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29.春の音が聞こえる
しおりを挟む川辺公爵が蟄居したとの報は、瞬く間に帝都を駆けめぐった。元からが権威を盾の横暴もひどく嫌われ者であったため、風刺画を添えて新聞がそれを報じもした。完全に失脚したと見なされてのことだろう。
公爵令嬢の婚約者として既婚歴を抹消された人物も、婚約を破棄することになったという。
五枚あったわたしを描いた礼司の絵の四枚も、公爵が買い取った。しかし、それは失火で消失したとされている。柊理が所有する残り一枚が市場に出回れば、さぞ高値が付くと噂になっているとか。
そうとは期せず、柊理が会を催した。その水彩画に新たな額装を施したその発表の会だ。
「どうでもいいことに集うのだな」
「まあ、そう言うな。春待ちの会だ。じき桜も咲く。それに、今回は絵の画家も招いた」
柊理が絵の件が原因で礼司と絶交して、三月ほどにもなる。完全に礼司が悪いが、その理由には同情すべきところもあり、わたしが仲直りをほのめかし続けてはいた。
「礼司を許すのか?」
「許さないと、そろそろ姫に愛想を尽かされるだろ」
「礼司は頭こそ丸めないが、酒を絶ったそうだからの」
わたしは花の家に折々出掛けている。その際に礼司と会うこともあるのだ。
晴れたある休日。邸に柊理の友人たちが集った。冬の終わりには暖かな日で、庭園の梅も美しく、和やかな会に華を添えた。
この日、柊理はお召しの羽織姿だ。
「素敵ね。柊理様は和装もなさるのね」
「ね、ああいうお姿を見たら、主人にもあつらえたくなるわ」
「帰蝶さんがよく和装でいらっしゃるから、それでお召しになるのでは?」
女たちの評判がいい。和装にはほっそりし過ぎている感もあるが、姿もよく似合っている。洋服に慣れ、最初は抵抗があったようだが、着ろと迫ると折れてくれた。
「帰蝶さんの好みだろう?」
礼司があちらの柊理を顎で指しさながら言う。
「そうだが」
「昨今の男は女の言いなりだ。嘆かわしいよ」
ああはなりたくない、と首を振る。
「本人が不快でないのなら、よいではないか」
「主導権の話をしているんだ。それを奪われたくないと言っているんだよ」
「奪ってなどいない」
「でも、柊理が譲らないと帰蝶さんは嫌なのじゃないか?」
「当たり前だ。ささいなことを譲れない男は肝が小さい」
「肝の大小より個人の自由の方が重要だ」
「花は自由に理解があってよいの」
礼司がわたしの口に手を当てた。花の名前は禁忌らしい。すぐそばに談笑中の姉や義兄がいる。彼らにまだ花の存在は知られていない。
いざ子供が生まれ、その時に騒動が起これば、産後の母子に障ろうと思うが、礼司はとにかく今のいざこざを避けたいようだ。
「お前は酒を絶ったのじゃないのか?」
柊理だ。礼司が彼との仲直りの願掛けに断酒していたことを指す。礼司は断酒などとうに止め、今も飲んでいる。
柊理がわたしの肩に手を掛け、顔をのぞき込む。礼司に手で口を封じられた仕草を見ていたようだ。何でもない、と小さく返した。
「今日の招待と、柊理の絵を祝して解禁したんだ」
しれっと言うから、柊理も笑った。こういうところが、憎み切れないのだろう。
近い将来子供が誕生し家族間で大騒動になった時も、柊理に泣きついてくる礼司の様が易々と想像できる。そして、それに骨を折ってやる彼の姿も見えるかのようだ。
電話がかかったことを野島が知らせて来た。
香子などから誘いの電話が来ることはよくあり、そんな際はお冴や女中がわたしに取り次ぐ。野島は客の対応や邸維持の仕事が多く忙しいのだ。
「待たせておりますが、先は『武器屋』と申しております」
久しぶりに聞く名が怪訝だった。わたしが身請けされて以来縁が切れ、関わりもない。
「何の用か聞いたか?」
「はい、おちょぼちゃんのご用らしいです」
「え」
おちょぼの名前が飛び出し、どきりとした。何か不幸があったのかと胸が騒いだ。野島の後について、電話室に急ぐ。金属の受話器を耳に当てると、『武器屋』の楼主の声が届く。
もがもがのんきに挨拶を始めるから、それを遮り、
「おちょぼがどうしたのです?」
と問うた。
「そう、それがね、今ここにいるんだよ」
楼主の言う意味がわからない。なぜおちょぼが遊里にある『武器屋』にいるのだ。あの子は親元に帰ったはず。遊びに来ているのか、と一瞬思ったが、そうならわたしに連絡などしない。
「親が来たんだよ、また買ってほしいと」
え。
予想外の出来事に、膝からくずおれそうになった。
なぜ?
絶句してしまったわたしに、混線を疑う楼主の声が間延びして届く。
「ゆじゃなくて、葵。聞こえるかい? おーい、葵」
とっさに楼主が偽名を使った。夕霧花魁の名は有名で、遊郭外でも知る人も多い。すでに身請け後人妻のわたしのため、外聞を憚ったのだろう。「葵」としたのは、『武器屋』の遊女は皆、源氏物語から名をもらうから。その物語の中で、夕霧の母親が葵だ。
「聞こえます」
「よかった。それで、うちとしてはおちょぼをね、再度買おうかと思うんだが、君に一応知らせねばと思ってね」
「今から行きます。お父さん(楼主のこと)、一時間ほど待てるでしょう。親を待たせて下さい」
「え、そうかい? 来てどうする…」
そこでがちゃりと受話器を戻した。
電話室の外に野島がいた。何事かとわたしを見ている。彼に向き、
「野島、金が要る」
と告げた。
「いかほどでしょう?」
「わからんが、小娘を買い取るほどだ。邸に幾らある?」
それで野島はわたしの意図を理解したようだ。おちょぼを身請けに行くのだと。
「必要な額のご用意はできますが、大金になります。まず柊理様にお伺いを…」
「では聞いて参れ」
「今日は埼玉まで視察にお出かけと聞いております。すぐには連絡の取りようがありません。お帰りまで待たれては? 八時にはお帰…」
今はまだ昼の二時だ。柊理を待っていては夜中になってしまう。
「遅いわ。おちょぼが待っているのだ。車を用意させよ」
「奥方様がお一人で『武器屋』へ? それはなりません」
「ならば、そなたが供をすればよかろう。苦界というが、鬼がいるわけでもない」
「それは構いませんが」
行くのはいいが、やはり現金が要る。おちょぼの親も金がほしくて売りに来たのだ。そこは譲らないに違いない。ただの口約束でおちょぼを引き渡してはくれない。
野島には野島の立場がある。高司の邸ではある程度以上の金額を使うのは、当主の許可が必要な仕組みになっているのだろう。
どうするか。
そこで左手の指輪に気づく。柊理が贈ってくれた結婚指輪だ。ダイヤという光る宝石がついた高価なものらしい。
それを指から抜き、野島に差し出す。
「これで幾ら出す?」
「指輪を担保になさるので?」
「金の代わりに金庫に入れておけばよい」
「それは…、柊理様が何と思われますか…」
野島が言葉を濁す。贈られた結婚指輪を邸内とはいえカタに入れたと聞けば、いい感情はしないとわたしも思う。しかし、時間がない。
おちょぼがあの『武器屋』でどんな思いでいるかと考えると、身もだえしそうになる。
「構わぬ。柊理は口を吸ってやれば済む」
「何ともはや、豪胆な奥方様で…」
野島は苦笑している。
無理押しで金を用意させ、野島と共に車に乗り込んだ。
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