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27.心のかげぼうし

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布団に身を横たえる。頭が重い。


一成様はどうするつもりだろう。「騒動は困る」と言った表情は真剣で、わたしの邪魔など許さないといった、厳しさも感じた。


公爵に不祥事があれば、その威を借りる彼の立身も危うい。けれど、そうならば、そもそもわたしを助けなどしなければいい。


彼が知る被害者の数は多い。公爵の卑劣な罪を看過してきたことに心は冷えるが、その中でわたしだけが救われた。ふと、そこに甘い喜びを感じてしまう。そんな自分を嫌らしいと恥じた。


涼やかな彼の面影は、わたしの宝物だった。再び会えなくても、もう世界が違っていても。過去のその切り取った場面だけは、わたしたちは間違いなく許婚同士だった。


けれど。


すでにわたしの思い描く一成様ではない。


なのに。


守ってくれた優しさとまなざし。それらすべてが過去とつながり、わたしの心をやるせなく揺さぶる。涙があふれた。


問いたくて出来なかった問いに、答えがあるのなら、聞きたいと切に願う。


なぜ、わたしの絵を燃やしたのですか?



いつしか寝入っていて、気配で目が覚めた。柊理だ。


「すまん、起こしたな。一人がよければ出て行く」


「寒い。温めるがよいぞ」


「俺は湯たんぽか」


身体に彼の腕が回り、抱き寄せられる。匂いや声、力の加減。それら感覚に身体がほっと緩む気がした。そう感じるほど、わたしは柊理になじんでいる。


目尻に感じた涙を袖でぬぐった。


「熱があるのじゃないか? 身体が熱いぞ」


柊理が頬に触れる。畳ですった後がちくりと痛む。凍える屋外でぬれていたのだから、風邪くらい引くかもしれない。頭の重さはそのせいか。


「明日は起きないで寝ていろよ」


「風邪ならうつる。そなたに障ろう」


「俺なら平気だ。また姫から餌をもらえば済む」


何を指すのかすぐにわかる。恥ずかしくなり顔を背けた。指が顎をとらえ、彼が口づける。


柊理の指は長くきれいだ。一時代前の男のように剣術の竹刀ダコもない。当世の貴公子で、身の鍛錬なら乗馬やスポーツなどを行う。


「そなたの手はきれいだな」


「そんなことを言われたことがない」


まわりも皆きれいだからだ。


わたしの手指を包んだ別の手のひらが浮かび、目を閉じてそれを払う。柊理の腕に抱かれながら、違う誰かを思いたくなかった。


額に口づけて、彼が言う。


「怖かったんだな。俺が守ってやれなくてすまなかった」


そのまま彼の唇が涙の跡に流れた。


恐怖より怒りが強かった。一成様に制止されるほど三島を蹴りつけたことは、面倒で口にしなかった。


熱のせいか頭がぼんやりする。ひどく眠い。小さくあくびをした。


「 …時に、礼司の絵がすべて焼けたぞ」



事件があってから、柊理以外との外出は控えるようになった。


そんなわたしの慰めのつもりか、彼が花を贈ってくれる。それが居間にあふれ、華やいでいた。


「柊理様はお優しゅうございますね」


お茶を運んで来たお冴えが、日々増える花を見て言う。確かに柊理は優しい。事件後の気遣いもあるだろう。


「当世は優しい男が多い。有明の君も妻の香子を大層甘やかしている。それが華族の男の度量なのだと申していた」


「まあまあ、お江戸の頃とは何もかも違います」


お冴が首を振る。彼女は武家の奥女中だったと聞く。古い伝統で生きてきた女には、潮目の後の変化は、受け入れがたいものもあるはず。


最初わたしに冷淡だったお冴が、じき態度を軟化させたのは、わたしの中に今も残る郷愁を見るからではと思う。詳しく過去を聞いたこともないが、ふと思いついてたずねた。


「そなたが仕えていたお家は、今もあるのか?」


お冴は目を伏せた。


「将軍家が千代田のお城を出られて、静岡に移られました。その時の随身の中に旧主ご一家もあります。江戸を終われての転居で、その際に奉公人はすべて解雇になりました。もう三十年以上も前の話でございます」


耳にしたことがあった。将軍家に従った旗本衆は少なく、転居先でも困窮した暮らしぶりだったとか。我が父君は随身も選ばず、かといって新政府におもねるもよしとせず、宙ぶらりんな立ち位置を貫き続け、立ち枯れるように潰えた。


主人を失ったお冴は、その頃おじい様と会い、新たに仕えることになる。麒麟の色が見える異能のおじい様はのち柊理を拾い、駆け上がるように立身していく。お冴にとっては旧主との別れは、幸運とも言える。


彼女を椅子に座らせた。


「わたしは潮目の後しか見ていない。遊郭におったのは知っておるな。あの妓楼には旗本や御家人の娘がうなるほどいた」


「お痛わしいことにございます」


「わたしはおじい様が柊理に娶せるために閉じ込められていただけだが…。のう、女はまだいい。売るものがある。しかし、男ではどうなる?」


「どうなるとは?」


お冴は意味を取りかねている。


口にする前に瞳が落ちた。


「家が潰えた時、姫は売られる。しかし、若君はどうなるのだ?」


「さようで…」


「他家に養子に入るのか?」


「それは幸運な例にございましょう。ご家運の尽きた大概の若様は、市井に紛れるばかり。家名を捨てただ人になり、お暮らしでしょうね。大工仕事や天秤棒を担ぐ方もあるとか」


大工仕事、天秤棒。


一成様の手の傷は、生きていく糧を得るために得たものか。


お冴が思い出したように言葉をつないだ。


「これは少しお話が逸れてしまいます。先代様にお聞きしたのですが」


「おじい様が何を?」


「ご立派な武家の方ほど世事に疎くていらっしゃいます。潮目の変わった混乱につけ込んで、そういった方々を騙す輩もあったとか」


お冴が言うには、叙爵や新政府の役職などを約束し、土地やなけなしの家財を根こそぎ奪うやり口だとか。のち、騙された側が訴えても、元より時勢に乗り損ねた弱い立場だ。知らぬ存ぜぬで嘲笑されて終わる。


「それで憤死なさった方々もあるとか。潮目後、大財産を築かれた方にはそんな悪事を働いたお人もあるようで。先代様は一緒くたにされては困るとお怒りでございました」


「そうか」


お冴の話はわたしの知らない潮目後の側面だった。不運な武家は自然に消滅したのではなく、強引に潰えさせた者があるということ。そんな悪漢が華族の中にはいるのだということ。


女中がお冴を呼びにきた。指示をもらいたい仕事があるようだ。


「ここはいい。ありがとう」


彼女を解放し、わたしは一人でもの思いにふけった。


面影橋での一成様の様子が思い出される。ひと時見せた清廉な笑顔に、胸が締めつけられるのを感じた。わたしはあの方の何も知らない。過去の一部を共有するだけだ。


お冴の言った、大工仕事や天秤棒を担ぐ日々もあったのかもしれない。しかし、それらを軽々と歩んでいくお人であってほしい。因循姑息に潮目を恨む人であってほしくない。


しかし現実の一成様は、あんな川辺公爵の従属物になり、か弱い女が被害に遭う卑劣な犯罪すら見過ごしてきた。わたしの中の彼と相容れず、気持ちがふさぐ。


わたしの希望や願いで勝手な絵を描き、それを一成様に押し当てているだけだ。


わかっている。


初恋の憧れの君を汚したくないのはどうしてだろう。


過ぎた時間の中の忘れ物なのに。


そのもの思いを破るように居間に女中が入ってきた。


「新しい額装が出来て、今届きました。どちらへ置きましょうか?」


礼司の水彩画の最初の一枚だ。唯一残ったそれに、柊理が新たな額をあつらえたのだ。どうするのかを彼から聞いていない。


「奥の書院へ」


適当に命じておいた。


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