42 / 45
42、嬉しさを抱えて、彼と手をつなぐ
しおりを挟む
翌日、エマはダイアナに宛てて書いた手紙を手に、村へ向かっていた。アシェルの容体が快方に向かったことを記し、取り急ぎ出したものの追記だ。
レオとの件を補足した手紙だ。彼の叔父のことは外聞を憚る。姉への手紙でも躊躇された。以前この地を急に立った要因としてのみに抑え、あまり触れずにおいた。
(誤解のないよう、直接話したいもの)
ダイアナは結婚式をこの地で執り行う予定だ。前もって、そのために姉は帰宅する。令嬢として館で過ごす最後の時間、式の準備を行うためだ。
ゆっくり話し合う時間はあるとエマは考えていた。
通い慣れた道を歩く。馴染んだのどかな光景が、これまでとは色合いを変えたように思えた。何が違うのか、探してみる。
下生えの気配も空の色も、遠くなだらかに続く丘陵も。幼い頃から見続けて来た同じものでしかない。単純に、心の持ちようだと気づき、苦笑した。
少し前までは、ふんわり香る果樹園の甘い匂いさえもなぜか空疎に思えたのに。
(今は何もかも、少しばかり輝いて感じる)
ふと笑みも浮かぶ。
(わたし、嬉しいのだわ)
心が跳ねて、緩い坂でつい走りたくなった。彼女のちょっとした癖でもある。小走りに行くと、背後から馬が駆けて来る。
すぐに距離が縮まり、振り返ると手綱を握るのはレオだった。
彼女の側で止まる。はらりと鞍から下りた。
「君はいつも走るね」
妙なところを見られたと、彼女は頬を押さえた。年頃の令嬢でそう走る者はない。
「僕の祖母もよく走る」
「え」
急に飛び出した彼の祖母の話に、彼女は驚いた。昨夜、バート氏を含め、盛り上がった話題だったからだ。
(決して悪口ではなかったけれど…。レオにはとても聞かせられない話だったわ)
「歳だからね、転ばないのかと注意しても止めない。君たちは裾の長いものを着て、なぜ走るの?」
「そうなさりたいのよ。何となく…」
彼は彼女を乗馬に誘った。彼女の返事を待つより早く自ら再び騎馬して、彼女へ手を伸べた。伸ばした彼女の手を強く引き上げる。
腕に抱くようにしてそのまま走り出す。
「落ちるよ。そんな風じゃ」
エマは出来るだけ彼から身を引いた姿勢でいた。
「だって…、見る人がいるかも…」
男女がぴったりと抱き合い馬に乗る姿はきっと目を引く。尋常な距離を空けなければ、ふしだらに見られてしまう。以前、雨の中彼にしがみついていられたのは、視界の淡い土砂降りの雨のお陰だ。
引き寄せるように、彼が強く彼女を腕に抱いた。
「もういいじゃないか、そんなの」
彼の言葉や仕草に抗えなかったのは、揺れる馬上の高みのためだけではない。思われているのも求められているのも知る、その嬉しさからも強くある。
誰かのそばだてる視線を気にする普段の理性が揺らぐ。それでも彼の身体に腕を回すのは躊躇われ、胸にもたれるのに留めた。
いつか二人で訪れた湖の畔に来た。馬を下り、手をつないで歩く。湖面を渡った冷たい風が静かに吹いてエマの髪を揺らした。レオがその髪に指を絡めて言う。
「寒いのではないか? そろそろ送るよ」
この時間の終わりが惜しい気がしたが、彼女は頷く。
再び馬に乗り、ほどなく館に着いた。エマを下ろした彼が、母に頼みがあると言った。
「ハミルトン氏へ紹介状を書いていただけないだろうか。シュタットからの帰路で、ご挨拶をしたい。我が家のことで、僕からぜひ説明させてもらいたいこともあるから」
エマは驚いたが、母にレオの頼みを告げた。母も意外そうに彼を見たが、紹介状はすぐに書いた。彼を礼を言って胸に収め、アシェルを見舞った後で辞去を告げる。
レオのハミルトン氏への事情の釈明の意図は、聞かずとも読めた。ダイアナとの結婚への配慮の他、エマとの交流は絶やさないで欲しいとの願いだ。
「母上からご説明下さるのもありがたいが、僕の問題だから、自分で話すのが筋だと思う。その方が心象もいいだろうから」
「世間にへりくだる必要はありませんからね。あまりその頭を下げないで頂戴ね。お願いよ」
「お気遣いは嬉しい。ありがとうございます」
エマは馬を引いた彼を門のところまで見送る。
「フィッツは良い方よ。ウォルシャー家のご事情はよくわかって下さるわ」
「だといいね。…君に絡むことで出来る限り火の粉は払っておきたい」
見つめる視線の強さと言葉の重さに、エマは涙ぐんだ。感謝と感激が混じり合ってふと彼の手を取った。
若い気楽な紳士として出会った彼だった。素敵な容姿だけでなく、軽やかさと気取らない態度も彼女へ強く印象づけた。
(でも、そうじゃない)
名家の当主としての重責を担う頼もしい強い男性でもある。
「好き。あなたが好き」
告白に、彼が口元を綻ばせた。彼女の手を握る。指先が結ばれたその時、聞き覚えのある音が遮った。馬車の音だ。
レオとの件を補足した手紙だ。彼の叔父のことは外聞を憚る。姉への手紙でも躊躇された。以前この地を急に立った要因としてのみに抑え、あまり触れずにおいた。
(誤解のないよう、直接話したいもの)
ダイアナは結婚式をこの地で執り行う予定だ。前もって、そのために姉は帰宅する。令嬢として館で過ごす最後の時間、式の準備を行うためだ。
