目覚めたら男爵令嬢でした〜他人の世界の歩き方〜

帆々

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距離

2、二人

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 夜も更けて、招待客も少なくなった。

 それでもまだ親しい人々は店に残り、テーブルを囲んでいる。ノアもその一人だ。

 彼女はキアヌの花嫁のエミリーと話をしていた。エミリーが少女時代、ノアのよく知る地方で住んでいたという。

「古城があって、その近くに父が別邸を持っていたの。母の静養を兼ねてしばらく住んだわ」

「オーブリーの城ね、わかるわ。素敵な土地よね」

 懐かしくて相槌を打つと、キアヌが彼女へ尋ねる。

「ノアは王都を出たことがあるのかい?」

「え」

 自分の出身地をよく知る人物と出会い、楽しくて余計なことを話してしまった。ノアは零落した男爵家の令嬢だ。社交も断つほどの困窮した身の上である。

(避暑地にもなる風光明媚な土地に行ったなんて、辻褄が合わないわ)

 慌てて、首を振る。

「ううん。乳母がよく話していたの、そこの出身だったから。まるで自分のことみたいに思えちゃったの、おかしいわね」

 と上手くごまかした。

「一度いらして、いい所だから。ご招待するわ」

「ありがとう」

 上手く切り抜けられた、とほっとした。

 新郎新婦は今期末の長期休暇を使い、旅行に出かけるのだという。睦まじく幸せそうな二人を見て、彼女は娘のピッパの結婚式を思い出してしまう。

(ちょうどこんな風に初々しくて、満ち足りた笑顔をしていたっけ)

 自分がいなくても、きっと上手くやっているに違いない。そんな信頼はあるが、ひっそりと寂しかった。

 遅い時間になり、散会になった。彼女は当たり前にジョシュの姿を探した。少し前まで一緒にいて、食べたり飲んだり幸せそうにしていた。

「ジョシュを見なかった?」

 飲み過ぎたのか、ややふらついた足元のジークに問う。

「誰か呼びに来て出て行ったぞ。学生と混じって、実験でもしているんだろ」

「え?!」

(勝手なんだから。一緒に帰るからって、言ってあったのに)

 彼女はキアヌとエミリーに改めてお祝いを言うと、店を出た。急ぎ足でジョシュの研究室のある方へ向かう。

 その時だ。背後に硬い靴音が早足で追いかけて来る。わき上がる恐怖を感じて、ノアは走り出した。条件反射だった。ドレスの裾をつかみ、すねがのぞくのも構わず足音から逃げようとした。

(どこか灯りのあるところまで!)

 ジョシュの研究室のある棟を目指していたはずが、恐ろしさに混乱して今どこにいるのかわからなくなった。

 かつての彼女ならともかく、ノアの身体は華奢で繊細だ。疾走に向いていない。ほどなく脚がもつれ、転びそうになった。

「あ」

 そんな声がもれた時、後ろから腕をつかまれた。転びかけた彼女の身体に誰かが腕を回す。強く引かれ、地面に倒れ込むことを免れた。

「僕だ。ノア、アシュレイだ」

「え?!」

「送ろうと思って、追いかけて来た」

「だったら、そう言って!」

 怖かったのだ。

 腕が解かれ、彼女は乱れた裾を直した。

「申し訳ない。だが、君が逃げるから、追うしかないじゃないか」

「名乗って下さい」

「名乗る隙もなかった。大声は張れない」

(張ればいいじゃない)

 と思ったが、親切でわざわざ追いかけてきてくれたのだ。気を悪くさせるような言葉は慎んだ。

「ありがとう。でもジョシュのところに行って、一緒に帰ります」

「彼は泊まり込むよ。そう言っていた」

「まあ」

 ジョシュはアシュレイに妹を送ることを任せて、自分はさっさと切り上げたようだ。

(ご馳走をたらふく食べて)

 相変わらずのジョシュのマイペースに、あきれより脱力する。

「先生、ごめんなさい。ジョシュが迷惑を…」

「いや、いいんだ。僕から申し出たことだ。君を送るのは慣れている」

「はあ」

 いつになく、彼は彼女へ手を差し出した。女性をエスコートする紳士の仕草だ。昔、亡夫がそうしてくれた以来で、彼女は戸惑った。

「どうぞ」

 声で促され、おずおずと手を取った。腕を貸してもらう。

 どこを走ってきたのか、『子鹿亭』の灯りが見当違いの場所に見えた。しばらく黙ったままで歩く。

「君は、オーブリーの城を見てみたい?」

「え」

「エミリーがあの土地のことを話すのを、熱心に聞いていたから」

「…そうだったかしら?」

 会の最後には、十人ほどに参加者も減っていた。テーブルを囲み集っていたのだから、彼女の表情に気づいてもおかしくない。

(おかしくはないけど)

 彼女は左手で頬を抑えた。

「旅を経験しない令嬢は多い。気に病むほどのことではない。彼女だって、母上の静養のための転地だ。遊山ではないよ」

「…そうですね」

 応じながら、

(貧乏で旅を知らないノアを気遣ってくれているのね)

 とわかった。

 彼の優しさは、少しだけ遅れて彼女に届く。

「いつか、お金も時間も出来たら、きっと行ってみたいわ」

 そう答えた後で、彼女は彼へある問いを口にした。それはブルー男爵家の家宝の銀の鳥売却に関してのことだ。ジョシュの承諾をもらい、売るとは決めたが、どうすれば正しいのか、その知識がない。

(騙されたくはないし)

 アシュレイなら、誠実な人柄はわかるし、更に侯爵位を持つ人物だ。そういったことも詳しそうだった。

「本当に決めたの?」

「ええ。ジョシュも賛同してくれたの。手順があるのなら、教えて下さらないかしら?」

「男爵家なら、鳥かな…」

 アシュレイのつぶやきによれば、爵位によって家宝の種類が絞られるようだ。さすがに詳しいと、彼女は彼を見上げた。

「ハークレイという男をやるから、その者に任せて大丈夫だよ」

「ああ、ありがとうございます。助かったわ。ジョシュなんて、大学の掲示板で張り紙を出せばいいなんて、おかしなことしか言わないのだもの」

「それも手だよ。ここは貴族の子弟が多いから、彼らの目に留まることもある。ただ、買い叩かれる不安もあるだろうがね」

「だめ。絶対高く買って欲しいわ」

 彼は薄く笑った。

(お金にがめつい下品な女だと思われたかしら)

 少し無言が続いた。

 アシュレイとジークが話していた「ニール」の怪我の件が、ふと思い出された。それほど興味があったのではないが、彼との共通の話題はそれほどないから。

「あの…、先生、ニールさんに紹介状は書いたの?」

「え」

「前に、言っていたでしょう。どうなったのかと思って」

 見えないが、彼女の額あたりに視線を感じた。

 二人の間の空気が少し硬くなった気がした。

(聞かなきゃよかったかしら?)

 こほん、と彼は軽く咳をした。

「いや。書かなくてよくなった」

「そう」

「気が重かったから、肩の荷が降りた」

「どうして?」

「何を書いても嘘だから。署名する以上、向こうの教授に恨まれたくないよ」

 アシュレイの言葉を聞き、確信した。やはり彼らの話していた「ニール」は、彼女を騙そうとしたあのニールに違いない。
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