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8.彼に思うこと

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「またアイスクリームが食べたい」


朝食の席で、昨夜から考えていたことを口にした。柊理は給仕から新聞を受け取りながら、


「食べたらいいじゃないか」


と答えた。邸には柊理が乗るのとは別の車がある。運転手もおり、それに百貨店でもホテルでも乗せて行ってもらえと言う。


『怪盗霧雨、帝都に再び現る』。その一面を眺めながら味噌汁をすする彼をにらみつけてやった。


痛い視線を感じるのか、目を上げた。わたしを見て笑う。


「俺にお供しろと言うのか?」


「それ以外何がある」


「…昼過ぎ、そうだな、二時からなら時間が取れる。会社に来てくれないか?」


「そうしよう」


何がおかしいのか、柊理はしばらく笑っていた。


時間になり、おちょぼも連れ車に乗った。柊理の会社に行くのは初めてだ。おじい様は騏驎を持つと言われた大富豪だった。その事業を総括する本社に柊理がいる。


本社というからには、さぞ立派な建物かと思ったら、大きいが古びた商家そのものだった。物置を兼ねた広い土間があり、その奥は事務机が並ぶ広間になっている。二階もあるらしく、天井がぎしぎしと鳴る。


案内する社員の背について長い廊下をついて行く。こっそりおちょぼが、


「『武器屋』みたい」


とささやいた。


確かにあの雰囲気だ。まだ『武器屋』の方は女が多く華やいでいた。ここは同じような背広を着た男たちばかりが忙しそうに机に向かっている。邸に一台の電話機が、ここには五台も備わっていた。


奥座敷に入る。書き物机に片膝を立てて向かっているのが柊理だ。雑多に見える書類に目を通していた。


「ちょっと待ってくれ。今を逃すと大損なんだ」


おちょぼと二人、畳に座った。十畳ほどの部屋の隅に布団が押しやられていた。長押に引っ掛けた彼の上着や帽子が見えた。


広大な屋敷を維持し、高価な自家用車も二台持つ。わたしをあっさり身請けした彼をおじい様と同じ大富豪だと考えていた。だからこそ、簡単にものをねだってきた。彼もそれを求めたからだ。


柊理は見かけほど裕福ではないのかもしれない。この座敷や本社の有り様に、そう感じ出した。無理をさせ続けてきたのではないかと、心が痛んだ。


ペンを放り出した彼が、襖を開け、大声で部下を呼んだ。駆けつけた男に、手の紙を渡す。


「急いでくれ。今日中に受理されれば通る」


伸びをしてから、長押の上着を取り羽織った。


「さあ、済んだ。待たせたな」


いつもの調子で言う。


「無理をしなくてもよいのだぞ。わたしは貧乏を知っている。車などなくてもよい。邸をもっと小さい借家などに替えればどうだ?」


「は?」


「ない袖は触れない。見栄を張らずともよいではないか。小汚い商家を本社にするなど、よほど金策に困っているのではないか?」


「困っていない」


「だから、体裁はよいのだ」


「姫にはここが小汚いだけの場に見えるんだろうが、俺には違って見える。立地もいいし邸からも遠くない。裏には広い駐車場もあるんだ。得難い出物だ。これから目が飛び出るほど地価が上がる。上っ面の見た目なんかどうでもいいじゃないか、用が成せれば」


「…無理はしていないのだな?」


「していない。俺が見栄っ張りなら、親父の本社はそのままにしていたさ」


おじい様が事業の拠点としていた豪華な社屋は、そっくりホテルに造り替えてしまったという。海外からの客も増え瀟洒なホテルの需要は大きいから、と彼は言う。


思い返せば、『武器屋』で出会った時も、妓楼に無駄な金は払いたくないと、口にしていた。実利的な男なのだと思う。


「しかし、ここは不用心ではないか? 新聞に載っていた例の怪盗が盗みに押し入るのでは?」


帝都に『霧雨』を名乗る怪盗が出没しているという。古びた家屋は侵入が容易く思えた。


柊理は首を振る。


「金なんかほぼ置いてない。それに、『霧雨』は美術品を専門に狙う。それこそ、堅牢なビルだって自在に盗みに入るらしい」


「ふうん」


「姫は俺が見栄を張り、無理をしてあんたに贅沢を見せていると思ったのか?」


「思った」


「さっき、嬉しいことを言ってくれたな」


「何だ?」


「貧乏な俺でもついて来てくれるのだろ?」


「柊理は柊理だからの」


そこで彼がわたしを抱きしめた。ふわりとタバコの匂いが自分を包んだかと思うと、すぐに腕が離れた。



話に出た元本社のホテルでアイスクリームを食べた。華族の館のような豪華なホテルだ。


喫茶室には異人の姿もあった。長逗留している人物と柊理は知り合いらしく、向こうの言葉で話していたから驚く。


「洋行していたのか?」


「いや、親父の知り合いの英国人が邸に滞在していた時期がある。その人物に習った」


給仕が柊理に電話がかかっていると伝えた。彼が席を立ち、しばらくして戻ってきた。大きな事業の申請が省庁に受理され、無事認可が下りたとの知らせだという。


「儲かったのか?」


「儲けが出るのはこれからだ。ただその目鼻はついた」


「おじい様の会社を守るだけではいけないのか?」


「守っているんだ。海運陸運が親父の儲けの基礎のところだが、海運は海賊や事故の損害もでかい。さらにヨーロッパに戦争の機運もあるから、これからは厳しい。逆に国内陸運に力を入れようと考えている。物を運ぶんだ」


こんなことを話す時の柊理の表情は楽しげで、仕事の充実ぶりもうかがえる。「金策に困っている」などと考えたのは見当違いのようだ。


わたしが供をさせる彼は、優れた男だ。頼もしく思えた。


柊理が側にいれば、世事に疎いわたしを上手く導いてくれて都合がいい。でも、それだけが理由ではない。洋装がよく似合い格好がいい彼と連れ立って歩くのが、わたしは楽しい。


忙しい柊理とは本社の前で別れ、わたしとおちょぼは邸へ向かう。


雨が降り出していた。車窓越しにぬれた街を眺める。


まだ彼のタバコの香りが残る。抱きしめられた腕を思い出し、あんな柊理は初めてだったと思う。


結婚したが、わたしと彼には男女の関係がない。寝室も別で、同居人にようなあり様だ。


麒麟の餌には触れてはいけないのかもしれない。おじい様もそうだった。


だから、柊理はわたしを求めないのだろうか。


帰宅してからも、何となくそのことが頭を離れない。おちょぼは子供ながら遊郭育ちだけあって、男女の交わりは心得ている。わたしと彼にその関係がないのを気づいているはずだ。


「柊理がわたしを抱こうとしない」


おちょぼは小首を傾げた。遊郭では、客が酔い潰れるなどして男女の交わりがなく済んだことを、遊女はとても喜んだ。楽ができて寝られるからだ。


彼女はそれを知っているから、ちょっと笑った。


「姉様は、抱いてほしいの?」


逆に問われ、返事が出来ない。


夫婦で交わることは遊郭のように仕事ではない。だからこそ普通なのでは、と思う。そして子が生まれる。有明の君にも香子の産んだ三歳の男の子がいる。


「わからない」


わたしは男を知らないが、相手は柊理がいいと思った。

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