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それぞれに懸命

15、千晶とわたし

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 飲んだり喋ったり。気づけば朝に近い。
 
 沖田さんはまだ暗いうちに帰って行った。それを見送り千晶と二人、わたしたちもぐっとまぶたが重くなる。
 
 そろそろ寝ようか、とグラスをキッチンに運ぶ。そのわたしにぽつんと彼女が声をかけた。
 
「しなかったの?」
 
「え?」
 
 意味が取れず、見返したわたしを千晶がちょっと笑って見ている。
 
「沖田さんと、だよ」
 
 やっと理解した。まさか、と首も手も振る。
 
「すればいいのに」
 
 とからかうのでもなく言う。
 
「しない、しない」
 
「真面目だね、雅姫は相変わらず。沖田さんもそんなとこあるし、似合いだね、あんたたちやっぱり」
 
「わたしは真面目なんかじゃないよ」
 
 あくびで返す。わたし程度で真面目なら、世界中がかっちこちの生真面目だらけになってしまう。
 
「…わたしは、したよ」
 
 は?
 
 目をやれば、彼女は食器棚のガラスを指でなぞっている。飲んでいる間中座し、シャワーを使った髪は、柔らかく少し湿っていた。動きにそれが少し揺れる。
 
 昔、彼女がまだ漫画家として駆け出しの頃、三枝さんの部屋で飲んだことがあったという。その場には沖田さんもいた。彼は昼の疲れか、先に酔って眠ってしまった。
 
「その傍で、した」
 
 へ?
 
 あまりの告白に、喉の奥が変な音を出した。旧バージョンの『サザエさん』のエンディングみたいな。
 
「沖田さん起きてたんだよ、途中から。目が合ったもん、一瞬。すぐ、寝たふりしてくれたけど。気まずかったろうね、同情するわ。ははは」
 
「はははって…。何で?! 好きなの? …そういうの」
 
 誰に聞かれることもないのに、最後は声が潜まった。千晶はくすっと笑って首を振る。
 
「でも、知られてもよかった。部下の前でイタシちゃって、さーさんの覚悟を決めさせたかったから。一度寝ただけじゃ、軽い浮気のまだつまみ食いの気分だったからね、あの人」
 
 ふうん、とも言えない。軽い相槌が出ないのだ。
 
 売り出してもらう、その目的のために彼女が取った手段は強引で恥知らずでもある。でも、随分と過去なのと千晶への甘さで、当たり前の批判が浮かばなかった。ただ、がむしゃらだったのだ、とその気持ちを思う。
 
「隠しとけばいいのに、誰にもわかんないよ、もう」
 
 小柄な彼女のほっそりとした肩を眺め、また甘さでそんなことを言う。わたしは千晶が好きなんだな、としみじみとする。自分で自分の恥部をほじくって、傷ついたり自虐なことをしないでほしい。
 
 誰にだって知られたくない、穴に埋めたい過去などあるものだ。過ぎた事。知らんふりで済ませばいい。どうして隠しておきたい本人が、往々にしてそれをさらしてしまうのだろう。
 
「いつか沖田さんから雅姫が聞いちゃう前に、言っときたかったの」
 
「あの人、忘れてるよ」
 
「雅姫だったら、忘れる?」
 
 あはは。
 
 忘れない。
 
 自分の言葉の白々しさに笑う。それでも首を振った。
 
「沖田さん、言わないよ」
 
「そうだね」と千晶は頷きつつ、「弾みもあるでしょ」。
 
「人づてに聞くのと、本人から打ち明けられるのじゃ、ニュアンスが違うだろうし…。まあ、ニュアンスがどうのでカバーできる内容じゃないと、自分でも思うよ。ははは」
 
 笑うしかないときもある。彼女につられるというより自発的に笑った。笑いで何かをやり過ごすのは、慣れている。とても楽だ。
 
 そんなもん見せられた沖田さんには、痛恨事でトラウマレベルかもしれないが、ご愁傷さまということで。あの人なら流して受け止めてくれる。また「ケースバイケースで」とかとぼけたことを言って。現にそうしてきたはずなのだ。
 
「後悔はしてないけど…」
 
 酔いの残滓で、長く続く笑いが収まりかけた頃、千晶が言った。
 
「売れるために身体張ったのも本当。さーさんに取り入ったのも本当。いつか知って、雅姫に軽蔑されたくないと思って…。十分どす黒いんだけどさ」
 
 三枝さんとの件を聞いたときは本当に衝撃だった。そして、今の告白にもたっぷり驚いている。でも、それを責めたいとも馬鹿にする気もわかない。長い友人へのひいき目も強い。
 
 批判諸々の代わり、以前、沖田さんが彼女を評して「ガッツがある」と言ったことがあるのを、つながるように思い出す。「お前とは違った意味で」が、前に付いたようにも思う。
 
 あのときは風俗ギリギリの怪しいバイトで小金を稼ぐわたしと、ストイックに漫画に精を出す彼女との、ちょっと意地の悪い比較だと思っていた。
 
 今反芻して、あの言葉は千晶のあれこれの来し方を知る彼だから出たものだったのだろうと、しっくりと胸に落ちた。
 
「ガッツ」がある。きっと意図もしないうちに選んだ言葉は、今頃に優しく響く。
 
 彼は何もかものみ込んだその上で、結果を出す彼女を認めていたのだろう。他人をこき下ろすことはとても易しいのに。身近な千晶への自然な優しさが、きゅんと心にしみた。彼は偉い、ちょっとだけ偉い。
 
 ほわっとした沖田さんの面影を感じて、胸がつんと熱くなる。場違いに、好きだな、と思う。
 
 ときめいた気分を抱えながら、千晶にもう一度言う。
 
「あの人、言わないよ。そんなこときっと」
 
「「寝物語」って緩むよ、男って。ヤッたあの後は、ダダもれじゃん」
 
 おかしな言葉を真面目な口調で言うからおかしい。あんないい作品を描く腕と可愛い見た目を裏切って、千晶という人は口にするのもやることも、他人より頭抜けている。いい意味でも悪い意味でもだ。
 
「ダダもれ」に苦笑しながら、だから彼女の最初の問い「しなかった?」に戻るのかな、と考える。探りを入れたり、言わずもがなのボロを出したり。気になるから隠そうと饒舌になるのかも。肌の目につくクマやシミを厚塗りで隠すように。
 
 十分に驚いたが軽蔑などはしていない、と伝えた。シンクのグラスにちょろちょろ水を張りながら、同人代稼ぎに半裸でやっていた馬鹿みたいなバイトのことを打ち明ける。
 
 キュッと蛇口を締めたときには、元パート先の社長の襲撃を受けた辺りに差しかかっていた。
 
「何で、その社長がいるの?」
 
「知らない。何か隙がありそうで、簡単な女に見えたんじゃないかな」
 
 そこに沖田さんが現れ、夫の振りをして助けてくれたことも話した。千晶は目を丸くしている。
 
 同じ恥部は恥部でもわたしのはネタみたいだ。喋っていて自分でも馬鹿みたい。千晶のようなエグさはないが、それでもたとえばダグにはとても知られたくない過去だ。あの人、絶対哀しそうな目をする!
 
「沖田さんそういうとこきめ細かいよね。あんなガサツな振りしてうちらにがみがみ言うくせに。マダム受けがいいのもそういうとこかな。おばさまにモテる男って出世すると思う、持論だけど。あ、枕営業抜きの話ね」
 
 わたしだって大差ないよ、のつもりで話したことだが、千晶は捉え方がずれている。「マダム受け」のくだりは、三枝さんの奥様のことかも。若い頃から随分と可愛がってもらった、と彼の言葉を思い出す。
 
 ふと、互いに黙った。
 
「楽しかったよね、昔」
 
 千晶の言葉に顔を上げた。あくびをしている。終わりにアヒルのようにちょっと口をとがらせた。よく見覚えのある彼女の表情だ。
 
「あんな楽しかったこと、ないよ」
 
「大きな賞を獲って、作品がアニメになったり映画になったり。大成功してる人が」
 
「こんなこと言うと、沖田さん辺りには生意気だの、いい気になるなだの、叱られるだろうけど。当たり前に思ってた。売れるのも稼ぐのも。計画の一部みたいに」
 
「へえ」
 
 素直に感心した。世の成功者はこういった感じなのかもしれない。ビジョンを鮮やかに持ち、確信し、努力でぐいっと手繰り寄せる…。千晶なら、と頷ける。
 
 わたしにはそこまで鮮明に展望が持てないし、またそれを維持も出来ない。努力すらも途中で投げ出しそうだ。
 
 そんなことを返せば、千晶は首を振る。
 
「だって、雅姫はそんなの興味なかったじゃない。お金もほどほどでいいし。その場その場楽しめたらOK、みたいなスタンスだったじゃない」
 
 そうだったかもしれない。彼女のようにそこに夢も将来も描いていなかったのだろう。
 
 でも今は、そんな刹那的であっさりした望みには贅肉のようにたっぷりと欲がついている。十分な収入も欲しいし、読者の気持ちに爪痕を残すような作品を生んでいきたい、それもできるだけ多くの人に。
 
「楽しかった。昔って毎日がきらきらしてた気がする…」
 
 嘆息のようなあくびの後で、また千晶は言う。
 
 楽しかった同人時代。そこが描くことを選んだわたしたちの原点みたいなもの。何でも持って見える彼女は、懐かしんで振り返る。そこにあったもので、今ないものをやや切ながるように。
 
 わたしは、
 
 懐かしみながらもそこにあった自分のかけらを拾い始めている。幼さや自堕落さにまみれた、でもいきいきとした描く力だ。必要に応じて忘れ物を取りに帰るように。
 
 わたしにはまだ、彼女のように単純に昔を懐かしんで楽しむ余裕を自分に許せないでいる。そして、まだそうしたくないのだ。
 
「…戻れたとしたら?」
 
 わたしもあくび交じりに聞いた。「同じことを考えて、きっとおんなじことするだろうな…」と返る。
 
「一回やってる分、もっと狡くなってたりして」
 
 彼女の答えは予想通りで、それにちょっと笑う。
 
 自分の言葉そのまま、彼女には自分の選んだものに後悔などない。そこにほっとし、とことん馬鹿をやっても、それを「もう一度」と言える彼女のプライドを真に羨んでみた。
 
 おやすみを言い合い、床に就いた。
 
 総司の隣りに横になりながら、すぐに眠りに落ちそうな頭でちょっと思う。もし、千晶の言う「きらきらした」過去に帰れたとしたら、わたしなら…、
 
 夫を選ぶことはきっとない。一度した痛い失敗を「もう一度」やり直す勇気も自信も、ない。
 
 わかるのは、最初から沖田さんを別の目で見直すだろうこと。若くて、ときどき優しくて、さりげなくわたしをいたわってくれた彼を。けれども、気持ちが恋に育つのかわからない。
 
 仮に、そこで彼と恋が始まったとして、またそれを上手く続かせることは出来ないだろう、とも思う。自分にも当時の彼にも足りないものをあげつらい、あれこれと欲張りそうだ。頭だけ経験値を積んだって、きっと駄目。
 
 だから、
 
 遠回りしたって、
 
 あのとき、想像もしなかった苦い思いを知っていても。
 
 今でいいのだ。
 
 今がいい。
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