ため息とあきらめ、自分につく嘘〜モヤモヤは幸せのサイン?!〜

帆々

文字の大きさ
上 下
50 / 69
手に残るもの

1、気持ちは強く、したたかに

しおりを挟む
 弁護士との通話を終えて受話器を置いた。夫との離婚に絡む問題を依頼している人だ。こちらの言い分を、夫側がのんだという。
 
 懸案の一億円を巡ってわたしは妥協はしなかった。さすがに全額を請求はしないが、どうしても譲れないレベルは絶対に曲げなかった。これからの総司の将来に関わるとなれば、欲も張れるし背筋が伸びた。担当の弁護士も親身になってくれた。
 
 驚天動地の事実を知ってからひと月強。ようやく大問題が片付き始め、肩の荷が下りたようになる。
 
『お渡しした離婚届は、記入後追ってご返送下さるとのことです』
 
 夫に役所に提出してもらうより自分がそれを出しに行きたかった。ちゃんと約束を守ってくれるのかという夫への不信の他、やはり自分でけりをつけたいという気持ちがある。
 
 ほっと息をついた後で、実家に連絡をする。心配をかけている皆に解決を伝えた。
 
『よかったね~。お父さんは欲張らずに半分こでいいじゃないか、なんて言ってたけど、違うよね。責任に見合った額があるもん。何でもかんでもお互いさま、じゃ駄目。先に撃ってきたら、やっぱり撃ち返さないと。目には目を。因果だよね、これこそ』
 
 坊守には似つかわしくない物騒なことを、あっけらかんと姉は言う。
 
 ダグに代わる。『おめでとう』の後で『落ち着いたら、また弁護士を通して資産の管理を相談した方がいい』と、アドバイスをくれた。
 
『運用までしなくとも、分散したりリスク回避のために手を打っておくべきだよ』
 
 通帳を作って預けておくだけのつもりだったが、ダグの意見にへえとなる。そうだ、それも考えよう。
 
 いろいろありがとう、と改めて礼を言い、電話を切った。
 
 ちょっと迷い、続けて沖田さんにも結果をメッセージで送る。離婚はまだだが、問題の一番厄介な部分が解決したのだ。気分が浮き立った。
 
 ソファアにケイタイを放り、うんと伸びをする。
 
 原稿にまた向かい始める前に冷蔵庫をのぞいた。前に買った発泡酒が残っていた。普段は飲まないが、今夜は特別で飲みたい気がした。一人でもささやかに祝いたい。お風呂上りに飲もう。
 
 時計を確認し、ダイニングのテーブルに戻る。広げた原稿にまたペンを走らせ始めた。
 
 
 この日、咲耶さんのお宅にお邪魔した。
 
 以前コンビを組んでやった同人誌がイベント外でも好評で、その続編のようなものをまた組んでやる話が進んでいた。
 
 SNSや電話でも済むが、なるべく顔を見て確認し合いたいのは、わたしも同じだ。意見も言い合いやすい。遠方でもない。勧められるままにまたあの門を潜った。
 
 咲耶さんは用があるようで、ちょっとだけお待ちを、とリビング?に案内された。
 
 リボンいっぱい、ひらひらふっわふわのいつもの甘~いコーディネートで、ゆったりソファに座るのは、アンさんだ。わたしは居心地悪く鹿やトラの剥製が置かれた豪奢なリビング?で、もじもじとしていた。
 
「ごめんね、無理言って…」
 
「まあ、友だちに頼まれたら、嫌とは言えないけど。友だちだしね、遠慮なんかいいわよ」
 
 やや甲高く「友だち」部分を連呼した。
 
 やっぱり、まったくの素人が、咲耶さんのような特殊な(気合いのの入った若い衆がうろうろする)お宅にお邪魔するのは敷居が高い。それでただ者ではないこの人にまた同道を願った。何かよくわからないけど、凄い人みたいだもの、アンさんって。
 
 レモネードを飲みながらリビング?で待つことしばし。部屋のドアがいきなり開いた。
 
 咲耶さんかと顔を向ければ、入ってきたのは若い男性で、こちらに背を向けながら誰かと何やら話している。
 
「だから、本家なんかに僕が行くつもりはありません。あの人にそう言って伝えて下さい。それから、そろそろ帰してほしい。用もあるし…」
 
「ああ、予備校のバイトしてはるんでしたね。ですがね、ボンのそのお返事、オヤジんとこ持って帰ったら、えらいどやされます」
 
「またそんな。無理を言っているのは向こうだ…」
 
 そこで背を向けた男性が、部屋のわたしたちに気づいた。「え?」といった顔をして、後ろの人物を振り返った。
 
「田所代行、お嬢のお客人が…」と、誰かの声が廊下からする。「ふうん、ほな、ボンこちらへ」と会話の相手が彼を招いた。
 
「すいませんでした」
 
 男性は軽く頭を下げ出ていく。ドアが閉まり、何事もなかったように部屋が静まった。
 
 幕間のような出来事だった。
 
「きれいな顔だったわよね、今の人。大学生くらいかな…」
 
「ああ、そうだっけ」
 
「『本家』とか言ってたわね。きっとどこかの御曹司よ。後ろのしゅっとした男が『ボン』なんて、あんな若い子に丁寧だったしさ。『代行』って幹部よね…?」
 
 後ろの男が「しゅっとしていた」ところにまで観察がいくとは。若い彼は普通の人っぽかったかも。
 
 それから間もなく、またドアが開き今度は咲耶さんが現れた。待たせたことを大仰に詫びる。
 
「申し訳ございません。とんだ野暮用で、姐さん方にご迷惑をおかけ…」
 
 それを遮ってアンさんが、さっきの若い男性のことを持ち出す。「誰?」とあけすけに聞く。
 
「美馬さんのことかな?」と、咲耶さんが首を傾げた。
 
「だったら、うちがお預かりしたお客人ですよ」
 
「名前もいいわね」と、わたしに頷く。何にいいのだ。
 
「本家がどうのって…」
 
「ああ、お話しされたんですか? 美馬の坊っちゃんは父の恩人の息子さんです。地元じゃ事情があって落ち着かないらしいんで、うちにしばらく滞在されているんですよ」
 
 アンさんは悦に入った様子で、わたしへ笑って見せた。
 
「訳あり美形の御曹司に何かを説得する「代行」…。BL魂にいろいろ火がつく設定じゃない? 雅姫さん」
 
「ははは…」
 
 つかねえよ、いろいろ。
 
 
 急なお客で忙しげな咲耶さんの家を辞して(ご大層な仕出しを断って)、アンさんとランチをして帰った。パスタとかオムライスとかの普通の値頃のものだ。セレブな彼女にどうかなと思ったが、口にあったよう。喜んでくれた。
 
「次は我が家にいらっしゃいよ。咲耶さんも呼ぶわ。庭で火を焚きながら鮎でも焼いて、季節外れの流しそうめんでもしましょうか、ごく身内だけで、ね。送らせるから、火にあたってグリューワインでも飲みましょ」
 
 いいのか、ありなのか。リッチピープルの感覚は理解不能。お誘いは嬉しいから「うん」と答えておいた。
 
 家に着いたのは二時前で、幼稚園から帰る総司のお迎えには余裕があった。咲耶さんちで詰めた原稿の件はメモに控えたから、それをキッチンの壁のボードにピンで留めた。
 
 そこで、玄関のチャイムが鳴る。セールスか宅配便か…。インターフォンで確認すると、なんと夫だった。
 
 え?!
 
 声も出せないでいると、聞き慣れた声が笑いを含んでいる。記入済みの離婚届を持って来たという。
 
『手渡ししたくなって…』
 
「そう…」
 
 それだけしか、返せなかった。

『まだ、俺の家だろ?』
 
 その声にも返事が出なかった。地元での生活を始めている夫には、もうこの家はローンや維持費を払う意味がない。夫からは既に「要らない」と答えをもらっていた。
 
 名義を変更しわたしが住み続けるか、また別の場所に移るか…。総司のこれからのこともあり、まだ決めかねている問題だった。
 
 荷物もある。住所もまだ移していないはず。
 
「住所変えなくても就職できるの?」
 
 そんなことを聞いて時間を稼ぐ。興味などない。新しい会社は個人経営の小さなとこで、融通が利くという。ごたごたが済んでからでいいと、上から言ってもらっているらしい。
 
 ふうん。

 心でつぶやいた。以前は中規模以下の会社には目もくれなかったのに。あの病院との和解を取り付け、離婚と総司を捨てることを決めた後なら、簡単に信条も変わるんだ。
 
 今更どうでもいいことだが、この人にとって守りたいものは何だったのだろう。ふと、そんなことを思う。
 
『おい、渡すだけだから。早く頼むよ』
 
 ダグにアドバイスされ、鍵は変えてしまっていた。夫は前の鍵を持ってこの家を出たが、それはもう使えない。空き巣も聞くし子供と二人で不用心だったから、と言い訳は立つ。だが、まだ彼の名義の家に勝手に手を加えたことが、ほんのわずかに後ろめたい。
 
「うん、今いく」
 
 インターフォンを切り玄関に向かう。ドアを開ければ、既に勤め人らしく日に焼けた肌の夫が立っていた。まず、わたしに封筒を手渡した。
 
 中には、言葉通りに記入済みの離婚届があった。
 
「わざわざありがとう」
 
 これを提出すれば、この人とのすべてが終わる。その先走った解放感に、礼が口を出た。
 
 夫はそれにちょっと頷いて返し、肩に下げたスポーツバッグを示す。
 
「着替えが足りなくてさ。要る分持って帰りたい。いいよな?」
 
「うん」
 
 夫はわたしの脇を抜け、家に上がった。階段を小気味よく上って行く。わたしはリビングに戻り、夫が離婚届を持って来てくれたことを報告しようと、姉に電話をかけた。
 
 伝えると、姉はちょっと唸るような声を出す。
 
『家に上げちゃったの?』
 
「うん、…そうだけど、服を持って帰りたいって言うから。それくらい…」
 
 それに返事はない。受話器の向こうで姉の甲高い声がした。多分ダグに話しているのだろう。

 声が戻った。
 
『やっぱりよくないって、ダグも。すぐそっちに行ってくれるって』
 
「え、何で? もう帰るよあの人、きっと」
 
『帰ってくれなかったときのことを心配しなさいよ。理由もなく不意に出向いてくるなんて、ちょっとおかしいじゃない』
 
 だから、理由は離婚届と着替えだ。でも、そんなものは、姉が指摘するように宅配や郵便で手軽に便利に片が付く。
 
 そして夫は妻のわたしはともかく、総司をあんなに簡単に捨てられる人だ。
 
『こんなこと縁起でもないけど…、あの病院の示談金ね、あんたに何かあったら全部浩司さんの物になるんだから』
 
「え」
 
 まさか。
 
 そんな…。
 
『何もないなら何もないでいいの。浩司さんには疑って「ゴメンねゴメンね~」て胸で言っとけばいいし、ね』
 
「ゴメンねゴメンね~」って…。
 
 姉との電話を切ったすぐ後に、背中に声がかかった。
 
「なあ雅姫」

 それに、どきりと心臓が跳ねた。
 
 夫はほどよくふくらんだスポーツバッグを床に置き、冷蔵庫を指す。
 
「何か、冷たい物ない?」
 
「あ、うん…、アイスコーヒーならある」
 
 変な緊張で声が裏返りそうだ。息を吐いて挙動不審にならないよう冷蔵庫を向かった。
 
 姉の話はあまりに突拍子ない。だが、それに冷静なあのダグが頷くとなると、自分の軽率さも後悔し始めてしまう。
 
 平日の昼間、始めたばかりの仕事はどうしたのだろう…。
 
 彼から視線を逸らし、グラスに注いだコーヒーを渡した。喉が急に乾く。自分もお茶でも飲もうと再び冷蔵庫のドアを開ける。
 
 背に、その声はぽんと刺さった。
 
「やっぱり、やり直さないか、もう一回」
 
 はあ?!
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

【完結】今世も裏切られるのはごめんなので、最愛のあなたはもう要らない

曽根原ツタ
恋愛
隣国との戦時中に国王が病死し、王位継承権を持つ男子がひとりもいなかったため、若い王女エトワールは女王となった。だが── 「俺は彼女を愛している。彼女は俺の子を身篭った」 戦場から帰還した愛する夫の隣には、別の女性が立っていた。さらに彼は、王座を奪うために女王暗殺を企てる。 そして。夫に剣で胸を貫かれて死んだエトワールが次に目が覚めたとき、彼と出会った日に戻っていて……? ──二度目の人生、私を裏切ったあなたを絶対に愛しません。 ★小説家になろうさまでも公開中

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【完結】殿下、自由にさせていただきます。

なか
恋愛
「出て行ってくれリルレット。王宮に君が住む必要はなくなった」  その言葉と同時に私の五年間に及ぶ初恋は終わりを告げた。  アルフレッド殿下の妃候補として選ばれ、心の底から喜んでいた私はもういない。  髪を綺麗だと言ってくれた口からは、私を貶める言葉しか出てこない。  見惚れてしまう程の笑みは、もう見せてもくれない。  私………貴方に嫌われた理由が分からないよ。  初夜を私一人だけにしたあの日から、貴方はどうして変わってしまったの?  恋心は砕かれた私は死さえ考えたが、過去に見知らぬ男性から渡された本をきっかけに騎士を目指す。  しかし、正騎士団は女人禁制。  故に私は男性と性別を偽って生きていく事を決めたのに……。  晴れて騎士となった私を待っていたのは、全てを見抜いて笑う副団長であった。     身分を明かせない私は、全てを知っている彼と秘密の恋をする事になる。    そして、騎士として王宮内で起きた変死事件やアルフレッドの奇行に大きく関わり、やがて王宮に蔓延る謎と対峙する。  これは、私の初恋が終わり。  僕として新たな人生を歩みだした話。  

〖完結〗幼馴染みの王女様の方が大切な婚約者は要らない。愛してる? もう興味ありません。

藍川みいな
恋愛
婚約者のカイン様は、婚約者の私よりも幼馴染みのクリスティ王女殿下ばかりを優先する。 何度も約束を破られ、彼と過ごせる時間は全くなかった。約束を破る理由はいつだって、「クリスティが……」だ。 同じ学園に通っているのに、私はまるで他人のよう。毎日毎日、二人の仲のいい姿を見せられ、苦しんでいることさえ彼は気付かない。 もうやめる。 カイン様との婚約は解消する。 でもなぜか、別れを告げたのに彼が付きまとってくる。 愛してる? 私はもう、あなたに興味はありません! 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 沢山の感想ありがとうございます。返信出来ず、申し訳ありません。

初耳なのですが…、本当ですか?

あおくん
恋愛
侯爵令嬢の次女として、父親の仕事を手伝ったり、邸の管理をしたりと忙しくしているアニーに公爵家から婚約の申し込みが来た! でも実際に公爵家に訪れると、異世界から来たという少女が婚約者の隣に立っていて…。

ある辺境伯の後悔

だましだまし
恋愛
妻セディナを愛する辺境伯ルブラン・レイナーラ。 父親似だが目元が妻によく似た長女と 目元は自分譲りだが母親似の長男。 愛する妻と妻の容姿を受け継いだ可愛い子供たちに囲まれ彼は誰よりも幸せだと思っていた。 愛しい妻が次女を産んで亡くなるまでは…。

処理中です...