ゆっくり話し合う時間はあるとエマは考えていた。
通い慣れた道を歩く。馴染んだのどかな光景が、これまでとは色合いを変えたように思えた。何が違うのか、探してみる。
下生えの気配も空の色も、遠くなだらかに続く丘陵も。幼い頃から見続けて来た同じものでしかない。単純に、心の持ちようだと気づき、苦笑した。
少し前までは、ふんわり香る果樹園の甘い匂いさえもなぜか空疎に思えたのに。
(今は何もかも、少しばかり輝いて感じる)
ふと笑みも浮かぶ。
(わたし、嬉しいのだわ)
心が跳ねて、緩い坂でつい走りたくなった。彼女のちょっとした癖でもある。小走りに行くと、背後から馬が駆けて来る。
すぐに距離が縮まり、振り返ると手綱を握るのはレオだった。
彼女の側で止まる。はらりと鞍から下りた。
「君はいつも走るね」
妙なところを見られたと、彼女は頬を押さえた。年頃の令嬢でそう走る者はない。
「僕の祖母もよく走る」
「え」
急に飛び出した彼の祖母の話に、彼女は驚いた。昨夜、バート氏を含め、盛り上がった話題だったからだ。
(決して悪口ではなかったけれど…。レオにはとても聞かせられない話だったわ)
「歳だからね、転ばないのかと注意しても止めない。君たちは裾の長いものを着て、なぜ走るの?」
「そうなさりたいのよ。何となく…」
彼は彼女を乗馬に誘った。彼女の返事を待つより早く自ら再び騎馬して、彼女へ手を伸べた。伸ばした彼女の手を強く引き上げる。
腕に抱くようにしてそのまま走り出す。
「落ちるよ。そんな風じゃ」
エマは出来るだけ彼から身を引いた姿勢でいた。
「だって…、見る人がいるかも…」
男女がぴったりと抱き合い馬に乗る姿はきっと目を引く。尋常な距離を空けなければ、ふしだらに見られてしまう。以前、雨の中彼にしがみついていられたのは、視界の淡い土砂降りの雨のお陰だ。
引き寄せるように、彼が強く彼女を腕に抱いた。
「もういいじゃないか、そんなの」
彼の言葉や仕草に抗えなかったのは、揺れる馬上の高みのためだけではない。思われているのも求められているのも知る、その嬉しさからも強くある。
誰かのそばだてる視線を気にする普段の理性が揺らぐ。それでも彼の身体に腕を回すのは躊躇われ、胸にもたれるのに留めた。
いつか二人で訪れた湖の畔に来た。馬を下り、手をつないで歩く。湖面を渡った冷たい風が静かに吹いてエマの髪を揺らした。レオがその髪に指を絡めて言う。
「寒いのではないか? そろそろ送るよ」
この時間の終わりが惜しい気がしたが、彼女は頷く。
再び馬に乗り、ほどなく館に着いた。エマを下ろした彼が、母に頼みがあると言った。
「ハミルトン氏へ紹介状を書いていただけないだろうか。シュタットからの帰路で、ご挨拶をしたい。我が家のことで、僕からぜひ説明させてもらいたいこともあるから」
エマは驚いたが、母にレオの頼みを告げた。母も意外そうに彼を見たが、紹介状はすぐに書いた。彼を礼を言って胸に収め、アシェルを見舞った後で辞去を告げる。
レオのハミルトン氏への事情の釈明の意図は、聞かずとも読めた。ダイアナとの結婚への配慮の他、エマとの交流は絶やさないで欲しいとの願いだ。
「母上からご説明下さるのもありがたいが、僕の問題だから、自分で話すのが筋だと思う。その方が心象もいいだろうから」
「世間にへりくだる必要はありませんからね。あまりその頭を下げないで頂戴ね。お願いよ」
「お気遣いは嬉しい。ありがとうございます」
エマは馬を引いた彼を門のところまで見送る。
「フィッツは良い方よ。ウォルシャー家のご事情はよくわかって下さるわ」
「だといいね。…君に絡むことで出来る限り火の粉は払っておきたい」
見つめる視線の強さと言葉の重さに、エマは涙ぐんだ。感謝と感激が混じり合ってふと彼の手を取った。
若い気楽な紳士として出会った彼だった。素敵な容姿だけでなく、軽やかさと気取らない態度も彼女へ強く印象づけた。
(でも、そうじゃない)
名家の当主としての重責を担う頼もしい強い男性でもある。
「好き。あなたが好き」
告白に、彼が口元を綻ばせた。彼女の手を握る。指先が結ばれたその時、聞き覚えのある音が遮った。馬車の音だ。
12
お気に入りに追加
588
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
【短編完結】地味眼鏡令嬢はとっても普通にざまぁする。
鏑木 うりこ
恋愛
クリスティア・ノッカー!お前のようなブスは侯爵家に相応しくない!お前との婚約は破棄させてもらう!
茶色の長い髪をお下げに編んだ私、クリスティアは瓶底メガネをクイっと上げて了承致しました。
ええ、良いですよ。ただ、私の物は私の物。そこら辺はきちんとさせていただきますね?
(´・ω・`)普通……。
でも書いたから見てくれたらとても嬉しいです。次はもっと特徴だしたの書きたいです。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@12/27電子書籍配信
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる