33 / 35
33.朝の出来事
しおりを挟む礼司の家族は結衣に興味はあるが、立場上知らぬ振りを貫いた。対外的にはそうしつつも、姉の香子はわたしにあれこれ聞いてくる。
時々、わたしは花母娘の様子を見に行くため、結衣の健やかなことを伝え、礼司が描いた彼女のスケッチを渡したりした。
それは朝食の席のことだ。我が家の三人に加え、礼司も眠そうな顔でテーブルに着いている。
そこに女中が客を伝える。来客のある常識的な時間ではない。柊理が不審な表情をした。
「誰が?」
彼が問うと、女中は礼司をちらりと見る。
「礼司様に、女中さんが急ぎだそうです。赤ちゃんを抱いて…」
「え」
柊理が礼司を見、礼司が女中を見た。わたしはおちょぼを見て、食事を続けるように言った。
「客間を使え」
柊理が礼司に言い、礼司は女中と一緒に食堂を出て行った。
赤ちゃんとは結衣に違いない。こんな早朝に礼司をたずねてきた。何があったのか。胸が騒ぐが、柊理はおちょぼの前で大人の会話をすることを嫌う。「青藍女学院に入れたのなら、俺らがその親らしく振る舞わないと意味がない」。彼がいつか言ったせりふだ。
おちょぼを支度させ、玄関に送り出した。
「お冴が、そなたの言う甘い卵焼きを作らせてくれた」
お冴から弁当を受け取り、おちょぼはうれしげに車に乗り出かけて行った。
さっきから赤子の泣き声がする。気になってしょうがない。居間に行くと、柊理が上着を受け取り、羽織ったところだった。
「おちょぼは出かけたのか?」
「うん。甘い卵焼きを持ってな」
「卵焼きが甘いのか? 歯が浮くな」
「女学校で流行っているらしい」
そこへ礼司が戻ってきた。どこかぼんやりとした様子で、柊理の掛けた声に反応をしなかった。続く食堂で、食べさしの食事を再開している。わたしも柊理も隣りへ行った。
礼司は飯碗をかき込み、味噌汁で流し込んだ。平らげてからため息をついた。
「どうした?」
そう問う柊理へ、
「柊理、どうしようか」
すがるような目を向ける。
「花が消えたんだ。出て行った。子供を置いて…」
礼司はシャツのポケットに入れた紙片を柊理に渡した。彼が広げたそれをわたしものぞき込む。
『礼司様
色々お世話になりました。
考えることもあり、
一人になりたいのです。
結衣をよろしくお願いします。
あなた様の元で育つ方がこの子には幸いかと
判断しました。
勝手をお許し下さい。
花』
書き置きだった。
礼司への別れの手紙だ。彼はテーブルに肘をつき、頭を抱えている。朝、花の姿がなく、書き置きを見つけて驚いた女中がここにやって来たのだ。
「おい、出て行った理由はわからないのか?」
「知らないよ。何にも言わない女だったから。しばらく会ってないし…」
柊理がわたし聞く。
「何か理由を聞いていないか? 礼司に言えなくても、女同士なら話すこともあるのじゃないか?」
「何も」
礼司の言うように、不平不満をもらす女ではなかった。彼のそのままをひたすら吸い込んでやるような従順な女だったはず。わたのようだと感じたのを覚えている。
「礼司の通っていた、花の前の住まいに手がかりがあるかも。同じような生業の女たちと同居していたのだ」
「それ、花に聞いたの? 夜の仕事は隠している風だったのに」
「一度尾けた後で聞き出した。素直に打ち明けたぞ」
「怖い人だな」
礼司がぼやいた。
「姫にはいつものことだ。ともかく、その住まいに人をやって花の消息を聞こう」
柊理が野島に指示し、該当の家へ人をやらせた。帰りを待つ間、結衣の乳母を探す。まだ三月でどうしても乳が要る。今も腹を空かせて泣いていた。自分が消えれば、即座にこんな状況になると花にはわかっていたはずだ。
どんな理由があるにせよ、懸命に母を求める子を置いて出ていくのは、身勝手以外の何ものでもない。無理に礼司に売られたわけでもない。自分で選んで彼とつき合い、子を身ごもった。
そんな残酷な女だったのか。
家を出る間際の彼女の胸に何がきざしたのか。
柊理が外せない用があると、仕事に出掛けて行く。わたしを見て、
「礼司の力になってやってくれ」
と言う。
「わかった」
「早く帰る」
指輪ごと指を強く握られた。
お冴が乳をくれる女を見つけて来た。給金さえもらえれば乳母になってもいいと、自分の子供を連れてやって来た。
さっそく結衣に乳をやってもらう。その間に花の女中を呼んで、状況をたずねた。わたしに見えない普段の花を知りたいと思った。
二十歳ほどの女中は、思い出すようにぽつぽつと話し出した。
「奥様は穏やかで静かな方でした。叱られることもなくて…。でも少し、寂しそうにしていらっしゃいました。旦那様のお越しも一週間に一度ほどでしたし」
礼司は泊まることもあれば、すぐにふいっと出て行ってしまうこともあったという。
「客は?」
「いえ。こちらの奥方様以外はありません」
「手紙などは?」
「さあ、見ていないです」
「出掛けることはないのか?」
「買い物はわたしが済ませておりますし、特には…。でも先週、神社にお参りに行くとお出掛けになったことがありました。それくらいでございますね」
「そうか」
やはり、花の身寄りの話は聞いたことがないという。女中を解放し、結衣の世話に戻らせた。
それからしばらく待って、花の前の住まいへ行った使用人が帰って来た。以前わたしが花を尾けさせた運転手の男だ。
「住む女が言うには、花さんは仲間に挨拶もなく出て行ったそうです。それで縁が切れて、何も知らないと言います」
「かくまうようではないのか?」
「金を握らせましたが、出て来たのは、交際していたという礼司様らしき紳士の話だけでした。友人同士というのではなく、単に都合がいいから同居している薄い間柄のようです」
ねぎらってから下がらせた。
捜索の糸はぷちんと切れた。これ以上何もない。
集められる話を聞き終え、少し物悲しい気持ちになった。
花の気持ちなど推測しかできないが、今の暮らしが耐えがたかったのだろう。礼司の訪れが少ないこと。彼を待ち続けるこれからの日々のこと。妻になれない影の身であること…。
それらのいずれかかもしれない。すべてかもしれないし、他の何かを含むのかもしれない。
花が謙虚なのをいいことに、礼司の態度は素っ気なかった。時間で買った遊郭の一夜妻ではない。彼女は礼司に恋をしてこれまでを受け入れてきた。
だからこそ、我慢ができたことも、また我慢できないこともあるのだろう。彼が自分の女として、もっと優しさを見せて誠実に振る舞っていれば、こうはならなかったのかもしれない。
子を置いて去った彼女のやりようは絶対にいけない。けれど、それを選ばせたのは礼司だ。何がしかの彼女側のしるしを彼は見過ごした。見て目を逸らした。すべてに弱い立場の彼女を思いやらず、死なないように放置した。
そんな風に彼を責める言葉はあふれるように浮かぶ。
しかし、礼司なりに葛藤していたのも事実だ。花のため、柊理と不和になってまで金を作った。適う限りの責任は努めていたのは、わたしもよく知る。
ちょっと息をついた。
礼司を責めて時間が戻るわけでもない。状況は変わらない。
起きたことは起きたこと。今に対応するよりない。彼の場合結衣だ。
礼司は状況を知らせても、反応は薄い。
悄然として見えた。それは花を失ってのことか。結衣を残されて、これからを思って途方に暮れているのか。
彼の側に行き、ぽんと肩を叩いた。
「柊理は優秀な探偵を知っている。花の行方を探させよう。の?」
「僕から逃げた彼女を見つけてどうするの?」
「もういいのか?」
「もういいのは、僕じゃない。花の方だよ」
「ふむ」
そうかもしれない。何かも捨ててまっさらだ。花はまだ若い。頼らず自分で稼いで歩いて来た自負もあるはず。控えめで頼りなさそうに見えて、案外図太いのかもしれない。
花の女中から聞いた話を礼司に伝えた。彼が彼女に与え、家に置いてあった金のほぼすべてがなくなっていたらしい。鍵のかかる場所で、花しか開けられないという。そこが開け放されていたらしい。
「ふうん。川辺公爵に売った帰蝶さんの絵、一枚分くらいかな」
「大金ではないか」
「…よかったよ、せめて」
6
お気に入りに追加
29
あなたにおすすめの小説

【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。

異世界漫遊記 〜異世界に来たので仲間と楽しく、美味しく世界を旅します〜
カイ
ファンタジー
主人公の沖 紫惠琉(おき しえる)は会社からの帰り道、不思議な店を訪れる。
その店でいくつかの品を持たされ、自宅への帰り道、異世界への穴に落ちる。
落ちた先で紫惠琉はいろいろな仲間と穏やかながらも時々刺激的な旅へと旅立つのだった。

公爵夫人アリアの華麗なるダブルワーク〜秘密の隠し部屋からお届けいたします〜
白猫
恋愛
主人公アリアとディカルト公爵家の当主であるルドルフは、政略結婚により結ばれた典型的な貴族の夫婦だった。 がしかし、5年ぶりに戦地から戻ったルドルフは敗戦国である隣国の平民イザベラを連れ帰る。城に戻ったルドルフからは目すら合わせてもらえないまま、本邸と別邸にわかれた別居生活が始まる。愛人なのかすら教えてもらえない女性の存在、そのイザベラから無駄に意識されるうちに、アリアは面倒臭さに頭を抱えるようになる。ある日、侍女から語られたイザベラに関する「推測」をきっかけに物語は大きく動き出す。 暗闇しかないトンネルのような現状から抜け出すには、ルドルフと離婚し公爵令嬢に戻るしかないと思っていたアリアだが、その「推測」にひと握りの可能性を見出したのだ。そして公爵邸にいながら自分を磨き、リスキリングに挑戦する。とにかく今あるものを使って、できるだけ抵抗しよう!そんなアリアを待っていたのは、思わぬ新しい人生と想像を上回る幸福であった。公爵夫人の反撃と挑戦の狼煙、いまここに高く打ち上げます!
➡️登場人物、国、背景など全て架空の100%フィクションです。
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

【完結】旦那様、わたくし家出します。
さくらもち
恋愛
とある王国のとある上級貴族家の新妻は政略結婚をして早半年。
溜まりに溜まった不満がついに爆破し、家出を決行するお話です。
名前無し設定で書いて完結させましたが、続き希望を沢山頂きましたので名前を付けて文章を少し治してあります。
名前無しの時に読まれた方は良かったら最初から読んで見てください。
登場人物のサイドストーリー集を描きましたのでそちらも良かったら読んでみてください( ˊᵕˋ*)
第二王子が10年後王弟殿下になってからのストーリーも別で公開中

双子の妹に全てを奪われた令嬢は訳あり公爵様と幸せになる
甘糖むい
恋愛
同じ父と母から生まれたシャルルとミシャル。
誰もがそっくりだと言った2人は瞳の色が違う以外全て瓜二つだった。
シャルルは父の青と、母の金を混ぜたエメラルドのような瞳を、ミシャルは誰とも違う黒色。
ミシャルの目の色は異端とされ、彼女は家族からも使用人からも嫌がられてしまう。
やがて耐えがたくなったミシャルは、自由と自分の運命を求め、館を飛び出す。孤独な夜道を歩き続けた末、彼女はある呪われた屋敷にたどり着く。その屋敷で彼女を出迎えたのは、冷ややかな微笑みを浮かべた美しい男、クロディクスだった。
碧恋の詠―貴方さえ護れるのなら、許されなくても浅はかに。【現在他サイトにて連載中です(詳細は近況ボードまたは最新話部分をご確認ください)】
宵月葵
恋愛
現実をしばし離れて 胸きゅんな “時の旅” へおこしやす……
今年中の完結をめざしつつも
永遠に続いてほしくなる非日常を……お送りできたらさいわいです
せつなめ激甘系恋愛小説 × シリアス歴史時代小説 × まじめに哲学小説 × 仏教SF小説
☆ 歴史の事前知識は 要りません ☆
歴史と時代背景に とことんこだわった タイムスリップ仕立ての
愛と生と死を濃厚に掘り下げた ヒューマンドラマ with 仏教SFファンタジー ラノベ風味 ……です。
これは禁断の恋?――――――
江戸幕末の動乱を生きた剣豪 新選組の沖田総司と
生きる事に執着の持てない 悩める現代の女子高生の
時代を超えた 恋の物語
新選組の男達に 恋われ求められても
唯ひとりの存在しかみえていない彼女の
一途な恋の行く末は
だが許されざるもの……
恋落ち覚悟で いらっしゃいませ……
深い愛に溢れた 一途な可愛いヒロインと “本物のイイ男” 達で お魅せいたします……
☆ 昔に第1部を書いて放置していたため、現代設定が平成です
プロットだけ大幅変更し、初期設定はそのままで続けてます
☆ ヒロインも初期設定のまま高3の女の子ですが、今の新プロットでの内容は総じて大人の方向けです
ですが、できるだけ若い方たちにも門戸を広げていたく、性描写の面では物語の構成上不可欠な範囲かつR15の範囲(※)に留めてます
※ アルファポリスR15の規定(作品全体のおよそ1/5以上に性行為もしくはそれに近しい表現があるもの。作品全体のおよそ1/5以下だが過激な性表現があるもの。) の範囲内
★ …と・は作者の好みで使い分けております ―もその場に応じ個数を変えて並べてます
☆ 歴史については、諸所で分かり易いよう心がけております
本小説を読み終えられた暁には、あなた様は新選組通、は勿論のこと、けっこうな幕末通になってらっしゃるはずです
☆ 史料から読みとれる沖田総司像に忠実に描かせていただいています
☆ 史料考察に基づき、本小説の沖田さんは池田屋事変で血を吐かないのは勿論のこと、昏倒もしません
ほか沖田氏縁者さんと病の関係等、諸所で提唱する考察は、新説としてお受け取りいただければと存じます
☆ 親子問題を扱っており、少しでも双方をつなぐ糸口になればと願っておりますが、極端な虐待を対象にはできておりません
万人の立場に適うことは残念ながら難しく、恐縮ながらその点は何卒ご了承下さいませ
※ 現在、全年齢版も連載しています
(作者近況ボードご参照)

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる