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3、瞳にとらわれて

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レオの教えのおかげで、アシェルは小馬に乗ることを覚えた。最初の日は怯えていた彼も、数を重ねて、怖さも薄れたようだった。

 そのアシェルは今、スタイルズの館の庭で、近所の子と遊んでいる。館の西の部屋から母の声がした。メイドと村への慰問品の相談をしているようだった。

 エマの側には木に背を預けてレオが座り、曲げた脚を台に、手紙を書いていた。風に髪が揺れている。

 母の招待でお茶に現れた彼が、その後で彼女に便箋を欲しいと言った。手紙を書くから、と。それを手に、彼は外に出ようと彼女を誘った。気持ちのいい午後で、室内にで過ごすより、外の方が風が心地いい。

 書きにくいだろうと見るが、慣れているようだ。器用にペンを走らせている。

(誰に宛ててのものかしら?)

 そんな好奇心は働くが、問うのはためらった。自分がそこまで彼の私的な部分に立ち入っていいのかわからない。

 それでも気にはなる。アシェルの姿を時折り目で追うように、便箋にちらりと目が向いてしまう。

 そんな時、ふと彼と目が合った。のぞいていたように思われては、と彼女はすぐに目を逸らした。

「祖母にだよ。邸を空けている時は、まめに出さないとうるさい」

「そう」

「誰だと思った?」

 彼女は垂らした髪が頬をくすぐるのを指でかきやり、小首を傾げた。

「何だ、疑ってくれないんだ」

「え」

 言葉に驚いて、彼女は彼へ目を戻した。視線が合うが、彼はすぐに手紙へ目を落とし、筆を走らせている。

(どういう意味?)

 投げられた言葉の意図が読めず、気持ちばかりが波立った。その大きな揺れが収まるのを待って、彼女は思った。

(慣れているのだわ)

 領地の閑散期には社交で出かけることもきっと多い人だ。訪れた先々で、女性にだって出会う。

(わたしみたいに)

 その都度、いい意味での気まぐれと親切で親しくなる女性だって多いはず。その滞在期間の限られた間柄だ。その時だけの、深入りしない後腐れのない交際をいつも楽しんできたのだろう。

 今頃そのことに気づき、彼女は自分を叱りつけたいほどだった。親切も優しさも、彼にとってはその場を楽しむための遊びに過ぎない。

 特別なもののように感じ、いそいそと心を浮き立たせていた自分が恨めしい。嬉々としてダイアナに書いた手紙を、破り捨てたいほどだった。

(もうきっと読んでしまっているわ)

 惨めな思いに心は沈んだ。

 世間知らずな自分を恥ずかしく思った。突飛だが、外を知り女性として大人になるために、ダイアナのように家を出て、どこかで家庭教師を務めた方がいいのかもしれない。

 自虐的な気分で、俯いて唇を噛んだ。

 そこへ、声が流れてくる。

「前にも知らせたように、ボウマン家の人々は親切です。もう数週滞在を延ばせば、大学時代の友人のグレアム達もやって来るそうです。お祖母さんはあいつを好きでしたよね。食べ物の好き嫌いをしないと。こちらは気候が良く、僕は至極壮健です。酒も過ごさず、高額の賭け事もしていません…」

 彼女が見ると、彼は書いた手紙を読み上げている。

 ちょっと咳払いをした。続きを読む。

「…ある人と出会いました。ぜひ、邸に招待したいと考えています。お祖母さんに紹介したい。まだ、本人の承諾をもらっていませんが。彼女には幼い弟がいて、面倒をよく見て可愛がっています。そのアシェルと僕は親しくなりました」

 そこまでを聞き、彼が自分のことを言っているのだと気づく。

(お邸に招待? お祖母様に紹介したいだなんて)

 手紙をのぞくため、彼女は彼の方へ身を寄せた。本当に書いているのか、信じられなかった。すると、彼が手紙を彼女へ見せるように差し出した。

「読んでいいよ」

「いいわ」

「のぞこうとしたくせ」

 笑いながら言う。

「驚いたのだもの」

「いいよ、読んで」

 彼女に手渡した手紙には、読み上げたその先があった。彼女が優しい控え目な女性であること。穏やかで善良な家庭に育った人であること。祖母だけでなく、彼の妹のメリルも好きになるはずだとあった。

(可憐な美しい人、だなんて…)

 感情を揺すぶられ、頰が熱くなった。折りたたんでそれを返しながら、

(これを本当に出すのかしら?)

 浮き立つ思いを抑えるように、敢えて邪推してみた。どこででも、同じことをしているのかもしれない。

(レオにとっては、嘘も悪意もなく。いざ出そうと封をするときには、思いが変わり、相手へ届くことはない)

 好意を寄せてくれる彼へ疑心を抱くことは嫌らしいかもしれない。けれど自惚れた馬鹿な自分でいたくない。

「いつもこういうことをなさるの? あちこちの土地で」

「え」

 強い視線を感じた。瞳の強さに、彼女の言葉が機嫌を損ねてしまったのがわかる。

「ひどいことを言うね」

 彼は立ち上がり、

「失礼した方がいいようだ」

 と硬い声で告げた。その声の冷たさは、初めてボウマンの邸であった彼を思わせた。

 気圧されて、立ち上がるのが遅れた。

「見送りはいい」

 以前までなら、彼女はアシェルと共に門まで彼を見送った。スタイルズの館はそう敷地も広くない。その小道を、彼はアシェルを肩車などし、喜ばせてくれた。

 呆然と離れていく背を目で追う。

 胸の中が焦りと悔いで、痛むほど騒がしい。取り返しのつかないことをしたのでは、と泣き出しそうになる。

 彼のあの態度は、傷ついたそれだった。怒りも感じた。

 自惚れて間違いを犯したくないと、そればかりを思った。彼の好意を警戒して、手ひどいやり方で拒絶した。

(断りようなら、他にもあろうに。あれでは侮辱だわ。まるで軽薄な女たらしかのように)

 アシェルがエマの元へ駆けて来た。

「レオは?」

 姉と一緒にいた彼の存在が消え、不審なのだ。

「帰ったの。お急ぎみたいよ」

 アシェルは悲しげに顔を歪めた。それすらも自分を責めるように感じ、エマはいたたまれない。

 落ちた視線の先に場にそぐわないものを見つけた。レオの上着だった。彼女が地面に腰を下ろす際に敷いてくれた。

 彼女はそれを手に取り、アシェルへ告げた。

「中に入って、お母様にエマは少しだけ出かけると伝えて。お願い」

 弟が頷くのを待って、彼女は上着を手に駆け出した。

 門を出て、ボウマンの邸の方へ足を向ける。だらだら続く草原をどれほど駆けたか。息が切れ、転びかけた。終いには足にまとわりつく裾を手につまみ、走った。

 途中ロバを連れた村人と行き交った。紳士を見なかったかと尋ねた。

「小川の方に行かれたのを見ました」

「ありがとう」

 小川は村外れにある。そちらに向かいエマは走る。ようやく見覚えのある背を見つけた。追いついた頃には息が上がり、立っているのも辛いほどだった。

 レオはせせらぎに向かい立っていた。彼女の姿に驚いた表情を見せた。

「これ……、忘れて……」

 それだけを告げ、彼女はしゃがみ込んだ。心臓がばくばくと忙しい。

「これを届けに?」

 声を出す余裕はまだない。エマは頷いて返事に代えた。その彼女に視線を合わせるように、彼も膝を折って屈んだ。

「大丈夫? 顔が赤い」

「…走った……から…」

 レオは彼女の手の上着を取り、地面に敷いた。そこに彼女を座らせる。それから小川の方に行き、水流に手を入れるのが見えた。

 戻って来た彼は、手のハンカチを彼女の頬に当てがってくれた。水に湿らせてあり、ひんやりと冷たい。その後で、レオは彼女の隣に後ろ手をついて座った。

 ほどなく、鼓動の激しさが収まった。

「さっきはごめんなさい。よく考えず、とても失礼なことを言ってしまったわ」

 彼は前を見たままだ。その横顔を見つめる。

「お怒りよね。当然だわ、本当にごめんなさい」

「…君には、僕がそういう男に見えたのだろう」

 彼女は唇を噛んだ。首を振る。

(そうじゃない)

 彼の親切がある時あっさりと引っ込められたら、真に受けた自分は馬鹿を見る。恥をかきたくなかった。

(オリヴィアは、そんなわたしを「ほら見たことか」ときっと嘲笑うわ)

 そして、それだけではない。そうなった自分は、いつものオリヴィアの皮肉や意地悪よりずっとひどく傷つく。貸してもらったハンカチごと顔を覆った。

「でも、僕もみっともない。母上に礼も告げずに辞去してしまった」

「それは、わたしが怒らせたから」

「頭には来たけど、君の言い分ももっともだろう。他での僕を知らないんだから。聖人君子には程遠いが、不品行ではないつもりだ。…女性に関しても。キースに問い質してくれて構わない」

 その言葉だけで十分だった。

 少し日が陰り出した。レオは彼女を立たせ、上着に袖を通す。

「送ろう」

「いいわ。近いもの」

「僕がそうしたい」

 それ以上彼女は抗えない。時間が惜しいような気がしていたのは、彼女だって同じだ。

 歩きながら、彼がちょっと笑う。

「女性は歩くものだと思っていた」

「田舎娘は走るの」

 彼の機嫌が直ったことに、エマは芯からほっとしていた。

 途中、アーネスト教誨師に行き会った。この地域を担当する国教会から派遣された聖道士で、葬祭や教理の伝導を行う人物だ。名士として遇されている。

「妻が近くいちご狩りをすると気負っていた。また知らせますよ」

「何か手伝えることがあったら、ぜひおっしゃって、とお伝えして下さいな」

「ありがとう。では」

 アーネストは二人に会釈し通り過ぎた。妻のベルとエマは仲良しだった。

 館の門に着いた。

 レオが去り際に、ポケットから紙を取り出した。彼女へ差し出す。それは彼が庭で書いていた祖母への手紙だった。

「裏に宛名もある。迷惑でなければ、君から出してもらえないか」

 それだけを言い、彼は身を翻した。
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