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18.夜のいさかい

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絵のモデルを務めたことがきっかけで、氷川宮妃のお茶のご招待を受けた。


こんなことがいくつもあった。断りにくいものは出席したが、それ以外は辞退した。


高名な画家からモデルを頼まれることもあったが、まず柊理が許さないし、わたしも興味もないので断った。


本格的な冬を迎えた。この頃、礼司のわたしを描いた最後の絵が仕上がった。わたしも連日モデルとして協力し、何より彼が絵に真剣に向き合い続けた。礼司の絵ではあるが、共同作業の感もあり、思わず手を取り合って喜んだ。


一枚仕上がるごとに美術館で公開してきた。その都度好評を博し、礼司の名は帝都で広く知られるものとなった。本人もその自負があるようで、以前の浮ついた少年っぽさは薄らいで見える。


完成した絵はすぐに公開のため美術館へ運ばれた。明後日から期間を限定し、特別に礼司の絵だけの個人展覧会が始まる。


「宮家の方もお忍びでいらっしゃるとの噂もあるわ。大変な名誉ね」


「あの美術館で個展を開いたのは、礼司が三人目だそうだ。しかも以前の二人は画壇の重鎮だから、若手には大した快挙だね」


香子も夫の有明の君も誇らしげだ。


この夜は有明の君の邸に晩餐に呼ばれていた。夫妻に礼司、そしてわたしだ。柊理は急な出張で三日前から神戸に出かけている。


食事の後で、酒を飲みながら話す。話題はもっぱら礼司の絵に関することばかり。数ヶ月前まで鳴かず飛ばずの彼の作品が、今では帝都の注目の的なのだ。援助してきた身内として、話の尽きることはないだろう。


悦に入っていた礼司も、さすがに内容の変化のなさに飽きたようだ。部屋の隅に行き、ピアノをいじっている。


「礼司にいい縁談のお話もいくつもあるのよ」


と香子が小声で言う。これまでは華族でも有力な婿候補と見られなかった彼も、一気に形勢が変わった。時の流行画家だ。今後勢いが失速しても、大成功を収めたのだ。十分な箔と見なされるはず。


「今後はのんびり趣味で絵を描いてくれても構わないと、嬉しい条件を出して下さる先様もあるの」


「礼司さんは?」


「まだ興味がないのよ、結婚に」


「でも、この先長く一人でいるのもどうか。帰蝶さんと柊理の睦まじいのを見て、羨ましい気が起こらないのかな」


いつの間にか戻ってきた礼司が、義兄の話を受けて、


「義兄上も柊理も、わがままな女の言いなりになっているじゃないか。ちっとも羨ましくなど感じないよ」


と返した。


「あら嫌ね。わたしと帰蝶さんがわがままみたいじゃない。華族の夫人とはこういう大らかなものよ」


「令嬢は多少わがままなものだよ。そのように育てられるのだから。優柔ばかりじゃ気品がないだろう。そんな令嬢を妻とするのも華族の男の度量じゃないか」


「何だかな…」


礼司ははっきりしない様子で返事を濁した。大きな決断や責任からまだ逃れていたい。そんな気持ちが透けて見える。


ふと、わたしにたずねた。


「柊理はいつ帰るの?」


「明後日の夕ごろと聞いたが。柊理に用か?」


「うん…。ちょっと話がある。伺うよ」


「そうか」



晩餐から二日後、柊理の帰宅に前後して礼司がやって来た。


柊理は長の移動で疲れた風に見えた。眠いのか、ちょっと物憂そうに礼司に対している。内密の話のようで、わたしは客間から離れて居間に移った。


庭の木々を揺らす風の音がする。冷える夜で、帝都も雪がちらつく予報が出ていた。


火鉢の前で、お冴といた。彼女とあつらえる柊理の着流しの柄を見ていた。彼は洋装もよく似合うが、わたしは正直、男は和装が好みだ。邸にいる時くらいは着ろと言えば着るだろう。


「こちらの縞は旦那様には渋すぎますわね」


「そうか。では、こちらの小紋にしようかの」


そんなことを話し合っている時だ。大きな声がした。客間からのようで、柊理か礼司のどちらのものかわからない。


お冴と顔を見合わせた。わたしが高司の邸に来て以来、あんな怒声を耳にしたことはなかった。


「何でございましょうね」


「放っておこう。喧嘩くらいするだろ」


心が騒がないでもないが、二人の内密の問題なら、わたしが口を挟むべき事柄でもない。後で柊理から聞けばいい。


それからすぐだ。


どたどたと足音がして、人を呼ぶ声が続く。


「帰蝶さん!」


礼司の声だ。そこでわたしは立ち上がった。居間を出る。廊下をこちらへ足早にやって来る礼司の姿があった。


「どうしたのだ?」


取り乱した様子の彼が、わたしの手を引いた。


「柊理が、柊理が倒れた。血を吐いて」


わたしは彼の手を払いのけ、居間のお冴に振り返った。


「聞いただろう。野島も呼べ」


「は、はい。ただ今」


「わたしは柊理を見て来る」


そして礼司と連れ立って、客間へ急いだ。


「柊理と言い争っていたのか?」


「う、うん、僕の話を聞いた柊理がひどく怒って、…それで僕も言い返した。そうしたら急に、彼がうつ伏せに倒れ込んで、見たら血を吐いているから…」


礼司そのものが血を吐いたかのように蒼白になっている。


当世、喀血は重病の証だ。目の前を暗いものがおおうように思った。駆け付けた客間に、柊理が横になって倒れている。絨毯に彼の吐いた血がついていた。量も多い。グラス一杯ほども血を流したかのようだった。


膝をつき、顔を寄せた。意識があるのか知りたい。


「柊理、わたしだ。帰蝶だ。わかるか?」


息はある。微かに反応もあった。血を抜かれたような白い顔をしていた。頭を膝に乗せ、袂のハンカチで汚れた口元をふいてやった。


そうしているうちに、お冴が野島を伴い現れた。


「寝室へ運ぼう。お冴は布団を敷いてくれ」


野島がわたしの膝からゆっくり彼の頭を下ろした。脇を抱える。柊理はなすがまま、ぐったりとしていた。


「そなたは足を持て。何をしている」


うろたえて突っ立ている礼司を叱りつけた。


柊理を運ぶ中、野島が聞いた。


「奥様、お医者様はどうしましょう? 迎えの車をやりますか?」


「そうだな、そのように…」


返事の途中で、何かが腕に触れた。見ると、それは柊理の指だった。わたしの袖をつまんでいる。


「どうした? 柊理。何か言いたいのか?」


彼は薄く開いた目でわたしを見ていた。緩く首を振る。顔を口に近づけた。唇が動く。ごく小さな声だ。


「呼ぶな。医者は要らない」


そう聞こえた。


医者を呼ぶ無駄を知っているかのような言葉に、絶句した。


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