19 / 47
執着
6、贈られたドレス
しおりを挟む
その日の仕事を終え、ノアは店じまいをしていた。
売り上げはマスターが持ち帰宅している。その後の掃除や明日の準備などを行う。
カウンターを拭き上げたふきんを洗い、それを広げながらため息をつく。
(マスター、大丈夫かしら?)
このところ、老齢に近づいたマスターの足の具合が思わしくない。元々悪くしていた膝が、年々悪化し、最近特にひどく痛み出したという。
「近いうち、店を閉めることになるかもしれない」
とほっそりもらされている。マスターの体調がまず心配だが、その他に『子鹿亭』が消えたら、自分はどこで働けばいいのかと、不安があふれてくる。
マスターはコックのジムに店の権利を売ろうと持ちかけたが、彼にはその気も資金もない。
誰かが継いでくれれば、何とか次のオーナーに売り込んで働かせてもらうつもりだが、店自体が消えるのなら、どうしようもない。
ため息の原因は先行きの悩みだ。
(いい場所だったのにな)
ジョシュにたっぷり食べさせてくれるような働き口は、きっともう見つからないのではないか。
ふきんを干した時、ドアベルが鳴った。慣れた足音に顔を上げなくても、それが彼女を迎えに来たアシュレイだとわかる。
「いつもありがとうございます」
彼女の声に、アシュレイは聞いているのかそうでないのか、あちらを向いている。
店を閉めて、二人で車寄せで待つ馬車に向かう。彼女が乗り込むのを手伝ってくれてから彼が遅れて乗る。
(いつだって、絶対にそう)
ジョシュと乗合馬車に乗る時など、さっさと彼女を置いて自分だけ先にジョシュは乗ってしまう。その時は気にも留めないが、アシュレイの紳士的な仕草を目にすると、その差が浮き立って感じられる。
彼のそれはごく自然で、生活習慣というより人格にすら見える。
(幼い頃からきっとそうなのね。幼なじみの女の子にも席を譲るような。自分より先におやつを渡してあげたに違いないわ)
馬車が走り出し、彼が傍らの箱を彼女に渡した。明らかに贈り物めいた大きな箱で、リボンがかかり、更に彼女には中身まで想像できた。
(ドレスだわ、きっと)
「受け取ってほしい」
「どうしてですか?」
彼女は彼をまじまじと見つめた。いつものことで、目が合うと彼はすっと視線を外す。彼から贈り物をされる理由がない。
「君に詫びなければならないから」
「え?」
いつまでも詫びる理由を言ってくれないので、彼女から聞く。
「先生がわたしに詫びるって、一体何のこと?」
「…僕は遅きに失した。出遅れたんだ」
「何に?」
彼女は意味がわからない。いつもそう遅れなく迎えに現れてくれている。
「僕がすべきだったことをやり遂げられなかった。他の者に巧く先を越された。それを君に詫びたいんだ」
「先生のすべきことって?」
彼はそれ以上説明をしなかった。
よくわからないが、
(あの事件に関わることかしら?)
と推測はつく。彼女が暴行を受けたことを知る者は、犯人の他、彼女自身とアシュレイのみだ。事件から二月ほど経ち、身体の傷はすでに癒え、心の傷も忘れていられることも増えた。
それは、やはり知る者が少なく、彼女にその件を意識させなかったことが大きいと思う。周囲が普段通りに彼女に接することで、彼女も普段の自分でいられるのだった。
(もしかしたら、先生はそれを詫びているのかも…)
彼自身はこうやって彼女を送り届ける任を受け持ってくれるが、そのこと自体がやはり彼女に事件を忘れさせない。
(だからかも…)
だとしたら、彼の思いはお門違いだ。負った傷は、彼女自身が自ら時間をかけて癒していくしかないのだから。
(たまたま居合わせた先生には何の責任もない)
何となく悄然として見えるアシュレイへ、彼女は手を伸ばした。膝に落ちた手を取り、軽く握った。
驚いた彼が彼女を見た。
「わたしは大丈夫。身体を傷つけられたからって、心まで奪われた訳じゃないから」
ちょっとだけそうして、すぐに手を放した。
「だから、そんなに可哀想がらないで。わたしはもう平気です」
「迷惑なのか? 君はそう…、自立心が強いから」
「迷惑だなんて、贈り物は嬉しいわ。けど、過剰な物はいただけないわ。その理由がないもの」
「僕に理由があるんだ」
「え」
頑なに告げるアシュレイに、彼女は戸惑った。
(だから、その理由を聞いているのだけれど、教えてくれないし…)
彼はついっと顔を窓へ向けた。話を打ち切るようだった。
「とにかく、受け取ってほしい。そうでないと、困る」
「はあ」
邸に帰ってから、もらった箱を開けた。中にはしっとりとした生地の淡い緑のドレスが入っていた。
(素敵な色)
思わず取り出し、胸に当てる。一目で高価な品だとわかる。
(こんな上等なドレス、着たことがないわ)
優雅なレディがちょっとした社交で身に着けるのにちょうどいいような衣装だ。目見当でも、彼女の小柄な体型に合うように仕立てられている。
(あの人、どうやって、わたしのサイズがわかったのかしら?)
抱きかかえられたことがあるから、その時の感触か、と。
(見かけによらず、女性に贈り物をし慣れている人なのかも)
彼がほぼ強引に受け取らせた品であった。しかし、一人になりじっくりと眺めてみると、しみじみと嬉しい。
そして、贈られた優美なドレスにときめく自分がいるのを知る。
(まるで上流のレディになったみたい。もったいなくてなかなか着られそうにないけれど)
売り上げはマスターが持ち帰宅している。その後の掃除や明日の準備などを行う。
カウンターを拭き上げたふきんを洗い、それを広げながらため息をつく。
(マスター、大丈夫かしら?)
このところ、老齢に近づいたマスターの足の具合が思わしくない。元々悪くしていた膝が、年々悪化し、最近特にひどく痛み出したという。
「近いうち、店を閉めることになるかもしれない」
とほっそりもらされている。マスターの体調がまず心配だが、その他に『子鹿亭』が消えたら、自分はどこで働けばいいのかと、不安があふれてくる。
マスターはコックのジムに店の権利を売ろうと持ちかけたが、彼にはその気も資金もない。
誰かが継いでくれれば、何とか次のオーナーに売り込んで働かせてもらうつもりだが、店自体が消えるのなら、どうしようもない。
ため息の原因は先行きの悩みだ。
(いい場所だったのにな)
ジョシュにたっぷり食べさせてくれるような働き口は、きっともう見つからないのではないか。
ふきんを干した時、ドアベルが鳴った。慣れた足音に顔を上げなくても、それが彼女を迎えに来たアシュレイだとわかる。
「いつもありがとうございます」
彼女の声に、アシュレイは聞いているのかそうでないのか、あちらを向いている。
店を閉めて、二人で車寄せで待つ馬車に向かう。彼女が乗り込むのを手伝ってくれてから彼が遅れて乗る。
(いつだって、絶対にそう)
ジョシュと乗合馬車に乗る時など、さっさと彼女を置いて自分だけ先にジョシュは乗ってしまう。その時は気にも留めないが、アシュレイの紳士的な仕草を目にすると、その差が浮き立って感じられる。
彼のそれはごく自然で、生活習慣というより人格にすら見える。
(幼い頃からきっとそうなのね。幼なじみの女の子にも席を譲るような。自分より先におやつを渡してあげたに違いないわ)
馬車が走り出し、彼が傍らの箱を彼女に渡した。明らかに贈り物めいた大きな箱で、リボンがかかり、更に彼女には中身まで想像できた。
(ドレスだわ、きっと)
「受け取ってほしい」
「どうしてですか?」
彼女は彼をまじまじと見つめた。いつものことで、目が合うと彼はすっと視線を外す。彼から贈り物をされる理由がない。
「君に詫びなければならないから」
「え?」
いつまでも詫びる理由を言ってくれないので、彼女から聞く。
「先生がわたしに詫びるって、一体何のこと?」
「…僕は遅きに失した。出遅れたんだ」
「何に?」
彼女は意味がわからない。いつもそう遅れなく迎えに現れてくれている。
「僕がすべきだったことをやり遂げられなかった。他の者に巧く先を越された。それを君に詫びたいんだ」
「先生のすべきことって?」
彼はそれ以上説明をしなかった。
よくわからないが、
(あの事件に関わることかしら?)
