笑わない女〜没落した姫が泣かずに負けずに逆境を越えるまで〜

帆々

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9.麒麟の跡

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香子の声がかりで、女だけのピクニックを行った。


意味がわからなかったが、屋外のきれいな場所で弁当を食べることらしい。おちょぼも連れて行く。


わたしもお冴に頼み、重箱に海苔巻きやらおかずを詰めてきた。女ばかりだからか、誰かが酒を出した。青空の下で冷酒を飲みながら、だらだらと午後を過ごす。有閑夫人とはここに極まった感がある。


近くで制服を着た少女らが遊んでいた。


「あら可愛い。あのリボンは青藍女学院の初等部よ。課外活動かしら」


「女学校は袴ではないのですか?」


矢絣に袴を合わせたのが、決まった女学生姿だと思っていた。わたしの問いに、目の縁をほんのり染めた一人が答えた。


「二年前から制服になったの。華美になるからですって」


「でも制服もいいわね。スカートが可愛いわ」


確かに、膝丈の揃いのスカートにブラウスの姿は愛らしい。


その時気づく。食べるのが大好きなおちょぼの箸が、皿に甘露煮を残したまま止まっている。彼女の目は、制服姿の自分と似た頃合いの少女たちに釘付けになっていた。


「おちょぼ?」


返事もない。腹がふくれたのではない。


羨ましいのか。



わたしの八つ下のおちょぼとは、『武器屋』で出会った。


まだ先代の楼主が、わたしに面倒を見ろと押しつけてきたのが始まりだ。わたしがまだ花魁になりたての十三の頃だから、おちょぼは五歳だった。親は江戸に近い小藩の藩士の出だと聞いた。


その時からずっと一緒だった。字を教えたのも、数を教えたのもわたしだ。


食べるのが大好きで、『武器屋』ではそれ以外の楽しみも少ないが、遊女になる自分をわかっているのか、あきらめているのか。無邪気な様子からはわからないでいた。


制服の少女たちを見るおちょぼの目は真剣だった。


食べ物以外の初めての執着だ。高司の邸に来て、生活に不足がなくなった。暗いうちに叩き起こされることもなく、奪い合って皿のものをかき込む必要もない。他を見る余裕も出来ていたのだろう。


遊郭にも少女は大勢いたが、雰囲気は全く違う。甘えることを許されない少女は、目の奥が暗い。幼い頬にも影があった。


学校に行きたいのか。


あんな風になりたいと、憧れるのかもしれない。


「おちょぼは女学校に行きたいか?」


ピクニックの帰りに車の中で聞いてみた。


彼女はあくびの途中で驚いたようにわたしを見た。


「わたしはそういうのじゃないから…」


「そういうの」。


重ねて聞かなくても意味はわかった。わたしもそうだからだ。親がそろい、家があって、金もある。それらが組み合わさらないと、制服の彼女たちのようにはなれない。


今でもその現実は心に重い。自分のすべてをあきらめて遊女になった。姫から遊女へのその境目の日。それからの日々。


過去としてそれらを眺めても、嫌な感情が胸にくすぶる。わたしはいい。そこから抜け出して、華族の夫人だ。すごろくで言えば上がりだろう。


でもおちょぼはこれからだ。遊郭を出ても、彼女は何にもなれていない。逆に何にでもなれる。あの制服の少女たちのようにだってなっていい。


女学校に行かせてやりたい。


親の代わりはわたしが務まる。金は柊理が出すだろう。



柊理はしばらく遅い帰宅が続いたが、この日はわたしが寝室に下がった頃に帰って来た。


すでに寝巻きに着替えてしまった後だ。しばらく迷ったが、まあいいかと部屋を出た。


廊下で野島に行き合った。


「柊理は?」


「お部屋におられます」


「部屋はどこだ?」


野島の案内で部屋に向かった。ドアを彼が叩いた。柊理の返事が返り、野島が下がって行った。


ドアを開けると、洋風な書き物机と椅子がある書斎が目に入った。その奥が寝間らしい。薄くタバコの匂いがした。


寝間に進んだ。


布団の上で浴衣姿の柊理が仰向けに寝転んでいた。本を読んでいる。袖が上がり、肘から先がのぞいた。目立つ引っかき傷が二、三走っている。服で隠れる部分の傷に、目が吸いついた。


「何か用か?」


「そうだ」


そこで彼が本を脇にやった。わたしを見て驚いている。野島だと思ったようだ。起き上がった。


「姫か。どうした?」


風呂上がりらしく、髪がまだぬれている。


「そなた、女がいるのだろう」


「は?」


「芸妓の旦那になっているのか?」


「何を言っているんだ?」


膝をついて、柊理の傷のある腕を取った。


「通う足が遠のいて、妬かれた女に引っかかれたのではないか?」


「これは違う」


さっとわたしの手を外し、腕を組んだ。理由も明かさない。傷を隠すような仕草に見えた。その反応に、勢い込んで来たのに気を削がれてしまった。


「どうした? 俺に用があるのだろ?」


「…遊ぶなとは言わない。外に女がいるのなら、その者に挨拶をさせよ。邸の庭先にでも呼べ。顔を見てやる」


それを告げ、立ち上がった。


おちょぼの学校のことを話に来たのだが、その気になれなくなった。


と、彼が笑い出した。何がおかしいのか、後ろに倒れ込んで愉快げに笑っている。こちらの気持ちを馬鹿にされているようで腹が立つ。


「何がおかしい?」


柊理の上に馬乗りになって顔をのぞいてやった。


「何だ? 申せ」


「こら、下りろ」


「言わないのなら、退かない」


「あんたはよく人の上に乗りたがる女だな」


ようやく笑いを収めた彼が、落ち着いた声で言う。


「外に女はいない。信じてくれ。だから、庭先には呼べない。顔を見られなくて残念だったな」


「本当か?」


「嘘はつかない」


「そうか」


「俺に用ってなんだ?」


「うん…、おちょぼのことだ」


彼女が制服の少女たちを熱心に眺めていたこと。学校に行きたい気持ちを聞くと、「わたしはそんなんじゃない」と自分の可能性を否定したこと。それらを話した。


「親ならわたしがなる。金はそなたが出せばよい」


そこでまた彼が薄く笑った。


何がおかしいのか。麒麟憑きめ。


柊理は寝たまま器用にタバコに火をつけた。煙を上に吐き出し、


「本人が望むなら、概ね賛成だ。俺も成長した先、どうするのか気になっていた。ゆくゆくは結婚もあるだろうし、学があるのはいいことだ」


と言う。


賛成の意見が聞けて嬉しくなる。


「のう? あのかわゆい制服を着せてやりたのだ」


「ただ、青藍女学院は確か、宮妃の方も理事をされている。簡単に潜り込めない。折り目正しい氏素性が要る。金だけ払えばいいというものではないんだ」


「では、どうする?」


「養子にするというのが一番だな。法的に本当の親になるんだ。姫にその覚悟はあるのか?」


今ひとつぴんと来ないが、これまでも親のようなものだった。何が違うのかわからない。うなずいた。


「わかった。『武器屋』を通じて弁護士と話をさせよう。遊女に売るくらいだから、金で転ぶ親ならいいが…。どんな親か聞いていないか?」


「よく知らぬが、小藩の藩士と聞いた。その娘だ」


「ふうん。『武器屋』と言うだけあって、武家ぞろいか。大したもんだ。潮目の変わる前なら、おちょぼ様だ。俺なんか口も聞けない」


「武家だけではない。公家の花魁もいたぞ。出自はいいが、手癖の悪い腐れ姫だ。人間、ああは落ちたくない」


「同族嫌悪か」


柊理はちょっと笑う。無礼なことを言われた気がしたが見逃してやった。彼のわかりがよくて、易く話が進んだ。機嫌がいい。


「柊理、そなたはよい男だな。男前なだけでなく頼りがいもあると、前々から思っていたのだ」


「けっ、調子がいいな」


「世辞ではないぞ。さすが麒麟の憑く男は度量が海のようだと、見直していた」


「海のようだが聞いて呆れる。亭主口説いてどうするつもりだ」


彼の手がわたしの脇をちょっとくすぐった。


「何をする」


やや身をよじった時気づいた。


「柊理、そなた…」


「何だ?」


「さっきから、こうなのか? そなたの…、その…」


「ずっと姫の白い腿に挟まれてるんだ。男なら勃って当たり前だろ」


涼しい顔をして何を言うのか。


驚いて、柊理の身体から下りた。


ちょっと気まずくなった。目を逸らし、立ち上がりかけた。部屋に戻ろうと思った。


「まあ、そういうことだ。おちょぼのことはよしなにな」


身を起こした彼の浴衣の前がはだけた。見るつもりはなかったが目に入った。思わず手が伸び、胸元を大きく開いて見た。


腕にあったのと同じ引っかき傷だ。それが胸にもついている。


「どうしたのだ、それは。腕と同じ傷ではないか」


彼はもう隠さなかった。指先でなぞるようにし、


「例の紋様だ。俺にも出始めた」


とつぶやいた。


「え」


紋様は麒麟が痩せ、その影響で身近な人を病にする印だという。母親代わりだった女性とおじい様の身体に現れた。目にした柊理は「気味のいいもんじゃない」と言っていた。その後、二人とも命を落としている。


顔を近づけてよく見た。引っかき傷に見えたが、線が螺旋を描いていた。さらに、その線は小さな輪が連なって出来た鎖だった。緻密な線描画が、赤く鮮やかに肌に浮き出ていた。


奇妙な図案だと思った。不気味さは感じない。引きしまった肌のその箇所に指で触れる。


「触るな。うつるものかもしれない」


「麒麟を持つ本人にも出るのか? 病むのは周りだけではないのか?」


「俺にもわからん」


「身体はどうなのだ? 悪くないのか?」


顔を上げて柊理の表情を見る。病んだ人の顔色ではない。わたしの知る彼だ。


「勃つくらい元気だ。何ともない。出始めたのは、もう大分前で、姫と会ってすぐの頃か」


「なぜ言わない?」


「聞いてもどうしようもないだろう」


「でも…」


柊理がわたしを抱かない理由がわかった。この紋様のせいだ。それがわたしにどう影響するのか不明で、手を出さないのだ。


「そんな顔をするのを見たくないから黙っていた」


「どんな顔だ?」


「飼い犬が弱ったのを見る顔だ」


そう言って軽く笑う。


「柊理は犬ではないぞ」


「わかってる。ほら、俺はピンシャンしている。大丈夫だ。姫はもう戻って寝ろ」


動こうとしないわたしを彼は立たせ、強引に部屋の外へ追い立てる。


「親の反応がわからない。養子の件はおちょぼには話すのはまだ早い。黙っておいてくれ」


わたしの返事も待たずに、ドアを閉めた。



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