55 / 69
手に残るもの
6、兄妹
しおりを挟む
寝たり起きたり。退屈な入院生活だが、これはこれで贅沢な休暇だろう。子供がいて日々の生活があれば、こうものんびりぼけーっと過ごすことなど難しい。
沖田さんが妹のいろはちゃんを連れ、顔を出した。手ぶらだった兄とは違い、彼女は花を手にしていた。
手近の花瓶で飾ってくれた。彼女と会うのは久しぶりだ。更に、沖田さんと兄妹で並ぶのを見るのは、どれくらいになるだろうか。
以前、彼は今回の事件のことを打ち明けるかどうかは、わたしに任せると言った。その直後はどうしようかと考えもしたが、判断のつかないまま放置してしまっていた。会ったときの気分で、決めればいいや、と。
その場面がいきなりやってきて、ちょっと面食らった。しかし、こんな場所まで足を運んでくれた彼女に嘘を突きつけてごまかすのが、やはり落ち着かない。
「夫(前の)と浮気していた隣りの奥さんに刺されたの。その奥さんお金に困ってたらしくて、わたしが死んだら都合がいいとか…。ははは」
結局、何の飾りもせず事実を打ち明けた。
兄から何も聞かされていなかったようで、いろはちゃんは目を見開いた。喉がひゅっと息を吸い込む音がした。兄をちらっと見た。
ああ、こんなお嬢さんに汚らわしく猥雑な話をするのは、やっぱり嫌だったな。言ったそばから後悔した。まあ、隠してもそれなりに後悔はしただろうが。
ちょっとの後でいろはちゃんがわたしの手を握った。
「あれだけの世界観を作る神は、やはり特別な引力がおありなんですね。プラスもマイナスも引き寄せてしまう…」
引力?
プラスもマイナスも…とかって。圧倒的にマイナスのみですが…。
ぽかんとしたわたしへ彼女は急くように続ける。
「でも、もう大丈夫です。わたし抜群のパワースポット知ってるんです。肩こりも生理痛にも効きます。友だちで、しつこい元カレを撃退できたっていうのもいるんです。今度お連れしますね。それで絶対に負の引力ははじいてしまえますから!」
元カレを撃退というのはともかく、肩こりや生理痛…。ありがたいのは、わかる。
ともかく、勢い込んだ声に彼女の思いやりを感じた。
「…あ、ありがとう」
夫(前の)の浮気相手に刺され死にかけた強烈なマイナスを帯びた身も、そこに行けば救いがあるのだろうか。ふうん。
いろはちゃんから妙な目を向けられなかった安堵から、そんなことをふと思う。本当に、総司も連れて行ってみたい。実家は寺だけど。
二人とはしばらく話した。帰り際、礼を言ったわたしへ彼が、わたしが退院したのちこちらの実家へ挨拶に行くと告げた。
何をしに? と問おうとして止めた。嫌な目で見るから。
「まだいいよ」
「じゃあ、お前は退院した後も、まだのんきに、ぶっ刺されたあの家で子供と暮らしていくつもりなのか? 母親が死にかけた台所でオムライスを作ってやるのか?」
脅しながらぎろりとにらむ。何なのだ。さっきまで妹効果か、穏やかな顔をしていたのにいきなりこうだもん。
ぴりぴりしちゃって嫌だなあ。物騒なせりふはいちいちもっともだが。切った縫ったの後で、気分が重いのに。
「ちょっと、兄貴、何てこと言うの!」
いろはちゃんがわたしが青い顔をしているのに、とやくざな兄を「馬鹿」と叱った。それを、沖田さんはふんと流し、流しながらもちらりとわたしを見た。
彼女はわたしへ目顔で詫びた。ちょっと笑ってそれに応じる。
「とにかく」と、つないだ。
「もういいだろう。いい加減は止めよう」
別に強い口調でもなかった。ごく普通の言葉だ。
なのに、それがつきんと胸に刺さったようで、しばらくわたしは息を忘れた。「いい加減」はわたしだけを指したのではなく、彼も含めてのものだ。だから「止めよう」と結んだ。
でも、いい加減だったのはわたしだけだ。
そんなわたしに引きずられ譲ったために、彼までが居心地が悪く、きっと恥じたいような状況に堕ちているのだ。我慢が絶えた、言外にそんな声が聞こえる。そう思った。
ちょっと噛みしめるように反芻して、頷いた。
「うん」
それに、彼がまた頷いて返す。そうして「じゃあな」と、部屋を出て行った。
妹くらい待ったらいいのに。と、心中突っ込んだが、二人で話す時間をくれたのかもしれない。ああ見えて彼は気配りに細やかなところがあるから。
残ったいろはちゃんが、ややおろおろしたように取り繕う
「ごめんなさい、あんな兄がひどいことあれこれと。これじゃあお見舞いにならない…」
「ううん、ちっとも。ははは。沖田さんね、昔はもっときつかったよ。大丈夫慣れてるから」
「なら、いいんですけど…。最近、少しいらいらしてるみたいで。中年の危機ですかね」
「どうかな、ははは」
中年の危機はともかく。彼のいらいらの訳にわたしは無関係ではない。今回わたしが遭った事件は彼にはとどめだったのだろう。だから、有無を言わせない調子で事を進めようとしている。
マイペースに自分で運転していた車から、快速電車にでも乗り換えた気持がした。違和感はあるが、それはそれでいいような。だって、目指す場所は同じなのだ。
そして、ぐるぐると変わらない景色にわたしは自分が疲れてきていることを感じている。頑張ったつもりで進んできたつもりが、悩みの網の中をただあがいていただけのような気がしてしまう。
その結果がこの病院送り…。そう思えば、失笑すら浮かばない。
疲れたことを自分に許して、彼の手にゆだねてしまいたいのだ。そうして、ほっと息をつきたい気分だ。身体の疲労が気持ちの緩みを呼ぶ。逆なのかもしれない。でも、楽になりたい。
「ねえ、いろはちゃん。いろいろごめんね、お兄さんを振り回して」
彼女はわたしの声にぱちりと瞬きでまず応えた。「そんな」とそれから首を振る。
「何でも言ってね」
「…兄には、雅姫さんでいいんです。あ、雅姫さんでじゃなくて、雅姫さんが! いいんです」
いろはちゃんは「雅姫さんが」を強調して言う。
そこには子を望めない彼の事情をおそらくわたしなら問題にしないという含みがあるのだろう。子供がいて離婚歴を持つ、わたしの負い目と彼の側のそれが、いいバランスでつり合う。彼女がわたしたちの関係を認める大きな要素のはずだ。
「いいよ、そこ強く言わなくても。ははは」
「…あの、ご存知でしょうけど、うち、両親がいないんです。わたしが小さい頃に亡くなって…。わたしは記憶すら曖昧なんですけど」
沖田さんの背景は彼から昔耳にしたきりだ。再会して改めて聞いたことがない。彼女が何を言うのか、ちょっと気を締めて聞いた。
「気づけば、ずっと兄が親のような感じでした。歳もずっと上だし…、うるさいし」
小さく笑って相槌に代えた。わたしにすらあれこれやかましかった。可愛い妹の彼女には推して知るべし、だ。
「あるときから、兄貴はいつ結婚するんだろうって、思うようになりました。聞いても「そのうちな」しか言わないし。多分、わたしが独身でいる限りは無理なのかもって…」
そこで間を置いた。
「でも、モジョにはそんな予定もありません」
「もじょ…?」
「ああ、もてない女子っていう意味です」
「ふうん。でも、いろはちゃんがもてないことないでしょ。可愛いし、お嬢さんって雰囲…」
「いやいやいやいや! そんなこと大アリです」
「でも可愛いけど」
「実際そうなんだから、こればっかりは信じていただかないと!」
ものすんごい勢いで全否定された。いや、可愛いんだけど本当に。目立つ派手なタイプではないが、清楚なお嬢さん系である。
本人がそこまで力説するからには、もてる方でもないのだろう。きちんと物は言うし、自分や自信がないのでもないはず。ただ、聡明で客観的に見え過ぎて、ちょっと自己採点が低めなのじゃないかと思った。
彼女は息を吸い、つないだ。
「兄貴が結婚を決めてくれてほっとしました。申し訳ないんですが、当分はお荷物になります。一人で暮らす甲斐性も勇気もなく…」
「いやいやいや!」
今度はわたしが全否定だ。彼女の言葉を最後まで待てず遮った。
「そんな風に思うのは止めて。お荷物はこっちだから。あっちこっち傷だらけなのを、沖田さん、よくも拾ってくれるなって、いろはちゃんもよく認めてくれたなって…。こっちこそ! ああ、でも、お荷物って発想はお互い止めようよ。…とにかく変に我慢しないで仲良くやっていけたら、って思うの。そういう意味で、いろいろ言ってほしい。お願いします」
「はい」
退院後すぐ、沖田さんの言葉通りに彼らと同居は難しいだろう。引っ越しの準備もあるし、総司の幼稚園の件もある。でも、そう日を置かずに移ろうと気持ちは動いている。何となく、覚悟がついた。
そんなわたしの心の内がわかる訳もないだろうが、いろはちゃんは頷くようにちょっと顎を引いて見せた。
「兄貴が雅姫さんしか見ていないのは、本当に見ていて、恥ずかしくなるくらいよくわかるんです。けど…」
聞いているわたしも恥ずかしくなる。けど…?
「雅姫さんは兄貴の頑張りに押されて、押し切られちゃったのかも…って、ちらっとそんな風に思ってました。遠慮気味というか逃げ腰というか…。お子さんもいてそんな簡単じゃないし、当たり前なんですけどね」
やはり、彼女にもわたしの態度は気になったようだ。少なからず、どっちつかずにも映っただろう。やんわりとした苦言に聞こえた。「いろいろ言ってほしい」とのわたしの言葉に沿って、応えてくれたのだと取れば、すんなり耳におさまった。
彼といろはちゃんを振り回す気持ちなど、みじんもなかった。が、ぐだぐだした行動で結果そうなってしまっている。どんな意見もほしかったくせに、気持ちがしゅんとした。
「ごめんね、いい加減なことばっかり…」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
わたしの声を彼女は遮った。初めてわたしと沖田さんのやり取りを見て、わかったのだという。
はて、何を?
「雅姫さんも真剣に兄貴とのことを考えてくれてるんだって。それがわかって、嬉しかったです。安心しました」
「…ああ、ありがとう」
赤面しながら返した。自分の何が彼女を安心させたのか、さっき彼がいたときの様子を思い返してみる。よくわからない。
まあ、いいか。
ほどなく、彼女は長居を詫びて帰って行った。先に出た沖田さんとは、下のロビーか駐車場で合流するようだ。
退院も数日後に迫っていた。早く出たいようで、まだこうして寝かせていてほしい気分も少し残る。
時間は待ってくれない。彼を連れての実家訪問や続く引っ越しのこと、総司の問題…。しばらくのちの慌ただしいだろう日々を思い、ちょっと吐息した。
何とかなるだろう。
そして、何とかしよう。
沖田さんが妹のいろはちゃんを連れ、顔を出した。手ぶらだった兄とは違い、彼女は花を手にしていた。
手近の花瓶で飾ってくれた。彼女と会うのは久しぶりだ。更に、沖田さんと兄妹で並ぶのを見るのは、どれくらいになるだろうか。
以前、彼は今回の事件のことを打ち明けるかどうかは、わたしに任せると言った。その直後はどうしようかと考えもしたが、判断のつかないまま放置してしまっていた。会ったときの気分で、決めればいいや、と。
その場面がいきなりやってきて、ちょっと面食らった。しかし、こんな場所まで足を運んでくれた彼女に嘘を突きつけてごまかすのが、やはり落ち着かない。
「夫(前の)と浮気していた隣りの奥さんに刺されたの。その奥さんお金に困ってたらしくて、わたしが死んだら都合がいいとか…。ははは」
結局、何の飾りもせず事実を打ち明けた。
兄から何も聞かされていなかったようで、いろはちゃんは目を見開いた。喉がひゅっと息を吸い込む音がした。兄をちらっと見た。
ああ、こんなお嬢さんに汚らわしく猥雑な話をするのは、やっぱり嫌だったな。言ったそばから後悔した。まあ、隠してもそれなりに後悔はしただろうが。
ちょっとの後でいろはちゃんがわたしの手を握った。
「あれだけの世界観を作る神は、やはり特別な引力がおありなんですね。プラスもマイナスも引き寄せてしまう…」
引力?
プラスもマイナスも…とかって。圧倒的にマイナスのみですが…。
ぽかんとしたわたしへ彼女は急くように続ける。
「でも、もう大丈夫です。わたし抜群のパワースポット知ってるんです。肩こりも生理痛にも効きます。友だちで、しつこい元カレを撃退できたっていうのもいるんです。今度お連れしますね。それで絶対に負の引力ははじいてしまえますから!」
元カレを撃退というのはともかく、肩こりや生理痛…。ありがたいのは、わかる。
ともかく、勢い込んだ声に彼女の思いやりを感じた。
「…あ、ありがとう」
夫(前の)の浮気相手に刺され死にかけた強烈なマイナスを帯びた身も、そこに行けば救いがあるのだろうか。ふうん。
いろはちゃんから妙な目を向けられなかった安堵から、そんなことをふと思う。本当に、総司も連れて行ってみたい。実家は寺だけど。
二人とはしばらく話した。帰り際、礼を言ったわたしへ彼が、わたしが退院したのちこちらの実家へ挨拶に行くと告げた。
何をしに? と問おうとして止めた。嫌な目で見るから。
「まだいいよ」
「じゃあ、お前は退院した後も、まだのんきに、ぶっ刺されたあの家で子供と暮らしていくつもりなのか? 母親が死にかけた台所でオムライスを作ってやるのか?」
脅しながらぎろりとにらむ。何なのだ。さっきまで妹効果か、穏やかな顔をしていたのにいきなりこうだもん。
ぴりぴりしちゃって嫌だなあ。物騒なせりふはいちいちもっともだが。切った縫ったの後で、気分が重いのに。
「ちょっと、兄貴、何てこと言うの!」
いろはちゃんがわたしが青い顔をしているのに、とやくざな兄を「馬鹿」と叱った。それを、沖田さんはふんと流し、流しながらもちらりとわたしを見た。
彼女はわたしへ目顔で詫びた。ちょっと笑ってそれに応じる。
「とにかく」と、つないだ。
「もういいだろう。いい加減は止めよう」
別に強い口調でもなかった。ごく普通の言葉だ。
なのに、それがつきんと胸に刺さったようで、しばらくわたしは息を忘れた。「いい加減」はわたしだけを指したのではなく、彼も含めてのものだ。だから「止めよう」と結んだ。
でも、いい加減だったのはわたしだけだ。
そんなわたしに引きずられ譲ったために、彼までが居心地が悪く、きっと恥じたいような状況に堕ちているのだ。我慢が絶えた、言外にそんな声が聞こえる。そう思った。
ちょっと噛みしめるように反芻して、頷いた。
「うん」
それに、彼がまた頷いて返す。そうして「じゃあな」と、部屋を出て行った。
妹くらい待ったらいいのに。と、心中突っ込んだが、二人で話す時間をくれたのかもしれない。ああ見えて彼は気配りに細やかなところがあるから。
残ったいろはちゃんが、ややおろおろしたように取り繕う
「ごめんなさい、あんな兄がひどいことあれこれと。これじゃあお見舞いにならない…」
「ううん、ちっとも。ははは。沖田さんね、昔はもっときつかったよ。大丈夫慣れてるから」
「なら、いいんですけど…。最近、少しいらいらしてるみたいで。中年の危機ですかね」
「どうかな、ははは」
中年の危機はともかく。彼のいらいらの訳にわたしは無関係ではない。今回わたしが遭った事件は彼にはとどめだったのだろう。だから、有無を言わせない調子で事を進めようとしている。
マイペースに自分で運転していた車から、快速電車にでも乗り換えた気持がした。違和感はあるが、それはそれでいいような。だって、目指す場所は同じなのだ。
そして、ぐるぐると変わらない景色にわたしは自分が疲れてきていることを感じている。頑張ったつもりで進んできたつもりが、悩みの網の中をただあがいていただけのような気がしてしまう。
その結果がこの病院送り…。そう思えば、失笑すら浮かばない。
疲れたことを自分に許して、彼の手にゆだねてしまいたいのだ。そうして、ほっと息をつきたい気分だ。身体の疲労が気持ちの緩みを呼ぶ。逆なのかもしれない。でも、楽になりたい。
「ねえ、いろはちゃん。いろいろごめんね、お兄さんを振り回して」
彼女はわたしの声にぱちりと瞬きでまず応えた。「そんな」とそれから首を振る。
「何でも言ってね」
「…兄には、雅姫さんでいいんです。あ、雅姫さんでじゃなくて、雅姫さんが! いいんです」
いろはちゃんは「雅姫さんが」を強調して言う。
そこには子を望めない彼の事情をおそらくわたしなら問題にしないという含みがあるのだろう。子供がいて離婚歴を持つ、わたしの負い目と彼の側のそれが、いいバランスでつり合う。彼女がわたしたちの関係を認める大きな要素のはずだ。
「いいよ、そこ強く言わなくても。ははは」
「…あの、ご存知でしょうけど、うち、両親がいないんです。わたしが小さい頃に亡くなって…。わたしは記憶すら曖昧なんですけど」
沖田さんの背景は彼から昔耳にしたきりだ。再会して改めて聞いたことがない。彼女が何を言うのか、ちょっと気を締めて聞いた。
「気づけば、ずっと兄が親のような感じでした。歳もずっと上だし…、うるさいし」
小さく笑って相槌に代えた。わたしにすらあれこれやかましかった。可愛い妹の彼女には推して知るべし、だ。
「あるときから、兄貴はいつ結婚するんだろうって、思うようになりました。聞いても「そのうちな」しか言わないし。多分、わたしが独身でいる限りは無理なのかもって…」
そこで間を置いた。
「でも、モジョにはそんな予定もありません」
「もじょ…?」
「ああ、もてない女子っていう意味です」
「ふうん。でも、いろはちゃんがもてないことないでしょ。可愛いし、お嬢さんって雰囲…」
「いやいやいやいや! そんなこと大アリです」
「でも可愛いけど」
「実際そうなんだから、こればっかりは信じていただかないと!」
ものすんごい勢いで全否定された。いや、可愛いんだけど本当に。目立つ派手なタイプではないが、清楚なお嬢さん系である。
本人がそこまで力説するからには、もてる方でもないのだろう。きちんと物は言うし、自分や自信がないのでもないはず。ただ、聡明で客観的に見え過ぎて、ちょっと自己採点が低めなのじゃないかと思った。
彼女は息を吸い、つないだ。
「兄貴が結婚を決めてくれてほっとしました。申し訳ないんですが、当分はお荷物になります。一人で暮らす甲斐性も勇気もなく…」
「いやいやいや!」
今度はわたしが全否定だ。彼女の言葉を最後まで待てず遮った。
「そんな風に思うのは止めて。お荷物はこっちだから。あっちこっち傷だらけなのを、沖田さん、よくも拾ってくれるなって、いろはちゃんもよく認めてくれたなって…。こっちこそ! ああ、でも、お荷物って発想はお互い止めようよ。…とにかく変に我慢しないで仲良くやっていけたら、って思うの。そういう意味で、いろいろ言ってほしい。お願いします」
「はい」
退院後すぐ、沖田さんの言葉通りに彼らと同居は難しいだろう。引っ越しの準備もあるし、総司の幼稚園の件もある。でも、そう日を置かずに移ろうと気持ちは動いている。何となく、覚悟がついた。
そんなわたしの心の内がわかる訳もないだろうが、いろはちゃんは頷くようにちょっと顎を引いて見せた。
「兄貴が雅姫さんしか見ていないのは、本当に見ていて、恥ずかしくなるくらいよくわかるんです。けど…」
聞いているわたしも恥ずかしくなる。けど…?
「雅姫さんは兄貴の頑張りに押されて、押し切られちゃったのかも…って、ちらっとそんな風に思ってました。遠慮気味というか逃げ腰というか…。お子さんもいてそんな簡単じゃないし、当たり前なんですけどね」
やはり、彼女にもわたしの態度は気になったようだ。少なからず、どっちつかずにも映っただろう。やんわりとした苦言に聞こえた。「いろいろ言ってほしい」とのわたしの言葉に沿って、応えてくれたのだと取れば、すんなり耳におさまった。
彼といろはちゃんを振り回す気持ちなど、みじんもなかった。が、ぐだぐだした行動で結果そうなってしまっている。どんな意見もほしかったくせに、気持ちがしゅんとした。
「ごめんね、いい加減なことばっかり…」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
わたしの声を彼女は遮った。初めてわたしと沖田さんのやり取りを見て、わかったのだという。
はて、何を?
「雅姫さんも真剣に兄貴とのことを考えてくれてるんだって。それがわかって、嬉しかったです。安心しました」
「…ああ、ありがとう」
赤面しながら返した。自分の何が彼女を安心させたのか、さっき彼がいたときの様子を思い返してみる。よくわからない。
まあ、いいか。
ほどなく、彼女は長居を詫びて帰って行った。先に出た沖田さんとは、下のロビーか駐車場で合流するようだ。
退院も数日後に迫っていた。早く出たいようで、まだこうして寝かせていてほしい気分も少し残る。
時間は待ってくれない。彼を連れての実家訪問や続く引っ越しのこと、総司の問題…。しばらくのちの慌ただしいだろう日々を思い、ちょっと吐息した。
何とかなるだろう。
そして、何とかしよう。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい
棗
恋愛
婚約者には初恋の人がいる。
王太子リエトの婚約者ベルティーナ=アンナローロ公爵令嬢は、呼び出された先で婚約破棄を告げられた。婚約者の隣には、家族や婚約者が常に可愛いと口にする従妹がいて。次の婚約者は従妹になると。
待ちに待った婚約破棄を喜んでいると思われる訳にもいかず、冷静に、でも笑顔は忘れずに二人の幸せを願ってあっさりと従者と部屋を出た。
婚約破棄をされた件で父に勘当されるか、何処かの貴族の後妻にされるか待っていても一向に婚約破棄の話をされない。また、婚約破棄をしたのに何故か王太子から呼び出しの声が掛かる。
従者を連れてさっさと家を出たいべルティーナと従者のせいで拗らせまくったリエトの話。
※なろうさんにも公開しています。
※短編→長編に変更しました(2023.7.19)

〖完結〗幼馴染みの王女様の方が大切な婚約者は要らない。愛してる? もう興味ありません。
藍川みいな
恋愛
婚約者のカイン様は、婚約者の私よりも幼馴染みのクリスティ王女殿下ばかりを優先する。
何度も約束を破られ、彼と過ごせる時間は全くなかった。約束を破る理由はいつだって、「クリスティが……」だ。
同じ学園に通っているのに、私はまるで他人のよう。毎日毎日、二人の仲のいい姿を見せられ、苦しんでいることさえ彼は気付かない。
もうやめる。
カイン様との婚約は解消する。
でもなぜか、別れを告げたのに彼が付きまとってくる。
愛してる? 私はもう、あなたに興味はありません!
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
沢山の感想ありがとうございます。返信出来ず、申し訳ありません。

Sランクの年下旦那様は如何でしょうか?
キミノ
恋愛
職場と自宅を往復するだけの枯れた生活を送っていた白石亜子(27)は、
帰宅途中に見知らぬイケメンの大谷匠に求婚される。
二日酔いで目覚めた亜子は、記憶の無いまま彼の妻になっていた。
彼は日本でもトップの大企業の御曹司で・・・。
無邪気に笑ったと思えば、大人の色気で翻弄してくる匠。戸惑いながらもお互いを知り、仲を深める日々を過ごしていた。
このまま、私は彼と生きていくんだ。
そう思っていた。
彼の心に住み付いて離れない存在を知るまでは。
「どうしようもなく好きだった人がいたんだ」
報われない想いを隠し切れない背中を見て、私はどうしたらいいの?
代わりでもいい。
それでも一緒にいられるなら。
そう思っていたけれど、そう思っていたかったけれど。
Sランクの年下旦那様に本気で愛されたいの。
―――――――――――――――
ページを捲ってみてください。
貴女の心にズンとくる重い愛を届けます。
【Sランクの男は如何でしょうか?】シリーズの匠編です。

娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
子持ちの私は、夫に駆け落ちされました
月山 歩
恋愛
産まれたばかりの赤子を抱いた私は、砦に働きに行ったきり、帰って来ない夫を心配して、鍛錬場を訪れた。すると、夫の上司は夫が仕事中に駆け落ちしていなくなったことを教えてくれた。食べる物がなく、フラフラだった私は、その場で意識を失った。赤子を抱いた私を気の毒に思った公爵家でお世話になることに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる