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迷路
1、困惑して
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不意の贈り物で気分転換をしたノアだったが、数日後には現実の厳しさを味わいことになった。
『子鹿亭』のマスターが、従業員に店を閉めることを告げた。
「急ですまん。一月後には閉めることになる。息子夫婦と住むことになってな。大学内の他のカフェテリアなら、オーナーらに口を聞いてやれる。希望者があれば言ってくれ」
再雇用の労も取ってくれるのはありがたい。コックのジムを始め、少ない店の者はその言葉に頷き、大学内に次の働き場所を求めた。
一人声を上げなかったノアに、マスターが尋ねた。
「ノアはどうするね? 他の店も、あんたならぜひにも来てくれと言うよ」
「ありがとう。少し考えさせて」
と、彼女は返事を濁した。
マスターの口利きでなら、おそらくどこかのカフェテリアに紛れ込むことは出来るだろう。何とか上手く立ち回り、大食いジョシュの食事も雇用の条件に含めることも難しくないかもしれない。
なのに、心がそっちに向かない。
働くのは好きだし、自分に出来ることを活かせる場所はありがたい。しかし、外見は可憐な若い令嬢でも、中身は細腕で娘を育て上げ嫁がせるまでした、逞しいかつての意識が残る。
自分のものではない店で身を粉にして働くことに、ちょっと物足りなさを感じ始めていた。雇用者では当たり前だが、経営者よりグッと実入も少ない。
(贅沢を言える立場じゃないのは、よくわかってるのだけど)
それに、やはり暴行の記憶がある場所はどうしても負のイメージが拭えなかった。
ともかく、最後の日までは懸命に働くのは当然で、日々を忙しく過ごすことに没頭していた。
仕事を終えたくたびれた身体をベッドに横たえる前に、クローゼットに架けたドレスを眺めることが日課になった。アシュレイに押し付けるように贈られたドレスだった。
(着る場所もない)
し、
(その予定もない)
けれど、美しい絹地のそれに触れると疲れも取れて、いい夢が見られそうに思う。
きっと彼は、こんな素敵なドレスをたくさん持って、当たり前に身につけるような女性を見慣れているのだろう。だから、簡単に自分に贈ってくれたのだと想像出来た。
うっとりとドレスを眺めていると、その裾に白いものが近づくのが見えた。気づいて、すぐに彼女はクローゼットの扉を閉めた。
「駄目よ、これは」
破れ庭から入ってきた野良猫だ。前からいるのは知っていたが、最近その数が増えているような気がした。猫たちは、隙間がある邸にそっと入り込み、寝転んだり何かに戯れて遊んだり、食事をもらったり。好き勝手に過ごしていく。
ノアは動物が好きだ。猫も好きで、寝室に入ってきても嫌ではない。なぜたり抱いたりすることも多かった。
白くて大きな猫が彼女の足にまとわりついた。その姿が娘のピッパを思わせて、
「ピッパ、こっちへいらっしゃい」
ついそう呼んでしまう。
(寂しいのかしら?)
ノアの身体に意識が入り込んで、もう半年ほどになろうか。これまでの自分らしく、あるものを受け入れものおじせず、頑張ってきた。
焦りはないが、
(いつになったら元に戻れるの?)
とも思う。
ノアとして過ごしてきた時間を何となくたどり、ふとあることに気づく。
(あ)
最初の気づきから、懸命に記憶をたどるうち、心がしんと冷えるのを感じた。
(まさか)
とも思う。信じたくない気持ちが強い。不安が胸に広がり、ずんと重くのしかかってくる。
思い出したくもないが、大学内で見知らぬ誰かから暴行を受けたのが二月ほど前だ。そこから月経のしるしがない。
体調の変化もあるだろう。あんなことがあって、元気に見えても心のダメージは相当に大きい。
(その影響もあるわ、きっと)
いつしか小さく首を振り続けている。
起こるかもしれない恐ろしい現実を認めたくない。絶対に駄目だ。そんなことはあってはならない。
(妊娠なんて、ないわよね)
彼女は唇をきつく噛んだ。
ある休日だった。
雨が降る庭を窓から眺めていた。鬱蒼と茂る梢も雑草も、雨に洗われて美しく見えた。
居間の彼女の座る椅子の側に、猫が長く寝そべっていた。
結局、『子鹿亭』のマスターに返事はしていなかった。かといって、次に働く場の目処もない。
(のんびりともしていられないのだけど)
条件は良かったが、今の心境で大学内で働き続けるのは気が進まない。
というより、
(嫌だ)
こまねずみのようにいそいそ働く彼女の近くを、暴行した犯人が何食わぬ顔で通り過ぎているのかもしれない。
『子鹿亭』のノアは容易かった、などと男たちの隠微な噂にでもなっているのでは、と心が心底冷えた。
(少し前までは強気でいられたのに)
気がどうしても滅入ってしまうのは、月のものの遅れのせいだ。気づいてから十日経つが、今もその訪れはない。
妊娠の初期ではつわりも稀であろうし、妊娠したかの目安にもなりはしない。そもそも、
(ピッパを産んだ時は、少しもつわりなんてなかった)
と、お腹が目立つまで、何の身体の変化も感じなかった記憶もある。
ため息と共に出るのは、
(どうしよう)
という不安だった。
(仮に、もし仮に)
不安を我慢し、想像を推し進めてみる。妊娠が確定したとして、その後どうすればいいのか。
ノアは零落しているとはいえ、男爵令嬢であり立派なレディだ。
(そんなノアが、未婚のまま子供を身ごもるだなんて)
あり得ないことで、許されない。
暴行を受けた際は、ノアの身体を汚してしまった申し訳なさをしっかり感じた。今再び、その思いが深くのしかかっている。
(ごめんなさい、ノア)
そして、お腹がふくらみ始め、周囲の目をごまかせなくなった時、自分はどうしたらいいのか。
当世、未婚の母は決して歓迎されない。その風潮は、彼女は知り抜いている。年頃になった娘へも、厳しく思いやりを持ってそれを教育してきたつもりだ。
「自分を大切にしてね。身を慎むことは、あなたの未来を守ることよ」。
繰り返し、言葉を変え、諭してきた。
(守れなかった時、どうしたらいいの?)
ピッパへの言葉は、恋愛の過剰な盛り上がりを抑制するものだった。恋をして、気持ちが通じ合う。その高揚した感情や熱情に流されてはいけない、と自分を律してほしいとの親心だった。
(村に、駆け落ち結婚をして勘当された女の子がいたわ。その後お腹を大きくして帰ってきたけど、家に住むことは許されなかった)
家族とのつき合いを絶たれ、遠縁の家に預けられたのだと、顛末を耳にした。
自分の意思でなく、無理に貞節を奪われた時は、どうなるのだろう。それでも、非は全て防げなかった女の方にあるのか。
(そんな風にノアは思われてしまうの?)
自分を抱きしめながら、胸苦しさに涙ぐみそうになる。
落ち着くために、大きく息をした。
(冷静にならなくちゃ。もし、妊娠が決定的だとして、身の振り方を考えなくては)
このまま邸にいては、ジョシュも迷惑がかかる。彼は大男で大食いで、収入もない。けれどもブルー男爵家の当主で、将来性はわからないが、真っ当な紳士だ。
駆け落ち婚をした少女は家族のつてで、遠縁を頼れた。
(しかし、わたしは何にもない。お金もないし、行くあてもない)
ため息の前に涙がほろりとこぼれた。自分を憐れんだのではない。単純に迷って悩み、それがひどく悲しかったからだ。
そこで、メイドが現れた。驚くことを言う。
「ノアお嬢様にお客様です」
「え」
『子鹿亭』絡みで、会話をする友人は幾らもいたが、邸に訪ねて来る程のつき合いはなかった。
「どなた?」
メイドはそこで、背後を振り返った。
「紳士の方で…」
「お名前を聞かなかったの?」
「聞かないといけなかったのですか?」
しょうがない、客などない寂れ邸だ。メイド教育を叩き込まれた使用人ではない。
「きっと、何かの宣伝でしょう。上手くあしらうから、お通しして」
金などなさそうな荒れた邸を狙って、詐欺まがいの連中がセールスに現れたのだ。ノアはそう思った。
(まだ騙してむしり取るものはあるのかも。土地とか家財とか)
待つ間に、ほつれた髪を耳にかきやった。涙の残る目を指で拭う。
そこへ、メイドがお客を案内してやって来た。彼女は猫を見ながら迎え入れた。
「どういったご用でしょうか?」
返事がないので、目を向けた。仕立てのいいダークスーツのお客は、意外な人物過ぎて、彼女は度肝を抜かれた。
アシュレイだった。
『子鹿亭』のマスターが、従業員に店を閉めることを告げた。
「急ですまん。一月後には閉めることになる。息子夫婦と住むことになってな。大学内の他のカフェテリアなら、オーナーらに口を聞いてやれる。希望者があれば言ってくれ」
再雇用の労も取ってくれるのはありがたい。コックのジムを始め、少ない店の者はその言葉に頷き、大学内に次の働き場所を求めた。
一人声を上げなかったノアに、マスターが尋ねた。
「ノアはどうするね? 他の店も、あんたならぜひにも来てくれと言うよ」
「ありがとう。少し考えさせて」
と、彼女は返事を濁した。
マスターの口利きでなら、おそらくどこかのカフェテリアに紛れ込むことは出来るだろう。何とか上手く立ち回り、大食いジョシュの食事も雇用の条件に含めることも難しくないかもしれない。
なのに、心がそっちに向かない。
働くのは好きだし、自分に出来ることを活かせる場所はありがたい。しかし、外見は可憐な若い令嬢でも、中身は細腕で娘を育て上げ嫁がせるまでした、逞しいかつての意識が残る。
自分のものではない店で身を粉にして働くことに、ちょっと物足りなさを感じ始めていた。雇用者では当たり前だが、経営者よりグッと実入も少ない。
(贅沢を言える立場じゃないのは、よくわかってるのだけど)
それに、やはり暴行の記憶がある場所はどうしても負のイメージが拭えなかった。
ともかく、最後の日までは懸命に働くのは当然で、日々を忙しく過ごすことに没頭していた。
仕事を終えたくたびれた身体をベッドに横たえる前に、クローゼットに架けたドレスを眺めることが日課になった。アシュレイに押し付けるように贈られたドレスだった。
(着る場所もない)
し、
(その予定もない)
けれど、美しい絹地のそれに触れると疲れも取れて、いい夢が見られそうに思う。
きっと彼は、こんな素敵なドレスをたくさん持って、当たり前に身につけるような女性を見慣れているのだろう。だから、簡単に自分に贈ってくれたのだと想像出来た。
うっとりとドレスを眺めていると、その裾に白いものが近づくのが見えた。気づいて、すぐに彼女はクローゼットの扉を閉めた。
「駄目よ、これは」
破れ庭から入ってきた野良猫だ。前からいるのは知っていたが、最近その数が増えているような気がした。猫たちは、隙間がある邸にそっと入り込み、寝転んだり何かに戯れて遊んだり、食事をもらったり。好き勝手に過ごしていく。
ノアは動物が好きだ。猫も好きで、寝室に入ってきても嫌ではない。なぜたり抱いたりすることも多かった。
白くて大きな猫が彼女の足にまとわりついた。その姿が娘のピッパを思わせて、
「ピッパ、こっちへいらっしゃい」
ついそう呼んでしまう。
(寂しいのかしら?)
ノアの身体に意識が入り込んで、もう半年ほどになろうか。これまでの自分らしく、あるものを受け入れものおじせず、頑張ってきた。
焦りはないが、
(いつになったら元に戻れるの?)
とも思う。
ノアとして過ごしてきた時間を何となくたどり、ふとあることに気づく。
(あ)
最初の気づきから、懸命に記憶をたどるうち、心がしんと冷えるのを感じた。
(まさか)
とも思う。信じたくない気持ちが強い。不安が胸に広がり、ずんと重くのしかかってくる。
思い出したくもないが、大学内で見知らぬ誰かから暴行を受けたのが二月ほど前だ。そこから月経のしるしがない。
体調の変化もあるだろう。あんなことがあって、元気に見えても心のダメージは相当に大きい。
(その影響もあるわ、きっと)
いつしか小さく首を振り続けている。
起こるかもしれない恐ろしい現実を認めたくない。絶対に駄目だ。そんなことはあってはならない。
(妊娠なんて、ないわよね)
彼女は唇をきつく噛んだ。
ある休日だった。
雨が降る庭を窓から眺めていた。鬱蒼と茂る梢も雑草も、雨に洗われて美しく見えた。
居間の彼女の座る椅子の側に、猫が長く寝そべっていた。
結局、『子鹿亭』のマスターに返事はしていなかった。かといって、次に働く場の目処もない。
(のんびりともしていられないのだけど)
条件は良かったが、今の心境で大学内で働き続けるのは気が進まない。
というより、
(嫌だ)
こまねずみのようにいそいそ働く彼女の近くを、暴行した犯人が何食わぬ顔で通り過ぎているのかもしれない。
『子鹿亭』のノアは容易かった、などと男たちの隠微な噂にでもなっているのでは、と心が心底冷えた。
(少し前までは強気でいられたのに)
気がどうしても滅入ってしまうのは、月のものの遅れのせいだ。気づいてから十日経つが、今もその訪れはない。
妊娠の初期ではつわりも稀であろうし、妊娠したかの目安にもなりはしない。そもそも、
(ピッパを産んだ時は、少しもつわりなんてなかった)
と、お腹が目立つまで、何の身体の変化も感じなかった記憶もある。
ため息と共に出るのは、
(どうしよう)
という不安だった。
(仮に、もし仮に)
不安を我慢し、想像を推し進めてみる。妊娠が確定したとして、その後どうすればいいのか。
ノアは零落しているとはいえ、男爵令嬢であり立派なレディだ。
(そんなノアが、未婚のまま子供を身ごもるだなんて)
あり得ないことで、許されない。
暴行を受けた際は、ノアの身体を汚してしまった申し訳なさをしっかり感じた。今再び、その思いが深くのしかかっている。
(ごめんなさい、ノア)
そして、お腹がふくらみ始め、周囲の目をごまかせなくなった時、自分はどうしたらいいのか。
当世、未婚の母は決して歓迎されない。その風潮は、彼女は知り抜いている。年頃になった娘へも、厳しく思いやりを持ってそれを教育してきたつもりだ。
「自分を大切にしてね。身を慎むことは、あなたの未来を守ることよ」。
繰り返し、言葉を変え、諭してきた。
(守れなかった時、どうしたらいいの?)
ピッパへの言葉は、恋愛の過剰な盛り上がりを抑制するものだった。恋をして、気持ちが通じ合う。その高揚した感情や熱情に流されてはいけない、と自分を律してほしいとの親心だった。
(村に、駆け落ち結婚をして勘当された女の子がいたわ。その後お腹を大きくして帰ってきたけど、家に住むことは許されなかった)
家族とのつき合いを絶たれ、遠縁の家に預けられたのだと、顛末を耳にした。
自分の意思でなく、無理に貞節を奪われた時は、どうなるのだろう。それでも、非は全て防げなかった女の方にあるのか。
(そんな風にノアは思われてしまうの?)
自分を抱きしめながら、胸苦しさに涙ぐみそうになる。
落ち着くために、大きく息をした。
(冷静にならなくちゃ。もし、妊娠が決定的だとして、身の振り方を考えなくては)
このまま邸にいては、ジョシュも迷惑がかかる。彼は大男で大食いで、収入もない。けれどもブルー男爵家の当主で、将来性はわからないが、真っ当な紳士だ。
駆け落ち婚をした少女は家族のつてで、遠縁を頼れた。
(しかし、わたしは何にもない。お金もないし、行くあてもない)
ため息の前に涙がほろりとこぼれた。自分を憐れんだのではない。単純に迷って悩み、それがひどく悲しかったからだ。
そこで、メイドが現れた。驚くことを言う。
「ノアお嬢様にお客様です」
「え」
『子鹿亭』絡みで、会話をする友人は幾らもいたが、邸に訪ねて来る程のつき合いはなかった。
「どなた?」
メイドはそこで、背後を振り返った。
「紳士の方で…」
「お名前を聞かなかったの?」
「聞かないといけなかったのですか?」
しょうがない、客などない寂れ邸だ。メイド教育を叩き込まれた使用人ではない。
「きっと、何かの宣伝でしょう。上手くあしらうから、お通しして」
金などなさそうな荒れた邸を狙って、詐欺まがいの連中がセールスに現れたのだ。ノアはそう思った。
(まだ騙してむしり取るものはあるのかも。土地とか家財とか)
待つ間に、ほつれた髪を耳にかきやった。涙の残る目を指で拭う。
そこへ、メイドがお客を案内してやって来た。彼女は猫を見ながら迎え入れた。
「どういったご用でしょうか?」
返事がないので、目を向けた。仕立てのいいダークスーツのお客は、意外な人物過ぎて、彼女は度肝を抜かれた。
アシュレイだった。
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