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迷路

2、行き止まり

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 無礼にならないほどの範囲で、アシュレイが周囲を眺めているのがわかる。

(ご自分のお邸とあまりに違って、驚いているのだわ)

 寂れてはいるが、不潔ではない。

 大学は休みで互いに休日のはず。何の用かと思案しながら椅子を勧めた。

 彼女の後で、彼は壁の長椅子に掛けた。

「先生、どうなさったの? 今日はお休みでしょう」

「君が、黙っているから…」

 と、それきりで言葉を切る。

(また不思議なことを言い出した)

 彼の言動は非常に親切で紳士的だが、

(意味不明なところがちょっと…)

 と彼女は内心おかしかった。

 そこで聞き覚えのある、彼の空腹の腹の音がした。

「先生、お昼を召し上がっていないの?」

 今は三時半を過ぎたところだ。ベルを振りながら尋ねた。

「朝から、教授会と理事会が続いた」

 ノアら部外者は休日でも、教授や理事の人々は大学で仕事があったらしい。

 この様子では、朝食も食べ損ねたようである。

「先生方は皆さんお昼を召し上がるでしょう?」

 教授棟には学生も利用するカフェテリアとは別な厨房があり、ビュッフェもある。会食などもそこで行うようだ。

「大学の食べ物は汚い」

「どうして? 調理はプロでしょう」

「学生が手伝うのを見たことがある」

 そこで彼女は思わずふき出した。彼の目線では、厨房にいる学生は害虫扱いだ。現れたメイドに、お茶の用意と午前に焼いたケーキを頼んだ。

 この邸では、メイドは湯と茶器と菓子を運ぶだけだ。お茶を入れ、大きめにケーキを切り分けて彼へ差し出した。

「ありがとう」

 ためらいなく彼はケーキを口に入れた。見た目はありふれたパウンドケーキだ。しかし、食べてすぐに目を瞬いている。

「お口に合うかしら? 塩味のケーキなの」

 かつての彼女が自分の店で出していたものだった。チーズとオイルを多めに使い、野菜やハムを具材に、スパイスなどを効かせたどっしりした食事風ケーキだ。

 ジョシュが大学に泊まり込むかもと言うから、大きな塊を具材違いで四本持たせた。その残りの一本だ。女性なら、一切れで結構満足感がある。

「おいしい」

 ペロリと平らげた。食後にやはり幸せそうにちょっと笑うのが、彼女は可愛いと思った。

「もう一切れいかが?」

「いや、ありがとう。もう十分」

 空腹を満たしたら、また沈黙だ。

(まさか、食べ物が目的という訳じゃないわよね)

 と、さすがに訝しく思った。

「何か、わたしにご用があったのではないですか?」

 彼は気まずそうに瞳を落とした。つま先に近づく猫を見ながら、

「そう。君は、店を辞めるそうじゃないか」

 ややなじる口調で言う。

「キアヌが言っていた」

「それはわたしじゃなくて、『子鹿亭』が今月一杯でお終いなんです。それで仕事がなくなるっていうこと」

「僕は聞いていない」

「まだ日もあるし、最後の日にでもお知らせしようと思っていたの」

「どこか別で働くつもりなの?」

「さあ…」

 彼女は彼から目を逸らした。そうしながら、初めて彼ではなく、自分から目を逸らしたように感じた。

 少し前までの涙ぐむほどの重苦しい感情がぶり返してきた。

 何もかも決めかねていた。それは、何も出来ないからだ。

 以前、夫を亡くし、幼いピッパを抱え途方に暮れた。その過去の中でも彼女は決して絶望はしなかった。
「何とかなるわ」と明るく前を向き、事実そうしてきた。

 けれど、それは頼れる周囲があったからで、ゼロの状態ではなかったからだ。

(今は本当に、ないない尽くし。どうしていいかもわからない)

 込み上げてくる涙の素を、ごまかすように小さい咳をした。そうしてから、答えでもない心の切れっ端を口にした。

「働くにしても、大学はもう嫌だから…」

「それは…、そうだね」

 彼の相槌を聞きながら思った。この人は自分の遭った災難を知っているただ一人の人だ。そして、もう十分に気遣いを見せてくれている。

(これ以上は、もう止めて)

 なぜそう思うのか。

 縁も理由もない。

(この人の前で、事故に遭った可哀想な小動物のようでいたくない)

 彼女は無理に彼へ目を戻した。

「ご用って、そのこと?」

「…そうだね。失礼した」

 彼は言葉を切り、立ち上がった。

 遅れて彼女も立ち上がる。その時、急に立ったためかふらりとよろめいた。椅子にくずおれそうになる。気づけば、アシュレイが彼女の身体を支えていた。

「ごめんなさい、寝不足かしら」

 慌てて彼の腕を外す。やんわりと押した。

「大丈夫」

 と。少しだけ微笑んだ。

 すると、いきなり抱きかかえられた。掛けていた長椅子にやんわりと寝かされる。驚いた猫がぎゃっと恨みがましい声で鳴いて逃げて行く。

「横になった方がいい」

 頭の下にクッションを差し入れ、自分の上着を彼女にふわりと掛けてくれた。

「あの、大丈夫。ちょっとした立ちくらみ」

「ジョシュは?」

「研究室へ。帰りはわからない。きっと遅いわ」

「じゃあ、僕が付いている」

「え?」

「気分は悪くない? 頭痛とか、吐き気とかは?」

「別に…」

「そう」

 そのまま彼は傍らの椅子に掛けて、だらりと脚を伸ばした。ベストの懐中時計を開き、時刻を確認している。

「お忙しいのではない?」

「僕は一人なんだ。約束もない」

 誰かに見守られて横になるなど、大人になってからはきっとない。ピッパや義母、義父。そういった人々を彼女が逆に見守ってきた。

 居心地が悪く恥ずかしいようで、それでも安らぐような。

(不思議な感じ)

 そうしていると、心に閉じ込めた不安が滲み出してくるように感じられる。気持ちがふと緩むのを自分でも知った。

 いつしか彼女は泣き出していた。隠そうとした涙は思いがけず多くて、次から次にあふれてくる。

 すぐに彼女の様子に気づいた彼が、側に来た。

「どこか苦しいの?」

 ノアは顔をおおいながら首を振る。

「どうしていいか…、わからなくて…」

「え」

 泣きながら、彼から顔を背けた。

 どれほどか後で、おずおずとした指が彼女の髪に触れた。梳くのでもなく、指はただ彼女の髪に留まった。

「何がわからないのか、教えてほしい」

「…妊娠したかもしれない」

「え」

「相手もわからないのに…。どうしよう…」

 あまりの告白に、彼が驚愕するのがわかる。それが痛いほど彼女に伝わり、嗚咽が込み上げた。

(言わなきゃ良かった)

 取り消すことなどもう無理だった。時が止まって感じるほど、二人の間の空気が重い。

(どうにもならないのに、なんて馬鹿なこと)

 どんな言葉がほしかった訳でもない。

 彼女の涙が静まるのを待って、アシュレイが尋ねた。

「僕は何が出来る?」

「何も…、放っておいて」

 彼女は身を起こした。先の見通しが立たないだけで、具合が悪いわけでもない。着せかけてもらった上着を彼へ返した。

 彼はそれを受け取ろうともしない。

「放っておけばどうなるの?」

「さあ」

「さあって…、君はどうするの?」

 重なる問いかけに彼女はいつになく苛立った。

「どうしようもないことを聞かないで。ひどい」

 やっと引っ込んだ涙がぶり返しそうになり、彼女は唇を噛んだ。彼に非のないことで、自分の感情を押し付けてしまった。

 すぐに冷静になり、謝った。

「ごめんなさい。動転していて、失礼なことを…」

「いや、僕も立ち入ったことを聞いた。申し訳ない」

 紳士的な儀礼か、立ち去り難そうにしている彼へ、彼女は言葉を変えて改めて伝えた。

「一人にして下さい。その方が楽なの。気遣って下さって、どうもありがとう」

 彼は返事をせず、ゆっくりと上着に袖を通した。

 ちょっと頭を下げ、

「失礼する」

 と、部屋を出て行った。
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