と推測はつく。彼女が暴行を受けたことを知る者は、犯人の他、彼女自身とアシュレイのみだ。事件から二月ほど経ち、身体の傷はすでに癒え、心の傷も忘れていられることも増えた。
それは、やはり知る者が少なく、彼女にその件を意識させなかったことが大きいと思う。周囲が普段通りに彼女に接することで、彼女も普段の自分でいられるのだった。
(もしかしたら、先生はそれを詫びているのかも…)
彼自身はこうやって彼女を送り届ける任を受け持ってくれるが、そのこと自体がやはり彼女に事件を忘れさせない。
(だからかも…)
だとしたら、彼の思いはお門違いだ。負った傷は、彼女自身が自ら時間をかけて癒していくしかないのだから。
(たまたま居合わせた先生には何の責任もない)
何となく悄然として見えるアシュレイへ、彼女は手を伸ばした。膝に落ちた手を取り、軽く握った。
驚いた彼が彼女を見た。
「わたしは大丈夫。身体を傷つけられたからって、心まで奪われた訳じゃないから」
ちょっとだけそうして、すぐに手を放した。
「だから、そんなに可哀想がらないで。わたしはもう平気です」
「迷惑なのか? 君はそう…、自立心が強いから」
「迷惑だなんて、贈り物は嬉しいわ。けど、過剰な物はいただけないわ。その理由がないもの」
「僕に理由があるんだ」
「え」
頑なに告げるアシュレイに、彼女は戸惑った。
(だから、その理由を聞いているのだけれど、教えてくれないし…)
彼はついっと顔を窓へ向けた。話を打ち切るようだった。
「とにかく、受け取ってほしい。そうでないと、困る」
「はあ」
邸に帰ってから、もらった箱を開けた。中にはしっとりとした生地の淡い緑のドレスが入っていた。
(素敵な色)
思わず取り出し、胸に当てる。一目で高価な品だとわかる。
(こんな上等なドレス、着たことがないわ)
優雅なレディがちょっとした社交で身に着けるのにちょうどいいような衣装だ。目見当でも、彼女の小柄な体型に合うように仕立てられている。
(あの人、どうやって、わたしのサイズがわかったのかしら?)
抱きかかえられたことがあるから、その時の感触か、と。
(見かけによらず、女性に贈り物をし慣れている人なのかも)
彼がほぼ強引に受け取らせた品であった。しかし、一人になりじっくりと眺めてみると、しみじみと嬉しい。
そして、贈られた優美なドレスにときめく自分がいるのを知る。
(まるで上流のレディになったみたい。もったいなくてなかなか着られそうにないけれど)
223
お気に入りに追加
766
あなたにおすすめの小説
身代わり婚~暴君と呼ばれる辺境伯に拒絶された仮初の花嫁
結城芙由奈
恋愛
【決してご迷惑はお掛けしません。どうか私をここに置いて頂けませんか?】
妾腹の娘として厄介者扱いを受けていたアリアドネは姉の身代わりとして暴君として名高い辺境伯に嫁がされる。結婚すれば幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱いていたのも束の間。望まぬ花嫁を押し付けられたとして夫となるべく辺境伯に初対面で冷たい言葉を投げつけらた。さらに城から追い出されそうになるものの、ある人物に救われて下働きとして置いてもらえる事になるのだった―。
異世界召喚されたけどヤバい国だったので逃げ出したら、イケメン騎士様に溺愛されました
平山和人
恋愛
平凡なOLの清水恭子は異世界に集団召喚されたが、見るからに怪しい匂いがプンプンしていた。
騎士団長のカイトの出引きで国を脱出することになったが、追っ手に追われる逃亡生活が始まった。
そうした生活を続けていくうちに二人は相思相愛の関係となり、やがて結婚を誓い合うのであった。
【完結】お見合いに現れたのは、昨日一緒に食事をした上司でした
楠結衣
恋愛
王立医務局の調剤師として働くローズ。自分の仕事にやりがいを持っているが、行き遅れになることを家族から心配されて休日はお見合いする日々を過ごしている。
