笑わない女〜没落した姫が泣かずに負けずに逆境を越えるまで〜

帆々

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34.変わっていくこと

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結衣は礼司と共に邸に滞在した。乳母と花の女中が世話をする。赤子の気配はほのぼのと楽しいもの。


おちょぼが興味を持ち、しょっちゅう結衣のいる部屋にのぞきに行く。赤子が好きなのか、抱かせてもらっている。礼司も我がもの顔で邸をうろつくし、隠すことも馬鹿らしくなった。


「礼司の子だ。母は仔細あっておらぬ」


「ふうん、礼司兄様の」


おちょぼは自分も仔細ある身だからか、わかりが早い。口外してはいけないということも、教えずとものみ込んでいる。


朝と夜しかいない忙しい柊理に代わり、おちょぼの勉強は礼司に見てもらうことが増えた。女学校帰りに友達が来ることもあり、そんな時は、おちょぼが礼司に絵を描くのをせがんでいる。


久しぶりに有明の君の邸に晩餐に招かれた。礼司も呼ばれたが、数日前からスケッチ旅行で信州へ行って留守だった。


この夜はそろいで和装で出掛けた。柊理も慣れて、たもとのタバコを取り出すのが様になってきた。


香子の両親も加わった食卓では、彼らが今邸にいる結衣を養女とし、引き取るつもりなのを明かされた。そのような成り行きを柊理からも香子からもほのめかされていたので、驚かない。


「おめでとうございます」


「両親も女の孫は初めてなので、結局喜んでいるの。礼司も納得しているわ」


「それが一番誰にとってもいい形だよ」


「高司様には本当にお世話をかけました」


母親の言葉を受け、柊理が応じた。


「いえ、礼司のおかげで賑やかで、妻もおちょぼも喜んでいます」


「嬉しいお言葉。帰蝶さん、いつでもおちょぼちゃんとご一緒にいらしてね。あなた方なら大歓迎よ」


世辞でもなさげな熱心な口調だ。礼を言い、曖昧にうなずいておいた。


その後、お茶の場に移り、香子とその母親がそわそわし出し、雰囲気が変わった。男性陣は酒を飲み、女は紅茶を振る舞われた。


母親に肘で突かれた香子が口火を切った。


「あの、柊理様、おちょぼちゃんにまだ決まったお約束はおありじゃないですわよね?」


問われた彼が、意味を取りかねて問い返す。


「何のことですか?」


「香子が言うのは、おちょぼちゃんの縁談のことだよ。礼司とどうかと聞きたいんだ。義弟も就職が決まりそうだし」


有明の君が薄っすら笑いながら言う。この家族間ではすでに当たり前の話題のようだ。いつか聞いた奇天烈な話が再びよみがえってきて、お茶を吹きそうになる。


柊理を見れば、彼と目が合った。話の流れに戸惑っているようだ。初耳の彼にはキツネにつままれたような縁談話だろう。


「こちらがどうの、の前に、礼司はどうなのですか? おちょぼまだまだ子供で、あいつだって困るのでは」


「礼司はいい」


父親だ。後始末に懲りたと言うように、顔の前で手を振る。


「礼司に任せていれば、気の毒な女性を増やすばかりよ」


この場で花を貶めることを言わない香子を偉い女だと思った。


「あの子が結婚を嫌がったのは、窮屈な家同士のつき合いや儀礼を面倒がったのよ。でも、お相手が高司のお家なら、そういったこともないし、礼司も嬉しく思うはずだわ」


「嬉しいかどうか…。礼司も結衣のことがあったばかりです。急ぐ話でもないのでは?」


柊理は返事を避けた。当然の返しだ。


しかし、母親がつないで話が盛り返す。


「のんびりもできないのよ。男爵の高柳様がご子息のお相手にと、おちょぼちゃんをねらっているという話なの。青藍女学院の観覧人に申し込んだと聞くから、こちらも焦ってしまって。あれはあからさまな男側の花嫁探しですものね」


母親の話に柊理が絶句した。驚きやあきれが混じり、すぐに返事を返せないのがわかる。わたしを見た。養女に迎えたおちょぼだが、彼にとってはわたしの妹分という意識が、今も強い。


彼の困った様子を見て、口を開いた。


「おちょぼは確かに武家の出です。しかし、家は困窮して離散しました。画家として名を上げた礼司さんには、相手として見劣りするような気がします」


言葉を終えた後で、柊理が手を握った。


「いや、武家の出自と高司家の養女であることがそろえば、こちらは何も不足はない。礼司も脛に傷ある身だ。見劣りなどあろうはずも」


「そうねえ、お父様。ご立派なご身分より、かえって礼司にぴったりな気がするわね。あの子、典型的な令嬢が苦手だもの」


わたしは柊理と顔を見合わせた。微かに首を振る。何を言っても無駄なようだ。香子親子が、おちょぼを礼司の相手にしっかり定めていて、二人が似合いだ、に決着することになっている。


「ご無用」で終わる話が、柊理の親しい人々が相手では角を立てられない。吐息をつく。


そこへまったく予期せず、礼司が現れた。駅からまっすぐこちらに向かった旅の格好のままだ。白い顔が少し焼け、いつもより精悍に見えた。


「晩餐に間に合うかと思って急いだんだけど、遅かった。姉さん、何か食べさせてよ」


「困った子ね」


香子がベルを振り、メイドを呼んだ。礼司の食事を言いつける。


彼の登場で、話の流れが変わるだろう。礼司が一言「嫌だ」と言えば済む話だ。彼は椅子に掛け、有明の君から受け取った酒を飲んだ。そうして、ブーツの紐を緩めている。


スケッチ旅行の話が少し続き、彼の食事が運ばれた。皿のそれを頬張る彼へ、母親が、


「今おちょぼちゃんのお話をしていたの。可愛らしい、いいお嬢さんよね」


意味ありげに話を振る。


「そうじゃないと言えば、帰蝶さんに張り倒されそうだな」


「張り倒さぬ」


「あの子がどうかしたの?」


「お前との縁談の話なのだ。ちょうど高司家のお二人もおそろいだ。そのことで意見をうかがっていたのだ」


「ねえ、礼司、どう思う? いいお話じゃない?」


「難しい話は抜きにして、ごく内々の婚約ということで」


わたしと柊理を抜いた四人で、話が進んで行く。ここまで既定路線で仕組まれていたのだろう。内心あきれもするし、腹立たしくもある。


礼司がわたしを見た。


「どうなのこれ?」


「知らぬ。驚いているのだ」


「養女に迎えてすぐ縁談の話では、おちょぼも落ち着かないでしょう。せめて、高等科に入ってからということでは?」


柊理が話を終わらせようとした。時間稼ぎだが、面倒になってきていたので、わたしも彼の手を握りうなずいた。


「高等科に移ったら、観覧人がすごいのは、柊理様、おわかり?」


「せめて、我が家が一番初めに申し込みを行った、事実証明がほしい。誠意と熱意の証拠になる。他家を制することが出来よう」


「そう。後からの方々に礼司が侮られでもしたら、泣くに泣けませんわ」


香子親子の圧がすごい。


柊理がそれらをかわすように、礼司へ話を振る。


「お前の意見はどうなんだ?」


それで終わるはずだった。


礼司はハムをかじりながら、


「いいよ。僕でいいなら」


あっさりと了承した。


礼司の返事を聞いて虚脱してしまった。


その場限りの適当なことを言ったのかと思ったが、そうではなく、


「柊理の家なら楽でいい。僕がどんな人間か最初から知られている方が、裏切らないで済む。

勝手に想像して勝手に落胆されるのが、一番嫌だ」


という。


言葉の端に、最近去った花への思いがちらつく気がした。彼には彼の言い分もあり、しこりとして今も残るのだろう。


「帰蝶さんから僕のことを隠さず説明してやってよ。それであの子がちょっとでも嫌がったら、この話はご破算だ」


礼司の言葉はおちょぼへの優しさだ。


彼は甲斐性のない腐れた画家だが、見た目も素性もいい。明るくて面白い男だ。女に身勝手なのが玉にきずだが、花の件は彼のせいばかりとも言えない。



帰りの車で柊理と話した。


「おちょぼに礼司か。悪い話ではないと思う。姫はどうだ?」


「わからぬ。香子の家は周到な一家だの。おちょぼに礼司を当てがい、そなたに面倒を見させるつもりなのだ」


「そういう魂胆はあるだろう。華族の結婚に家の思惑抜きは難しい。礼司に一番近い令嬢が、おちょぼだからな」


面倒を見るのは構わない、と彼は言う。義兄の有明の君の手前、礼司の絵の資金援助には遠慮があったという。


「だが、おちょぼと礼司の縁ができたら、俺が金を出しても違和感がない。問題があるとすれば、年の差だな」


「男が上なら障りにもなるまい。我が父上は母上より二十もお年上だった」


「そうなのか。そういう話は初耳だな。姫にはきょうだいはないのか?」


「いない」


「跡継ぎはどうなるんだ?」


わたしは窓へ顔を向け、それ以上の質問を避けた。


「絶えた家の後継ぎの話などよいではないか」


柊理が手を握り、やんわりわたしを引き寄せる。


「悪かった。嫌なことを聞いた。許してくれ」


「うん」


指に絡む彼の指を感じた。拗ねた振りをした自分を嫌らしいと思った。言いたくない、本当はそれだけだ。過去の話に揺すられて、心の中の錆びた宝箱がカタコトと鳴る。


まだわたしがほんの幼い頃に佐和野家との縁談が整った。出来た男子を霧林の家がもらい受けるという契約だ。初潮を見て、すぐにでも床入りの手筈がなされていた。手元不如意はお互いで、婚儀など省略し切った実質だけが重視された。


一度だけ許婚の一成様と会ったあの茶会は、わたしの初潮を相手側に知らせるための婚儀に見立てた儀式だった。その後何があったか床入りはなく、縁談も家も消え去った。


こんな話を柊理に出来るはずもない。終わったはずの夢の続きのように、一成様の実像はわたしの胸に今も生々しいのだから。

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