目覚めたら男爵令嬢でした〜他人の世界の歩き方〜

帆々

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 ノアは急ぎ足で玄関へ回った。そこにはすでに馬車が用意されてあった。見知った御者が彼女の姿を認め、ドアを開けてくれた。

「ごめんなさい。いいの。もう送っていただかなくて」

 彼女は首を振った。気づいて、着ていたレインコートを脱ぐ。それを御者へ差し出した。

「返しておいて下さいな。お借りしていたの」

「ですが、セレストさんがお嬢様をお送りするようにと」

 彼女は再び首を振り、歩き出した。

(セレストさんが何と言おうと、関係ないわ)

 昨夜は馬車で通ったため、気がつかなかった。馬車道から門扉のある通りまでは距離があった。小走りに歩く。

 ただ、言葉で拒絶されただけなのに。まるであちこちをムチで打たれたように感じた。

 ようやく通りへ出た。何も考えずに歩を運ぶ。そうしながら、今向かう方向が合っているのかさえおぼつかない。

(どうだっていい)

 いつしか肩が落ちていることに気づいた。気持ちが下がっているのだと自覚する。意識して姿勢を伸ばしてみた。

(大したことじゃないわ)

 自分一人が彼を友人のように捉えてしまっていただけ。彼にとっては、可哀想で気の毒な女性に過ぎず、紳士的な儀礼の延長でつき合ってくれていただけのこと。

(その思い上がりに、現実を突きつけられただけ)

 悔しさと惨めさが胸にあふれるが、一番大きなものは悲しさだった。

 その彼女の側へ、馬車が止まった。

「お乗り下さい」

 アシュレイの邸の御者だった。彼女を追いかけてきてくれたようだ。空のまま帰ったら、家政婦のセレステにどやされるのかもしれない。

 強情を張っても仕方がない。歩くのが嫌になるほど足も疲れていた。

「ありがとう」

 手伝ってもらい、車に乗り込んだ。

 痛んだ足をさする。気丈なつもりでも、ノアの身体は繊細で、彼女の無理強いにはすぐに根を上げてしまう。

(ごめんね、意地悪ね、わたし)

 ため息が出た。

 心を重くする悲しみのやり場もない。にじむ涙を指で押さえた。

(自分が嫌になる)



 キアヌの結婚パーティーから数日後、アシュレイの代理人を名乗る男が邸にやって来た。

「ハークレイと申します」

 男はがっしりとした身体つきの精悍な顔立ちをしていた。貴族の使用人と言うより、船乗りと聞いた方がしっくりくる雰囲気だ。

 彼女自身が忘れていた約束だった。ブルー家の家宝の売却について、以前アシュレイに相談したことがあった。その時、ある男を寄越すと請け負ってくれていた。

(覚えていてくれたんだ)

 と、驚きが大きい。

 酔った彼の言葉を鵜呑みにし、邸に泊まった彼女の図々しさは、彼をうんざりさせたに違いない。それを理由に、絶交されたものだと思っていた。

(これきりだろうけれど。律儀な人だわ)

 虎の子の家宝だ。つても知識もないまま失敗して手放したくはない。そこは素直に好意に甘えようと思った。

 貴族的な雰囲気はないが、ハークレイは世知に長けた男のようだ。貴族社会の知識も豊富で、どこに男爵家の家宝売却の話を流せばいいか心得ていた。

「競りにでも出すのかと思ったわ」

 ノアの言葉に頷きながらも、

「広く買い手を募れる分、オークションもいいのですが、出品するだけで、売値の一割五分が手数料に抜かれてしまう。それに、組んだ買い手の出来レースで、安値がついて終わることもままあります」

 と、説明した。

「そうなの? 知らなかったわ」

「アシュレイ様は出来る限り高値での取引を、とおっしゃっていましたので。買い手を絞って当たらせてもらおうかと」

「そう、ありがたいわ」

 こちらの困窮振りをよく知っているからこその彼の親切だ。ふっと心が和んだ。

 相談の最後だ。ハークレイが聞いた。

「家宝を売って、今後どうなさるのです?」

「ジョシュとも話したのだけど、まず借金を返すわ。そうしないと、領地からの収入がないの。もし余れば、ここを直して何か商売をしようと思って」

「ほう、どんな?」

「何か食べ物関係を。そう、あまりお金をかけないで出来ることね」

「大学の仕事を辞められてよかった。カフェテリアはご令嬢の働く場所にはふさわしくない」

「ご令嬢なんて。ご覧の通りよ。それに辞めたのじゃなくて、お店がなくなったの。それでしょうがなくよ」

 ハークレイを見送り、誠実で有能な人を寄越してくれたアシュレイへ、しみじみ感謝の念が起こる。

 しかし、その礼は自分ではしない。礼状も書かない。ジョシュを通して彼へ告げてもらうつもりだ。彼女はもう勘違いをしたくなかった。

(距離を置かないと。適切な距離を)

 物事が少し前に進み、気持ちがほんのり上向いた。以前、暴行相手の子を身ごもったのではないかと、不安に震えていた頃に比べれば、何てこともない。

(そういえば)

 と、彼女はちょっとした違和感を持った。なぜ、ハークレイは彼女が大学のカフェテリアで働いていたことを知っていたのだろう。

(アシュレイ先生が言ったのかしら)

 しかし、そんな彼女の予備知識が、家宝の売買に必要と思えなかった。

 余計なことを口にしない彼だ。ノアが大学のカフェテリアで勤めていたことなどを敢えてハークレイに言ったとは考えにくい。

 考えても意味のないことだ。アシュレイの用で大学に行った際にでも、『子鹿亭』で働く彼女を見かけたのかもしれない。

(そんなところね、きっと)
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