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手に残るもの

6、兄妹

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 寝たり起きたり。退屈な入院生活だが、これはこれで贅沢な休暇だろう。子供がいて日々の生活があれば、こうものんびりぼけーっと過ごすことなど難しい。

 沖田さんが妹のいろはちゃんを連れ、顔を出した。手ぶらだった兄とは違い、彼女は花を手にしていた。

 手近の花瓶で飾ってくれた。彼女と会うのは久しぶりだ。更に、沖田さんと兄妹で並ぶのを見るのは、どれくらいになるだろうか。

 以前、彼は今回の事件のことを打ち明けるかどうかは、わたしに任せると言った。その直後はどうしようかと考えもしたが、判断のつかないまま放置してしまっていた。会ったときの気分で、決めればいいや、と。

 その場面がいきなりやってきて、ちょっと面食らった。しかし、こんな場所まで足を運んでくれた彼女に嘘を突きつけてごまかすのが、やはり落ち着かない。

「夫(前の)と浮気していた隣りの奥さんに刺されたの。その奥さんお金に困ってたらしくて、わたしが死んだら都合がいいとか…。ははは」

 結局、何の飾りもせず事実を打ち明けた。

 兄から何も聞かされていなかったようで、いろはちゃんは目を見開いた。喉がひゅっと息を吸い込む音がした。兄をちらっと見た。

 ああ、こんなお嬢さんに汚らわしく猥雑な話をするのは、やっぱり嫌だったな。言ったそばから後悔した。まあ、隠してもそれなりに後悔はしただろうが。

 ちょっとの後でいろはちゃんがわたしの手を握った。

「あれだけの世界観を作る神は、やはり特別な引力がおありなんですね。プラスもマイナスも引き寄せてしまう…」

 引力?

 プラスもマイナスも…とかって。圧倒的にマイナスのみですが…。

 ぽかんとしたわたしへ彼女は急くように続ける。

「でも、もう大丈夫です。わたし抜群のパワースポット知ってるんです。肩こりも生理痛にも効きます。友だちで、しつこい元カレを撃退できたっていうのもいるんです。今度お連れしますね。それで絶対に負の引力ははじいてしまえますから!」

 元カレを撃退というのはともかく、肩こりや生理痛…。ありがたいのは、わかる。

 ともかく、勢い込んだ声に彼女の思いやりを感じた。

「…あ、ありがとう」

 夫(前の)の浮気相手に刺され死にかけた強烈なマイナスを帯びた身も、そこに行けば救いがあるのだろうか。ふうん。

 いろはちゃんから妙な目を向けられなかった安堵から、そんなことをふと思う。本当に、総司も連れて行ってみたい。実家は寺だけど。

 二人とはしばらく話した。帰り際、礼を言ったわたしへ彼が、わたしが退院したのちこちらの実家へ挨拶に行くと告げた。

 何をしに? と問おうとして止めた。嫌な目で見るから。

「まだいいよ」

「じゃあ、お前は退院した後も、まだのんきに、ぶっ刺されたあの家で子供と暮らしていくつもりなのか? 母親が死にかけた台所でオムライスを作ってやるのか?」

 脅しながらぎろりとにらむ。何なのだ。さっきまで妹効果か、穏やかな顔をしていたのにいきなりこうだもん。

 ぴりぴりしちゃって嫌だなあ。物騒なせりふはいちいちもっともだが。切った縫ったの後で、気分が重いのに。

「ちょっと、兄貴、何てこと言うの!」

 いろはちゃんがわたしが青い顔をしているのに、とやくざな兄を「馬鹿」と叱った。それを、沖田さんはふんと流し、流しながらもちらりとわたしを見た。

 彼女はわたしへ目顔で詫びた。ちょっと笑ってそれに応じる。

「とにかく」と、つないだ。

「もういいだろう。いい加減は止めよう」

 別に強い口調でもなかった。ごく普通の言葉だ。

 なのに、それがつきんと胸に刺さったようで、しばらくわたしは息を忘れた。「いい加減」はわたしだけを指したのではなく、彼も含めてのものだ。だから「止めよう」と結んだ。

 でも、いい加減だったのはわたしだけだ。

 そんなわたしに引きずられ譲ったために、彼までが居心地が悪く、きっと恥じたいような状況に堕ちているのだ。我慢が絶えた、言外にそんな声が聞こえる。そう思った。

 ちょっと噛みしめるように反芻して、頷いた。

「うん」

 それに、彼がまた頷いて返す。そうして「じゃあな」と、部屋を出て行った。

 妹くらい待ったらいいのに。と、心中突っ込んだが、二人で話す時間をくれたのかもしれない。ああ見えて彼は気配りに細やかなところがあるから。

 残ったいろはちゃんが、ややおろおろしたように取り繕う

「ごめんなさい、あんな兄がひどいことあれこれと。これじゃあお見舞いにならない…」

「ううん、ちっとも。ははは。沖田さんね、昔はもっときつかったよ。大丈夫慣れてるから」

「なら、いいんですけど…。最近、少しいらいらしてるみたいで。中年の危機ですかね」

「どうかな、ははは」

 中年の危機はともかく。彼のいらいらの訳にわたしは無関係ではない。今回わたしが遭った事件は彼にはとどめだったのだろう。だから、有無を言わせない調子で事を進めようとしている。

 マイペースに自分で運転していた車から、快速電車にでも乗り換えた気持がした。違和感はあるが、それはそれでいいような。だって、目指す場所は同じなのだ。

 そして、ぐるぐると変わらない景色にわたしは自分が疲れてきていることを感じている。頑張ったつもりで進んできたつもりが、悩みの網の中をただあがいていただけのような気がしてしまう。

 その結果がこの病院送り…。そう思えば、失笑すら浮かばない。

 疲れたことを自分に許して、彼の手にゆだねてしまいたいのだ。そうして、ほっと息をつきたい気分だ。身体の疲労が気持ちの緩みを呼ぶ。逆なのかもしれない。でも、楽になりたい。

「ねえ、いろはちゃん。いろいろごめんね、お兄さんを振り回して」

 彼女はわたしの声にぱちりと瞬きでまず応えた。「そんな」とそれから首を振る。

「何でも言ってね」

「…兄には、雅姫さんでいいんです。あ、雅姫さんでじゃなくて、雅姫さんが! いいんです」

 いろはちゃんは「雅姫さんが」を強調して言う。

 そこには子を望めない彼の事情をおそらくわたしなら問題にしないという含みがあるのだろう。子供がいて離婚歴を持つ、わたしの負い目と彼の側のそれが、いいバランスでつり合う。彼女がわたしたちの関係を認める大きな要素のはずだ。

「いいよ、そこ強く言わなくても。ははは」

「…あの、ご存知でしょうけど、うち、両親がいないんです。わたしが小さい頃に亡くなって…。わたしは記憶すら曖昧なんですけど」
 
 沖田さんの背景は彼から昔耳にしたきりだ。再会して改めて聞いたことがない。彼女が何を言うのか、ちょっと気を締めて聞いた。

「気づけば、ずっと兄が親のような感じでした。歳もずっと上だし…、うるさいし」

 小さく笑って相槌に代えた。わたしにすらあれこれやかましかった。可愛い妹の彼女には推して知るべし、だ。

「あるときから、兄貴はいつ結婚するんだろうって、思うようになりました。聞いても「そのうちな」しか言わないし。多分、わたしが独身でいる限りは無理なのかもって…」

 そこで間を置いた。
 
「でも、モジョにはそんな予定もありません」

「もじょ…?」

「ああ、もてない女子っていう意味です」
 
「ふうん。でも、いろはちゃんがもてないことないでしょ。可愛いし、お嬢さんって雰囲…」

「いやいやいやいや! そんなこと大アリです」

「でも可愛いけど」

「実際そうなんだから、こればっかりは信じていただかないと!」

 ものすんごい勢いで全否定された。いや、可愛いんだけど本当に。目立つ派手なタイプではないが、清楚なお嬢さん系である。

 本人がそこまで力説するからには、もてる方でもないのだろう。きちんと物は言うし、自分や自信がないのでもないはず。ただ、聡明で客観的に見え過ぎて、ちょっと自己採点が低めなのじゃないかと思った。

 彼女は息を吸い、つないだ。

「兄貴が結婚を決めてくれてほっとしました。申し訳ないんですが、当分はお荷物になります。一人で暮らす甲斐性も勇気もなく…」

「いやいやいや!」

 今度はわたしが全否定だ。彼女の言葉を最後まで待てず遮った。

「そんな風に思うのは止めて。お荷物はこっちだから。あっちこっち傷だらけなのを、沖田さん、よくも拾ってくれるなって、いろはちゃんもよく認めてくれたなって…。こっちこそ! ああ、でも、お荷物って発想はお互い止めようよ。…とにかく変に我慢しないで仲良くやっていけたら、って思うの。そういう意味で、いろいろ言ってほしい。お願いします」

「はい」

 退院後すぐ、沖田さんの言葉通りに彼らと同居は難しいだろう。引っ越しの準備もあるし、総司の幼稚園の件もある。でも、そう日を置かずに移ろうと気持ちは動いている。何となく、覚悟がついた。

 そんなわたしの心の内がわかる訳もないだろうが、いろはちゃんは頷くようにちょっと顎を引いて見せた。

「兄貴が雅姫さんしか見ていないのは、本当に見ていて、恥ずかしくなるくらいよくわかるんです。けど…」

 聞いているわたしも恥ずかしくなる。けど…?

「雅姫さんは兄貴の頑張りに押されて、押し切られちゃったのかも…って、ちらっとそんな風に思ってました。遠慮気味というか逃げ腰というか…。お子さんもいてそんな簡単じゃないし、当たり前なんですけどね」

 やはり、彼女にもわたしの態度は気になったようだ。少なからず、どっちつかずにも映っただろう。やんわりとした苦言に聞こえた。「いろいろ言ってほしい」とのわたしの言葉に沿って、応えてくれたのだと取れば、すんなり耳におさまった。

 彼といろはちゃんを振り回す気持ちなど、みじんもなかった。が、ぐだぐだした行動で結果そうなってしまっている。どんな意見もほしかったくせに、気持ちがしゅんとした。

「ごめんね、いい加減なことばっかり…」

「あ、いえ、そうじゃなくて」

 わたしの声を彼女は遮った。初めてわたしと沖田さんのやり取りを見て、わかったのだという。

 はて、何を?

「雅姫さんも真剣に兄貴とのことを考えてくれてるんだって。それがわかって、嬉しかったです。安心しました」

「…ああ、ありがとう」

 赤面しながら返した。自分の何が彼女を安心させたのか、さっき彼がいたときの様子を思い返してみる。よくわからない。

 まあ、いいか。

 ほどなく、彼女は長居を詫びて帰って行った。先に出た沖田さんとは、下のロビーか駐車場で合流するようだ。

 退院も数日後に迫っていた。早く出たいようで、まだこうして寝かせていてほしい気分も少し残る。

 時間は待ってくれない。彼を連れての実家訪問や続く引っ越しのこと、総司の問題…。しばらくのちの慌ただしいだろう日々を思い、ちょっと吐息した。

 何とかなるだろう。

 そして、何とかしよう。
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