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3.帰蝶
しおりを挟む返事の手紙は丸めて捨てた。
再びおびただしい数の花が届けられた。意味を感じない贈り物で、礼の手紙を書かなかった。
その後、嘲笑うかのように高司様の登楼の予定が知らされる。
また別の誰かを送って寄越すはず。会ったことのない彼の気持ちが透けて見えた。父の手垢のついた女を相続などしたくないのだ。
だから、侮蔑して遠ざける。
宵の始まりだ。外の喧騒が部屋まで流れ込んでくる。
支度を終えて、わたしは人形のように席に収まった。指に吸わないキセルを挟む。そこへ、珍しく楼主がやって来た。やや勢い込んでいる。
「夕霧、高司様がいらっしゃった」
「どうせ、またご友人でしょう?」
「いや、違う。ご本人だ。今下で、靴を脱いでいらっしゃる。くれぐれも、その…、ご満足いただけるように、その…、頼むよ」
軽くわたしへ拝んで見せた。紫に発破をかけられたのか。店の景気があまり良くないというのは本当なのかもしれない。
どれほどか後だ。襖が開いた。
すらりとした背の高い若い男が入って来る。仕立てのいい洋装の上下を着て、物珍しそうに部屋の中を歩き回る。
女中が席を促すが、自由に窓の外を眺めなどしている。
探索が終わり、男はようやく席に着いた。
「お父上様には大変ご贔屓を賜りました。花魁の夕霧にございます。よろしゅうお願い申し上げます」
初めて目が合う。おや、と思った。きれいな顔立ちの男だが、おじい様の面影がまったくない。母親似なのかもしれないが。
「…大変な美人だ。親父が惚れ抜いただけはある」
花魁は酌をしない。キセルを動かし、おちょぼへ指示を出す。小さな手で彼の盃へ酒を注いだ。
「今日はお連れ様はご一緒では?」
「いや」
柊理という男を前にして、彼が突きつけた「取り決め」が頭を離れない。泣いて嘆いた。それでもこの不遜な男に屈服して身を捧げないと、花魁として生きていけない。
花魁でいたいのか。
それしかないから。
「辛気臭い面だな。美しくても酒がまずくなる。舞え」
「花魁は舞いません。楽なら、琴か琵琶が」
「花見じゃないんだ。要らん」
おちょぼがまた酌をしようとするのを、彼は杯を伏せて拒否した。あまり酒を飲む人ではないようだ。おじい様は酒豪と言っていい人で、わたしと話しながらよく飲んだ。
和やかだった記憶と今が違い、心が重い。気づかれぬようにため息をもらす。
「子供は邪魔だな」
席に控えるおちょぼのことだ。声に彼女がわたしを見た。うなずいて返す。いつまでもおちょぼを側に置いていられる状況ではない。
彼女はわたしの打ち掛けを取り、帯を解いてから下がった。いつでも寝所に向かえる姿だ。
二人きりになり、静かなだけ外の騒がしさが浮き立って耳に届く。
「俺の手紙は読んだか?」
「はい」
「どう思った?」
花魁の意見など望まないくせに。のむしかないと知っていてこんなことを聞く。気持ちを踏みつける卑劣な問いかけだ。
「ぬし様がそれをお求めになるのでしたら…」
満点のはずの言葉を返すと、なぜか男は笑った。
「返事と裏腹にきつい目でにらむ。返事がないので肩すかしだと思ったが、親父に聞いていた通りの気位の高い女だな」
「そんな姫を金で買えるのが、『武器屋』の面白いところでございましょう」
「そうだな」
男は立ち、わたしの手を取った。奥の襖を開けると、そこは寝所になっていて、既に床入りの用意がなされている。そもそもが、『武器屋』はそのための場所だ。
嫌だ。
嫌だ。
布団に押し倒され、襦袢の膝が割れた。脚があらわになる。男に組み伏せられ、タバコの匂いのする息を感じたとき、心の声があふれ出た。
「嫌だ!」
胸の合わせ目を開く男の手が止まった。
涙で視界がぼやけ、男の表情も定かではない。
「下がれ。下郎!」
怒りや悲しみ、羞恥。雑多な感情が混じり合い、混乱していた。男に向けた言葉は、花魁ではないわたしの声だ。姫だった、帰蝶だった頃のわたしの声だ。
時が止まったように感じた。
「あんた、…まさか生娘か?」
「何がいけない?」
「おいおい…」
男はそうつぶやき、わたしの上から下りた。横に仰向けに寝転がる。
わたしは起き上がり、裾と胸元を直した。涙を指でぬぐう。
「親父はあんたに手を出さなかったのか? あんなに金を注ぎ込んでおいて」
「おじい様は高潔な方だった。わたしを助けるためにそうして下さったのだ」
今ならわかる。おじい様はわたしを今まで姫のままいさせてくれた。邸でなくとも、かしずかれていなくても。この『武器屋』の中で、一人だけわたしは姫だった。
男は額に手をやる。
「親父と親子丼ずぶずぶは、気味が悪くてぞっとしない。ここへ通うのは止めようと思っていたんだ。一回味見すりゃ十分だ」
「味見?!」
「あんたは知らんだろうが、ここへの支払いは相当なもんだ。親父の趣味に口を出すのも不粋だ。元気なうちはいいと目をつむっていた」
高司家は華族であり大富豪と誉れも高い。その跡取りが金のことを言うのが不思議だった。
「ぬしは当主だろう。吝嗇ではないか」
「馬鹿を言っちゃいけない。俺に意味のない妓楼に年にビルが建つほどの金を使えるか」
男は起き上がり、胸のポケットからタバコを取り出した。勝手に火をつけ紫煙を吐き出した。
灯火に照らされた男の横顔は端正で、この男なら女は放っておかないだろうと思えた。紫が言っていた「新時代」の今、古びた遊郭遊びなど、地位も金もある若い男には魅力的に映らないのかもしれない。
それで「一回味見」をしてお終いにしようとしたのか。
「親父の遺言もある」
「おじい様は何と?」
「あんたの面倒を見てやれと。苦労をさせるなと」
唇を噛んだ。涙があふれそうになる。実の親にもそこまで気にかけてもらえなかった。父君の最期には、おそらくわたしのことなど念頭になかったように思う。
「あんたを身請けしたい」
「え」
「年季ごとの支払いより、身請けした方が安上がりだと気づいた」
身請けは花魁から引退し、誰かの所有になることだ。その際に身請けする側は、莫大な金額を店に支払う決まりだ。
不思議と心が弾まなかった。遊郭を出られるのに。花魁から降りられるのに。
今の小さな檻から、新たな檻に移るだけのことに思えた。
新たな檻には、男が手紙で知らせたあの取り決めが適用される。欲望に隷属し、今度はこの男だけの花魁になること。
黙ったままのわたしの前に、男が頭を下げた。
「手紙の件はすまなかった。そんな気はない。いい金ずるにされているのが業腹で、ちょっとしたいたずらだ。俺ははなから親子丼は御免だ」
「味見をする気でいたではないか」
「一回くらいはいいだろ。高い金を払うんだ」
「…その気がないのなら、ぬしはわたしを身請けをしてどうする?」
「放してやろうと思った」
え。
男は枕元の盆に手を伸ばした。灰皿を取り、そこに長くなったタバコの灰を落とした。
住まいも年金も用意する。自由をくれると言った。
知らず、手が男の上着に触れた。指がぎゅっとそれをつかむ。
外に出られる。
外の何も知らないが、出たいと思う。
何があるのかを知りたい。
「だが、あんたが生娘なら話が違う」
「え」
ぷちん。
目の前できれいなシャボン玉が割れたように感じた。儚い夢がそこで消える。
「なぜだ? 生娘ではどうしていけない?」
男はわたしをじっと見つめた。瞳が少し青味がかり、灰色にも見える。これもおじいさまとは違う。
「麒麟を知っているか? 噂くらい聞くだろう」
話の向きが変わり、驚く。
「おじい様がそうだったというのは聞いた」
時の潮目の変化で前の時代が没し、次の時代が始まる。その時に同時に麒麟も生まれる。神の化身で吉兆そのもの。人に憑き、幸運を呼び込むとされる。それを「麒麟を持つ」などと言い、時の寵児を指す。
実際歴史上名をなした人々は、すべて麒麟を持っていたと言われるほどだ。おじいさまも一代で巨万の財を成した偉人で、その成功を羨んで人はそう噂した。
「親父は麒麟を持っていなかった」
「え」
「麒麟の色を見ることができただけだ。麒麟を持つ者には色がある。それを親父は見分けることが出来た。本当に麒麟を持っているのは俺だ。だから俺を拾って養子に据えた」
「拾って?」
「俺と親父とは血がつながらない。俺の色を見て、奇貨とばかりに拾って来て、自分の子にしたんだ」
「ぬしは捨て子か?」
「村の厄介者だった記憶はある。まだ三歳頃の話だがな。だからか、八千石のお姫様は、正直俺にはまぶしい」
「まぶしいものか。金で買える花魁ではないか…」
そこで、自分がずっと男に地声で話していることに気づく。太客で金主。許される無礼ではない。頭を下げようとしたわたしを男が止めた。
「止めよう。俺は元は捨て子だ。そのままでいてくれ」
「…よいのか?」
「ああ。そっちが俺には面白い」
ともかく、おじい様が著しい立身を遂げ出したのは、男を拾ってからのことという。麒麟は近しい者にも幸福の影響を及ぼす。
「俺に憑いた麒麟の色が陰り出した。親父は「麒麟が痩せてきた」と言っていた。そうなると、霊力も痩せてくるらしい。仕事もそっちのけで、異国にも渡って研究していた。親父こそが、麒麟に憑かれているように見えた」
「治しようがあるのか?」
「ある、らしい。食わせるんだ、餌を」
億年万年と無限に生きる神獣も、人々に幸運を注ぎ続け弱ることもある。幸運を邪に利用され続けると麒麟は病むという。
何となく男を見た。
タバコを灰皿に押しつけた男は、顔の前で手を振った。
「その頃はまだ俺は子供だ。麒麟は一人の人間が死ぬまで憑く。死ねば、次に行く。累々たまった澱なのだろうと、親父が言っていた」
「そうなのか」
「麒麟が見分けられるのなら、その好む餌も見分けることが出来る理屈だ。そこで、親父はあんたを見つけ出した」
「え」
五年に渡り大金をかけ愛で続けた。盗られぬよう、さらわれぬように『武器屋』の檻に閉じ込めた。
「知った人に似ている」などと言われたことがある。けれども望外の待遇だった。
「手を出さなかったのは、麒麟に食わせるためだ。それ以外ない」
それで、男はわたしが生娘だということに驚いていたのか。
話はわかった。理解を超えるものもあるが、納得はできた。
「麒麟に食わせるとはどういうことだ?」
「正確には聞いていない。親父も確かなところは分からなかったのじゃないか。ただ、つがいがどうのとは言っていた」
「つがいとは何のことだ?」
そこで男は目を逸らした。
「申せ」
わたしの声に舌打ちする。
その仕草が嫌だった。そのままでいいと言ったくせに。侮られているようで不快だ。
しばらく時が過ぎた。
男が顔を戻した。ややにらむように言う。
「男女のつがいだ。姫にもわかるだろ。夫婦になることだ。そうしないと俺の麒麟が痩せ細る」
と、すっと男が立ち上がった。帰るようだ。寝所を抜け、表の座敷へ行く。
横顔だけこちらへ向け、背中で言う。わたしは寝所の床に座ったままだ。
「後日迎えをやる。邸に来てくれ」
「妻にするというのか?」
「これでも華族だ。不足はないだろ。外を見せてやる」
この男はわたしの望むものを知っているようだった。
返事が遅れた。
「わかったな?」
「側室なら行かない」
「正妻だ」
「ぬしは…」
男が身を翻した。
「名前を呼んでくれ。柊理だ」
「柊理」
「あんたは?」
「夕霧だ」
「源氏名じゃない。本当の名だ」
「帰蝶」
男は目を細めた。「帰蝶」と小さくつぶやいている。
「姫らしい。あんたに似合いの名だな」
柊理は去って行った。
部屋に彼のタバコの香りがふんわり残った。
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