28 / 47
距離
5、適切な間柄
しおりを挟む
ノアは急ぎ足で玄関へ回った。そこにはすでに馬車が用意されてあった。見知った御者が彼女の姿を認め、ドアを開けてくれた。
「ごめんなさい。いいの。もう送っていただかなくて」
彼女は首を振った。気づいて、着ていたレインコートを脱ぐ。それを御者へ差し出した。
「返しておいて下さいな。お借りしていたの」
「ですが、セレストさんがお嬢様をお送りするようにと」
彼女は再び首を振り、歩き出した。
(セレストさんが何と言おうと、関係ないわ)
昨夜は馬車で通ったため、気がつかなかった。馬車道から門扉のある通りまでは距離があった。小走りに歩く。
ただ、言葉で拒絶されただけなのに。まるであちこちをムチで打たれたように感じた。
ようやく通りへ出た。何も考えずに歩を運ぶ。そうしながら、今向かう方向が合っているのかさえおぼつかない。
(どうだっていい)
いつしか肩が落ちていることに気づいた。気持ちが下がっているのだと自覚する。意識して姿勢を伸ばしてみた。
(大したことじゃないわ)
自分一人が彼を友人のように捉えてしまっていただけ。彼にとっては、可哀想で気の毒な女性に過ぎず、紳士的な儀礼の延長でつき合ってくれていただけのこと。
(その思い上がりに、現実を突きつけられただけ)
悔しさと惨めさが胸にあふれるが、一番大きなものは悲しさだった。
その彼女の側へ、馬車が止まった。
「お乗り下さい」
アシュレイの邸の御者だった。彼女を追いかけてきてくれたようだ。空のまま帰ったら、家政婦のセレステにどやされるのかもしれない。
強情を張っても仕方がない。歩くのが嫌になるほど足も疲れていた。
「ありがとう」
手伝ってもらい、車に乗り込んだ。
痛んだ足をさする。気丈なつもりでも、ノアの身体は繊細で、彼女の無理強いにはすぐに根を上げてしまう。
(ごめんね、意地悪ね、わたし)
ため息が出た。
心を重くする悲しみのやり場もない。にじむ涙を指で押さえた。
(自分が嫌になる)
キアヌの結婚パーティーから数日後、アシュレイの代理人を名乗る男が邸にやって来た。
「ハークレイと申します」
男はがっしりとした身体つきの精悍な顔立ちをしていた。貴族の使用人と言うより、船乗りと聞いた方がしっくりくる雰囲気だ。
彼女自身が忘れていた約束だった。ブルー家の家宝の売却について、以前アシュレイに相談したことがあった。その時、ある男を寄越すと請け負ってくれていた。
(覚えていてくれたんだ)
と、驚きが大きい。
酔った彼の言葉を鵜呑みにし、邸に泊まった彼女の図々しさは、彼をうんざりさせたに違いない。それを理由に、絶交されたものだと思っていた。
(これきりだろうけれど。律儀な人だわ)
虎の子の家宝だ。つても知識もないまま失敗して手放したくはない。そこは素直に好意に甘えようと思った。
貴族的な雰囲気はないが、ハークレイは世知に長けた男のようだ。貴族社会の知識も豊富で、どこに男爵家の家宝売却の話を流せばいいか心得ていた。
「競りにでも出すのかと思ったわ」
ノアの言葉に頷きながらも、
「広く買い手を募れる分、オークションもいいのですが、出品するだけで、売値の一割五分が手数料に抜かれてしまう。それに、組んだ買い手の出来レースで、安値がついて終わることもままあります」
と、説明した。
「そうなの? 知らなかったわ」
「アシュレイ様は出来る限り高値での取引を、とおっしゃっていましたので。買い手を絞って当たらせてもらおうかと」
「そう、ありがたいわ」
こちらの困窮振りをよく知っているからこその彼の親切だ。ふっと心が和んだ。
相談の最後だ。ハークレイが聞いた。
「家宝を売って、今後どうなさるのです?」
「ジョシュとも話したのだけど、まず借金を返すわ。そうしないと、領地からの収入がないの。もし余れば、ここを直して何か商売をしようと思って」
「ほう、どんな?」
「何か食べ物関係を。そう、あまりお金をかけないで出来ることね」
「大学の仕事を辞められてよかった。カフェテリアはご令嬢の働く場所にはふさわしくない」
「ご令嬢なんて。ご覧の通りよ。それに辞めたのじゃなくて、お店がなくなったの。それでしょうがなくよ」
ハークレイを見送り、誠実で有能な人を寄越してくれたアシュレイへ、しみじみ感謝の念が起こる。
しかし、その礼は自分ではしない。礼状も書かない。ジョシュを通して彼へ告げてもらうつもりだ。彼女はもう勘違いをしたくなかった。
(距離を置かないと。適切な距離を)
物事が少し前に進み、気持ちがほんのり上向いた。以前、暴行相手の子を身ごもったのではないかと、不安に震えていた頃に比べれば、何てこともない。
(そういえば)
と、彼女はちょっとした違和感を持った。なぜ、ハークレイは彼女が大学のカフェテリアで働いていたことを知っていたのだろう。
(アシュレイ先生が言ったのかしら)
しかし、そんな彼女の予備知識が、家宝の売買に必要と思えなかった。
余計なことを口にしない彼だ。ノアが大学のカフェテリアで勤めていたことなどを敢えてハークレイに言ったとは考えにくい。
考えても意味のないことだ。アシュレイの用で大学に行った際にでも、『子鹿亭』で働く彼女を見かけたのかもしれない。
(そんなところね、きっと)
「ごめんなさい。いいの。もう送っていただかなくて」
彼女は首を振った。気づいて、着ていたレインコートを脱ぐ。それを御者へ差し出した。
「返しておいて下さいな。お借りしていたの」
「ですが、セレストさんがお嬢様をお送りするようにと」
彼女は再び首を振り、歩き出した。
(セレストさんが何と言おうと、関係ないわ)
昨夜は馬車で通ったため、気がつかなかった。馬車道から門扉のある通りまでは距離があった。小走りに歩く。
ただ、言葉で拒絶されただけなのに。まるであちこちをムチで打たれたように感じた。
ようやく通りへ出た。何も考えずに歩を運ぶ。そうしながら、今向かう方向が合っているのかさえおぼつかない。
(どうだっていい)
いつしか肩が落ちていることに気づいた。気持ちが下がっているのだと自覚する。意識して姿勢を伸ばしてみた。
(大したことじゃないわ)
自分一人が彼を友人のように捉えてしまっていただけ。彼にとっては、可哀想で気の毒な女性に過ぎず、紳士的な儀礼の延長でつき合ってくれていただけのこと。
(その思い上がりに、現実を突きつけられただけ)
悔しさと惨めさが胸にあふれるが、一番大きなものは悲しさだった。
その彼女の側へ、馬車が止まった。
「お乗り下さい」
アシュレイの邸の御者だった。彼女を追いかけてきてくれたようだ。空のまま帰ったら、家政婦のセレステにどやされるのかもしれない。
強情を張っても仕方がない。歩くのが嫌になるほど足も疲れていた。
「ありがとう」
手伝ってもらい、車に乗り込んだ。
痛んだ足をさする。気丈なつもりでも、ノアの身体は繊細で、彼女の無理強いにはすぐに根を上げてしまう。
(ごめんね、意地悪ね、わたし)
ため息が出た。
心を重くする悲しみのやり場もない。にじむ涙を指で押さえた。
(自分が嫌になる)
キアヌの結婚パーティーから数日後、アシュレイの代理人を名乗る男が邸にやって来た。
「ハークレイと申します」
男はがっしりとした身体つきの精悍な顔立ちをしていた。貴族の使用人と言うより、船乗りと聞いた方がしっくりくる雰囲気だ。
彼女自身が忘れていた約束だった。ブルー家の家宝の売却について、以前アシュレイに相談したことがあった。その時、ある男を寄越すと請け負ってくれていた。
(覚えていてくれたんだ)
と、驚きが大きい。
酔った彼の言葉を鵜呑みにし、邸に泊まった彼女の図々しさは、彼をうんざりさせたに違いない。それを理由に、絶交されたものだと思っていた。
(これきりだろうけれど。律儀な人だわ)
虎の子の家宝だ。つても知識もないまま失敗して手放したくはない。そこは素直に好意に甘えようと思った。
貴族的な雰囲気はないが、ハークレイは世知に長けた男のようだ。貴族社会の知識も豊富で、どこに男爵家の家宝売却の話を流せばいいか心得ていた。
「競りにでも出すのかと思ったわ」
ノアの言葉に頷きながらも、
「広く買い手を募れる分、オークションもいいのですが、出品するだけで、売値の一割五分が手数料に抜かれてしまう。それに、組んだ買い手の出来レースで、安値がついて終わることもままあります」
と、説明した。
「そうなの? 知らなかったわ」
「アシュレイ様は出来る限り高値での取引を、とおっしゃっていましたので。買い手を絞って当たらせてもらおうかと」
「そう、ありがたいわ」
こちらの困窮振りをよく知っているからこその彼の親切だ。ふっと心が和んだ。
相談の最後だ。ハークレイが聞いた。
「家宝を売って、今後どうなさるのです?」
「ジョシュとも話したのだけど、まず借金を返すわ。そうしないと、領地からの収入がないの。もし余れば、ここを直して何か商売をしようと思って」
「ほう、どんな?」
「何か食べ物関係を。そう、あまりお金をかけないで出来ることね」
「大学の仕事を辞められてよかった。カフェテリアはご令嬢の働く場所にはふさわしくない」
「ご令嬢なんて。ご覧の通りよ。それに辞めたのじゃなくて、お店がなくなったの。それでしょうがなくよ」
ハークレイを見送り、誠実で有能な人を寄越してくれたアシュレイへ、しみじみ感謝の念が起こる。
しかし、その礼は自分ではしない。礼状も書かない。ジョシュを通して彼へ告げてもらうつもりだ。彼女はもう勘違いをしたくなかった。
(距離を置かないと。適切な距離を)
物事が少し前に進み、気持ちがほんのり上向いた。以前、暴行相手の子を身ごもったのではないかと、不安に震えていた頃に比べれば、何てこともない。
(そういえば)
と、彼女はちょっとした違和感を持った。なぜ、ハークレイは彼女が大学のカフェテリアで働いていたことを知っていたのだろう。
(アシュレイ先生が言ったのかしら)
しかし、そんな彼女の予備知識が、家宝の売買に必要と思えなかった。
余計なことを口にしない彼だ。ノアが大学のカフェテリアで勤めていたことなどを敢えてハークレイに言ったとは考えにくい。
考えても意味のないことだ。アシュレイの用で大学に行った際にでも、『子鹿亭』で働く彼女を見かけたのかもしれない。
(そんなところね、きっと)
279
お気に入りに追加
756
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】
妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

できれば穏便に修道院生活へ移行したいのです
新条 カイ
恋愛
ここは魔法…魔術がある世界。魔力持ちが優位な世界。そんな世界に日本から転生した私だったけれど…魔力持ちではなかった。
それでも、貴族の次女として生まれたから、なんとかなると思っていたのに…逆に、悲惨な将来になる可能性があるですって!?貴族の妾!?嫌よそんなもの。それなら、女の幸せより、悠々自適…かはわからないけれど、修道院での生活がいいに決まってる、はず?
将来の夢は修道院での生活!と、息巻いていたのに、あれ。なんで婚約を申し込まれてるの!?え、第二王子様の護衛騎士様!?接点どこ!?
婚約から逃れたい元日本人、現貴族のお嬢様の、逃れられない恋模様をお送りします。
■■両翼の守り人のヒロイン側の話です。乳母兄弟のあいつが暴走してとんでもない方向にいくので、ストッパーとしてヒロイン側をちょいちょい設定やら会話文書いてたら、なんかこれもUPできそう。と…いう事で、UPしました。よろしくお願いします。(ストッパーになれればいいなぁ…)
■■
【完結】アラサー喪女が転生したら悪役令嬢だった件。断罪からはじまる悪役令嬢は、回避不能なヤンデレ様に溺愛を確約されても困ります!
美杉。祝、サレ妻コミカライズ化
恋愛
『ルド様……あなたが愛した人は私ですか? それともこの体のアーシエなのですか?』
そんな風に簡単に聞くことが出来たら、どれだけ良かっただろう。
目が覚めた瞬間、私は今置かれた現状に絶望した。
なにせ牢屋に繋がれた金髪縦ロールの令嬢になっていたのだから。
元々は社畜で喪女。挙句にオタクで、恋をすることもないままの死亡エンドだったようで、この世界に転生をしてきてしあったらしい。
ただまったく転生前のこの令嬢の記憶がなく、ただ状況から断罪シーンと私は推測した。
いきなり生き返って死亡エンドはないでしょう。さすがにこれは神様恨みますとばかりに、私はその場で断罪を行おうとする王太子ルドと対峙する。
なんとしても回避したい。そう思い行動をした私は、なぜか回避するどころか王太子であるルドとのヤンデレルートに突入してしまう。
このままヤンデレルートでの死亡エンドなんて絶対に嫌だ。なんとしても、ヤンデレルートを溺愛ルートへ移行させようと模索する。
悪役令嬢は誰なのか。私は誰なのか。
ルドの溺愛が加速するごとに、彼の愛する人が本当は誰なのかと、だんだん苦しくなっていく――

キャンプに行ったら異世界転移しましたが、最速で保護されました。
新条 カイ
恋愛
週末の休みを利用してキャンプ場に来た。一歩振り返ったら、周りの環境がガラッと変わって山の中に。車もキャンプ場の施設もないってなに!?クマ出現するし!?と、どうなることかと思いきや、最速でイケメンに保護されました、
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる