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10、もう一人の恋

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挨拶の返礼として、エマたちはウェリントン領地のバート氏を訪ねた。

 いちご狩りのジャムで焼いたケーキを持参した。バート氏の言葉通り、姪の遊び相手としてアシェルも伴った。

 外観は古びた邸だったが、入居前に手を入れさせ、美しく整っていた。庭を眺める露台に席を設えてくれ、そこに座った。

 長く海の生活を過ごし、提督の地位まで登った人物だ。威厳ある風貌にエマたちはややたじろいだが、会話が始まれば優しい人柄が知れた。母の持った印象と同じだ。

 姪のエヴィも愛らしく活発な少女だった。お菓子を食べるまでは緊張していたアシェルも、エヴィに誘われてすぐに庭園の探検に出かけた。

「いい友達が出来た。頻繁に遊びにいらして欲しい。ミス・ハンナだけでは子供には物足りない」

 このミス・ハンナというのが、少女の世話係を兼ねた家庭教師の女性で、エマの当ては外れてしまう。

(そんなに上手くは運ばないわね)

 家庭教師の口が消え落胆したが、そう大きなものではなかった。特に家庭教師に固執していたのではなく、日々の変化を求めた思いが強い。

 また、ダイアナほどピアノや歌に長けている訳ではない。仮にミス・ハンナがいなくても、彼女では技量不足であったかもしれない。

「海が長く、退役したのちはのどかな土地で暮らしたいと願ってきました。こちらは穏やかで理想的だと、軽く見ただけですぐに購入を決めてしまった。後悔はないですよ」

「静かなだけが取り柄ですわ。賑やかさが恋しく思われるかも」

「お若い方には刺激もいいが、歳を重ねれば、静けさでもう十分。幸福への感度も違ってくるのですよ」

「港から離れてしまって、お寂しくはないですか? なじまれた海が眺められない場所ですもの」

 バート氏は首を振る。軽く笑い、

「三百六十度青なのも、揺れる地面も飽き飽きです。潮風から遠ければ遠いほどありがたい。…海軍を自ら退いたのも、健康なうちにとのことです。幾ら財を作っても身を壊してしまっては、余生が楽しめない」

「知人に脚を傷めて軍を辞められた方がいます。立派にお役を務められて、杖が必要なのは痛ましい気がします」

そう話したダイアナの横顔をエマは見つめた。誰のことを口にしたのだろう。共通の知人ではないのはわかる。彼女は身近に軍歴のある人物を知らない。

「ほう、海軍の人ですか? そのお知り合いは」

「いえ、陸軍の巡視兵団におられたそうです」

「そうですか。戦争の機運も遠く、防衛のみとはいえ、軍であるから小競り合いも事故もある。海も陸も変わりません」

 バート氏が噴水の水で遊ぶエヴィを指した。

「姪の父親、わたしの弟ですが、海軍士官をやっています。船の寄港の折りにはこちらに来るので、ぜひご紹介させてもらいたい。小さな会を催します」

「ええ、喜んで」

「母も喜びます」

 バート氏の邸を辞した。

「お母様の言うように、優しそうな方ね。いい方が近くの領地に入って良かったわね。エマには家庭教師の件では残念だったけれど」

「ううん。簡単に言っていたけれど、わたしにはお給金をいただくほどの家庭教師は出来ないと思うわ。だから、いいの」

「そんなことないわ。絵もわたしよりずっと上手じゃない」

 先を駆けて行くアシェルに目をやりながら、エマがダイアナに尋ねる。

「バートさんに話した陸軍の方って、どなた?」

「ああ、あれは…」

 姉が少し口ごもった。しばらくの後で答える。

「ハミルトンさんのことよ。お若い頃に陸軍に入っていらっしゃったのですって」

「軍で脚を悪くされたの?」

「ええ、訓練時の事故だそうよ。今も杖を使われるの」

「そう」

「駆けたりはなさらないけれど、普通に歩いて、騎馬もお出来になるわ。ジュリアとアメリアを一緒に抱き上げたりもなさるのよ。軍にいらした方って、身体が丈夫で逞しいわ」

 はにかんだ表情を見せて語る。その様子に、エマは以前見た葉書のことがつながって浮かぶ。ジュリアの手紙に紛れていたそれが床に落ち、姉はすぐに隠してしまった。

 ふと、

(あれはハミルトンさんからのものでは?)

 そんなことを思った。世間では、独身の男女間での手紙のやり取りは不適切とされる。渡すなら、直接でしかない。しかし、娘のそれに紛れ込ませれば、誰の目に触れることもなくダイアナに届く。

 ちょっとした時候の葉書かもしれない。事務的な連絡かも。

(でもそれなら、あんなにすぐに隠したりしないのでは?)

 彼女にはどうしても不審だった。

 例えば、もし仮にレオからの手紙をあんな形で受け取ったとしたら、自分もきっと姉と同じように母の目から隠す。
 その気持ちが辿れるから、やはり、葉書はハミルトン氏からのものに思えてならなかった。

「ねえ、ハミルトンさんってどんな方? 奥様を亡くされたご親切な方とは聞いているけれど」

「良い方よ」

「お歳は?」

「三十三歳とうかがったわ。肩書きやお立場の責任感もあって、お歳より落ち着いた雰囲気よ」

「再婚はなさらないの? 裕福な紳士でいらっしゃるのに」

「さあ、どうかしらね。お嬢さん方が気に入った人ではないと、とおっしゃるのを聞いたことがあるわ」

「あら、ならダイアナは条件にぴったりね」

 姉は首を振る。エマの目にはやや狼狽えているようにも見えた。

「言いたくないのなら、これ以上は聞かないけれど、前にジュリアさんから来た手紙の中に、葉書が入っていたのが見えたの。あれは誰から?」

「あなたに隠すつもりはないのよ。ただ、あの時は驚いたから……」

 ボンネットの下の頬が、赤く染まった。それを指で抑えるようにし、ぽつりと名を付け足した。

「ハミルトンさんからよ」

「お優しいわね、気遣って下さったのではない?」

「ええ。実家でゆっくり休養して欲しいとあったわ」

 そんな葉書をわざわざ娘の手紙に忍ばせて送るなど、ダイアナへの儀礼を超えた好意が感じられた。

 姉の側も意味深に葉書を隠し、そのことを頰を染めて話す。彼の気持ちを意識していない訳がないだろう。

 今に始まったことではなく、これまでも彼からの好意の印をダイアナは受けているに違いない。

(ダイアナなら、誰だって好きになるわ)

 遠くない将来、姉がハミルトン氏に嫁ぐことになったとする。家には自分が残り、歳を重ねていく。

 二人の娘の一人が良縁をつかめれば、御の字だろう。縁に恵まれないもう片方のことも、母は落胆せず納得してくれるのではないか。

(里帰りしたダイアナの子供たちの面倒を見る将来も、決して悪くないわ)
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