から意外なせりふが飛び出した。ギアー氏は仲良しのはとこレイナの夫だ。彼女はその邸にごくたまに訪れることがあった。

 直近の訪問は二年近く前のことだ。その際、目の前の男性と会った記憶はない。レイナの母も訪れていて、三人でのお茶だったはず。

 アリスは首を振った。

「さあ、わたしではないと思います…」

「ギアー氏の晩餐で、あなたをお見かけした気がする」

 アリスはまた首を振る。稀にレイナを訪問するのは、午後のお茶の時間と決まっていた。晩餐まで残っているなどあり得なかった。夜の外出はフーが許さない。

 彼女の住む離れと夫ディアーたちの母屋は生活が別だ。アリスの帰宅が遅れても、たとえ外泊したって誰にも支障がある訳でもない。それでもフーは彼女の外出を厳しく制限している。

(晩餐でご一緒しただなんて……)

 そっとその姿をうかがう。もし、彼のような紳士とそんな時間を過ごしたなら、うっかり忘れてしまうはずはないと思った。しかし、その彼は額に指を当て何かを思案している。

「あなたに思えてならない。確か、そう、レイナ夫人のご親族の方だった……! そうではないですか?」

「え」

 アリスは彼を見返した。アリスとレイナの関係を知るのなら彼は自分を知っている。会ったというのも人違いではないのではないか。

(あ)

 そこでようやく記憶の中から思い出のかけらが浮かび上がってくる。レイナの邸で晩餐を取った夜のことだ。迎えに来たフー。レイナへの恫喝めいた無礼。そこを割って入ってくれた人がいた。

(親切にして下さった、あの方?)

 改めて見る男性は記憶の中の彼とは違う。過去の彼は伸びた髪を無造作に縛り、無精髭だらけ。上着も埃まみれだった。

(レイナがメイドに彼の上着の埃を払わせていたわ)

 今の彼はあの彼とは違う。無精髭もなくやや癖のある髪は額に触れかかるが、上品で身ぎれいである。気づかなくても不思議でない。

「ロエル・ゼム・アレクジア。僕ですよ、アリス姫」
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