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14.柊理のくれるもの

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礼司が絵筆を置いたのを潮に、辞去することになった。


「おちょぼちゃんは残念ね、せっかく青蘭の準備をしていたのに」


親戚の子として常にわたしが連れ歩くおちょぼは、周知の存在だった。最近姿がないので不審がられても、と急に親元に帰ることになったことを知らせてあった。


彼女の名が出て、胸がしんとなる。いなくなって一月ほどか。寂しさにも慣れた気がするが、名前だけはいけない。込み上げる感情がある。


何となくうつむいた。涙がにじむのがわかる。


柊理が肩を抱いた。わたしの顔を自分方へ引き寄せるようにする。


「じゃあ、失礼する」


背に、見送る二人の「仲がよろしいわね」、「柊理はめろめろだな」の声が聞こえた。実際、おちょぼがいなくなり、寂しがるわたしを彼がよく気遣ってくれているのは感じていた。


今日だって、必要もないのに迎えに現れた。柊理は優しい。


車に乗り、彼が行き先を告げた。邸ではなく映画を観ようという。


「映画?」


「動く写真だ。まだ見たことがないだろう?」


「ない」


たもとにしまったハンカチで涙を抑えた。


おちょぼから一度手紙が届いた。近くの小学校に行き始めたこと、家の手伝いをしていることを快活に伝えてきた。幸せなのだと感じ、ほっとしたものだ。返しに短い文を書き、彼女の好んだ小説を二、三一緒に送った。


それ以来やり取りは絶えていた。去る者は日々に疎し。彼女にとってわたしはそうなっていく。住む世界も異なり、今後交わることもない。


女学校の資金は柊理が援助すると約束してくれたが、今のおちょぼの環境で果たしてそれが最善か。地域の子になじむごく普通の小学校が、あの子のこれからにふさわしいのかもしれない。


ハンカチをたもとに戻してから聞いた。


「わたしは親の身分を笠に、わがままで高飛車か?」


問いに、彼が吹き出した。


「そなた、思い当たるのだな」


「…まあ、そうだな」


「嫌か?」


「そんなことはない。姫は面白い」


「おかしな男だの」


「川辺公爵の令嬢と姫は違う。同じに見ているわけじゃないからな」


「同じわがままで高飛車なのだろ。どちらが強いかの」


「は?」


「やり合えば、どうかの? 案ずるな。手を出したりしない」


「喧嘩するって話か?」


「そう。女など脛か股を蹴って転ばせれば早い。上に乗って首に手刀を入れてやれば、きゃんと泣く。武家の女も公家の女もあっけないからの。公爵の娘なら歯応えもあるのではと思ったのだ」


柊理は黙ってしまった。


映画会場に着いた。


座席がずらりと並んだ広間で、八分ほどの人の入りだった。座って待つうち暗くなる。前に掛かった大きな白い幕に動く写真が映るらしい。


映画の説明に弁士の軽妙なおしゃべりが始まる。それに会場がわいた。


白黒の動く絵が画面に広がり、次々続き途切れない。奇術のようなで目が吸いついた。おちょぼに見せてやりたかった思う。喜んだろうに、と切なくなった。


ふと手を握られる。柊理だ。そうだ、今は彼といる。わたしの気分転換にこんなところに連れ出してくれた。


おちょぼから考えをずらし、彼にもたれた。


映画が進む途中で絵が途切れた。同じ絵が止まったまま写って残っている。


「お客様、少々お待ち下さいませ」


不備を手直しする間、弁士が慣れた調子で小噺を始める。こんなことはよくあるようだ。


肩に柊理の腕が回った。わたしへ身を伏せるようにして彼が口づけた。


弁士の甲高い声に客の笑いが混じって満ちる中、違う場所にいると思った。


その二人きりの場所で、わたしたちはずっと口づけ合っていた。



アトリエに何度も通ううち、季節が変わる。礼司にも慣れた。


モデルを前にしての作業が済み、最終の仕上げに入り、とうとう絵が仕上がったと聞いた。見に出かけた。キャンバスに掛かった白い布が外された。作者の次に初めて目にしたのはわたしだ。


「やはり、モデルの帰蝶さんに敬意を表してね」


水彩画だった。当世の流行らしい。全体に淡い色調のどこか幻想的な雰囲気の絵だ。礼司は油絵を学びにパリにも渡ったと聞いたが、水彩も見事な出来だった。立ち姿のわたしが柊理のタバコの箱を手にしている。


邸にいくつもある礼司の絵の中と比べても、一番印象的だ。自分がモデルを務めているというのも大きいが。誰かの作品に似たそれらと違い、この絵には礼司の描いたもの、という彼の個性が見えるように思う。


「スケッチの帰蝶さんは、水彩で描いた方が映える気がした」


「これはどうするのだ?」


「展覧会があるから、それに出そうと思ってる」


自分でも自負があるのか、声にも張りがある。続けて、スケッチの残りをまた下絵にしていくとも言った。


「それも水彩画で?」


「うん。できるだけ続けて発表したいんだ。水彩はやはり乾燥時間を気にしなくていいから、早くし上がる。同じように帰蝶さんにもまたモデルを頼みたい」


「それはいいが…」


「何か問題でも?」


実は、柊理がアトリエに礼司と二人になるのを嫌がるのだ。これまでも、折々香子が気を利かせてくれて在席するようにしてくれていたが、毎度とはいかない。


おちょぼがいればちょうどよかったが、もういないものを嘆いてもしょうがない。


察しがいいのか、礼司は軽くうなずいた。


「柊理が妬くんだな。それは僕が気を遣わなくちゃいけなかった。申し訳ない」


絵を前にした礼司は至極真面目だ。わたしに興味など示さない。もし、万が一にも手を出してこようものなら、ただではおかない。鉛筆でもで、どこか刺してやる。


礼司はちょっと考えた後で言う。


「僕が友だちの女性をここに呼ぶよ。それなら柊理も安心だろう」


「どんな女だ?」


「若い人だよ。昼は暇があるから僕が言えば来てくれる」


「それなら」


女がいれば、柊理も文句はないだろう。


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