仕事量が多い連休明けは、なぜか上司のレオナルド様と二人きりで仕事をすることを不思議に思ったローズはレオナルドに質問しようとするとはぐらかされてしまう。さらに夕食を一緒にしようと誘われて……。
◇表紙のイラストは、ありま氷炎さまに描いていただきました♪
◇全三話予約投稿済みです
【完結】嫌われ令嬢、部屋着姿を見せてから、王子に溺愛されてます。
airria
恋愛
グロース王国王太子妃、リリアナ。勝ち気そうなライラックの瞳、濡羽色の豪奢な巻き髪、スレンダーな姿形、知性溢れる社交術。見た目も中身も次期王妃として完璧な令嬢であるが、夫である王太子のセイラムからは忌み嫌われていた。
どうやら、セイラムの美しい乳兄妹、フリージアへのリリアナの態度が気に食わないらしい。
2ヶ月前に婚姻を結びはしたが、初夜もなく冷え切った夫婦関係。結婚も仕事の一環としか思えないリリアナは、セイラムと心が通じ合わなくても仕方ないし、必要ないと思い、王妃の仕事に邁進していた。
ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。
あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて…
あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?
【完結】中継ぎ聖女だとぞんざいに扱われているのですが、守護騎士様の呪いを解いたら聖女ですらなくなりました。
氷雨そら
恋愛
聖女召喚されたのに、100年後まで魔人襲来はないらしい。
聖女として異世界に召喚された私は、中継ぎ聖女としてぞんざいに扱われていた。そんな私をいつも守ってくれる、守護騎士様。
でも、なぜか予言が大幅にずれて、私たちの目の前に、魔人が現れる。私を庇った守護騎士様が、魔神から受けた呪いを解いたら、私は聖女ですらなくなってしまって……。
「婚約してほしい」
「いえ、責任を取らせるわけには」
守護騎士様の誘いを断り、誰にも迷惑をかけないよう、王都から逃げ出した私は、辺境に引きこもる。けれど、私を探し当てた、聖女様と呼んで、私と一定の距離を置いていたはずの守護騎士様の様子は、どこか以前と違っているのだった。
元守護騎士と元聖女の溺愛のち少しヤンデレ物語。
小説家になろう様にも、投稿しています。
王宮医務室にお休みはありません。~休日出勤に疲れていたら、結婚前提のお付き合いを希望していたらしい騎士さまとデートをすることになりました。~
石河 翠
恋愛
王宮の医務室に勤める主人公。彼女は、連続する遅番と休日出勤に疲れはてていた。そんなある日、彼女はひそかに片思いをしていた騎士ウィリアムから夕食に誘われる。
食事に向かう途中、彼女は憧れていたお菓子「マリトッツォ」をウィリアムと美味しく食べるのだった。
そして休日出勤の当日。なぜか、彼女は怒り心頭の男になぐりこまれる。なんと、彼女に仕事を押しつけている先輩は、父親には自分が仕事を押しつけられていると話していたらしい。
しかし、そんな先輩にも実は誰にも相談できない事情があったのだ。ピンチに陥る彼女を救ったのは、やはりウィリアム。ふたりの距離は急速に近づいて……。
何事にも真面目で一生懸命な主人公と、誠実な騎士との恋物語。
扉絵は管澤捻さまに描いていただきました。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。
売れ残り同士、結婚します!
青花美来
恋愛
高校の卒業式の日、売り言葉に買い言葉でとある約束をした。
それは、三十歳になってもお互いフリーだったら、売れ残り同士結婚すること。
あんなのただの口約束で、まさか本気だなんて思っていなかったのに。
十二年後。三十歳を迎えた私が再会した彼は。
「あの時の約束、実現してみねぇ?」
──そう言って、私にキスをした。
☆マークはRシーン有りです。ご注意ください。
他サイト様にてRシーンカット版を投稿しております。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる