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それぞれに懸命

6、優しい声

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 専業同人を始めて、一番嬉しいのが、時間が自由になることだった。
 
 自分のペースで原稿を進められ、合間合間に息抜きのように家の事が出来る。総司へも目が届くように気をつけていられる。
 
 以前パートを辞めたときも気分がひどく楽になり、時間が倍にも増えたような錯覚をした。夫もいない今では、これまで自分は半目をつむって生きてきたのかと思えるほどに、手にした時間の豊富さに気づく。
 
 何をして、これを済ませて。あ、あれもしよう。それから、あれもしたい…。どれも、ほんの些細なことばかりだ。なのに、そんなことらが心に浮かぶゆとりが嬉しい。
 
 デメリットもきっと多い。けれどもこんな気持ちの余裕を得られたことは、最大のメリットだった。
 
 わたしとは立場も違うが、千晶も似たようなことを思うのだろうか。長く関わった三枝さんと別れて、一人の時間が増えた。新しい仕事、やるべきこともある。
 
 彼女は、どうだろう。
 
 
 晩にいろはちゃんから電話があった。声で話すのは久しぶりだ。
 
『雅姫さん!』と言う彼女の声に、否が応でも沖田さんの顔が引っ張り出されてくる。他愛のない会話に、緊張してしまう。
 
『真壁先生と、コラボなんですよね?! ○×社の告知ポスター見てびっくりしました!!』
 
「ああ、うん…」
 
 いろはちゃんが言うのは、千晶が新たに始めた季刊誌のことだ。創刊号では同人時代の『ガーベラ』についてもページを割く予定になっている。そのミニ特集ページにわたしが少しお邪魔する、といった程度のもの(まだ描いてないけど)。コラボ、とかそういった大げさなレベルではない。
 
『あの告知だけで、長い『ガーベラ』ファンの皆さんは、相当興奮してるようですよ!! 往時を知らないわたしですら、わくわくしてきますもん! あのハズレなしの天才と隠れていた気鋭の鬼才との融合なんですから』
 
 隠れていた…?
 
 相変らずの派手なリアクションに、恥ずかしいようなくすぐったいような。堪らず、沖田さんから聞いたことを口にする。
 
「ははは…。そうそう、いろはちゃん、今、商業誌にBLのコラムページ担当してるんだってね、すごいね。いろはちゃんなら、ぴったりだよ。的確ないいコラムが書け…」
 
『駄目です! わたしの仕事の話はいけません!』
 
「え?」
 
『雅姫さんとはそっちのお話はできません。作家さんとの個人的なおつき合いの影響を、コラムに持ち込むのはタブーですから。慣れ合いや癒着はどうしても行間に出てしまいます。…誰知らずとも、記載者側で控えるルールを設けました』
 
 と、やや厳粛な声で告げる。返事のしように困り、気の抜けた声を出した。
 
「はあ…、そう、なんだ」
 
 彼女なりの気合を入れて頑張っているのは、十分に伝わる。
 
 こういった人が機会に恵まれ、会社員からいつしか文筆の仕事に転向していくんだろうなあ、とぼんやり思う。やる気や夢みたいなものが、ふっくらと心に準備された人のもとにチャンスはやって来る。そこでチャンスは育つ。
 
 昔の千晶もそうだった。
 
 わたしは、ないなあ。
 
 上っ面では不安や迷いに揺れる。でも深い根っこでの部分で、夢や希望ではない「ま、何とかなるか」といったいい加減な甘えが横たわるだけだ。きっと、ふてぶてしいのだろう。
 
 いろはちゃんは話題を変え、彼女の家の部屋のカーテンについて話し出した。
 
『自分の部屋の替えに買った、ハトがゆらゆら並んでるプリントのがあるんです。ブルーとグリーンのハトです。ぽっぽですよ!』
 
「ぽっぽ?」
 
『そう。もし、雅姫さんがよかったら、空いた部屋に掛けてもいいですか?』
 
 勝手にどこにでも掛ければいいのに。何でこんなことをわたしに訊くのか、訳がわからない。
 
『優しいけど色も甘すぎないし、男の子にもぴったりな雰囲気だと思って…』
 
 そこで、総司のためを考えて言ってくれていることに、やっと気づいた。わたしが離婚後一緒に彼の家に住むことは、妹のいろはちゃんへも了解済みと言っていたのだ。
 
 それでか!
 
 わたしと総司への心遣いだ。好きに振る舞える自分の家であるのに、こんなささやかなことで他人のわたしの意見を聞いてくれる…。
 
 胸がちくんと痛くなった。
 
 とりあえず、礼を言う。
 
「ありがとう。気を使ってもらって、ごめんね。いろはちゃんの好きにしてくれていいから、本当に」
 
 彼との間では、まだ離婚後の住まいのことはあれ以上の話の進展はなかった。総司のことで、やや気持ちがすくんでしまっていた。うきうきと彼との新生活を描ける気分にはなれなかった。
 
 こちらの気持ちがどうであれ、ずるずると今を引きずっていい訳がない。沖田さんとその妹までを巻き込んでしまっている。
 
 いろはちゃんからの電話に、目の前でぱんと手を打たれたようにはっとなった。
 
 明日明後日にも、わたしは夫の実家へ足を向ける予定でいる。逃げられてはかなわないから、事前連絡などしないつもりだ。離婚届も、実は記入済みでもある…。
 
…のようなことを告げ、
 
「だらだらして申し訳ないけど、もう少しだけ待って下さい。実は、無料相談の弁護士さんに相談もしてるの。無断での長期の外泊は、家庭の崩壊につながる夫側の有責ということで、子供の親権も争えず、すんなりいきそうだって…」
 
 彼女へのお詫びの気持ちもあって、焦ったせかせかした口調になってしまう。でも、今の状態を真面目に伝えたつもりだった。
 
 ちょっと間を置き、いろはちゃんは「あの…」とおずおずと、
 
『それは、わたしではなく、兄貴に言ってもらえると、ありがたいです』

 と返す。
 
「あ、…そうだね。ごめん」
 
 確かに、込み入ったことをぺらぺらまくし立てられても、当事者にない彼女には迷惑だ。知る権利はあろうが、こんな離婚のごたごたを知らされる義務もないはず。
 
『このところ、ちょっと落ち込んでいるようなんで』
 
「え」
  
 どきりとした。何かあったの? と問う前に、へへと笑いを含んだ彼女の声が返る。
 
『雅姫さんからもっと連絡がほしいみたいですよ。いい年してしょぼんとしてて…。はは、お恥ずかしい。…状況もあるだろうし、それに雅姫さんにはお子さんがいるから、そちらがまず優先だって言い聞かせても、うるさい、しか返さないし』
 
 笑い話めいた口調ながら、わたしの様子をちょっと探りたい目的は感じられる。妹なら当たり前だろう。よりによって、兄の相手は子持ちの主婦だ。
 
 カーテンの心配りは事実でも、こういった問題に触れるいい口実としたのではないか。進展のない兄の恋愛に今まで黙っていてくれた彼女が、やんわり焦れ出したのがうかがえる。
 
 返事のしようがなく、ちょっとの間の後で、やっぱり「ごめんね」と返した。
 
『そんな、謝ってもらうようなことじゃ…。わたしの方こそお邪魔虫で嫌らしいですね、ごめんなさい』
 
「ううん…」
 
 あのね、と前置きし、この間、総司が夫の実家に電話をかけたことを打ち明けた。沖田さんに言わずにその妹の彼女に告げるのは、弁解の意味もある。けれど、もやもやとしたものを誰かに聞いてもらいたい気持ちもあった。
 
 若いいろはちゃんには面倒な話だと、喋っている途中から後悔した。
 
『そう、なんですか…』
 
「ごめん、また重い話して。沖田さんにも言わないでほしいな」
 
『雅姫さんがそう思うのなら…。でも、兄貴は知るべきだと思います。そういう段階から関わった方が、のちのち総司君の信頼にもつながるだろうし…』
 
「そうかな…」
 
『あんな兄貴でも、オッサンと言っていい年まで生き抜いてきたから、それなりに成人男性の知恵はあるんじゃないかな…。雅姫さんが一人で抱えるより、気も楽ですよ、きっと』
 
 貶しつつもお兄さんへの信頼がにじむ。沖田さんは長く彼女にいい兄を務めてきたのだと、しみじみ思った。
 
「うん、…そうだね」
 
『へへ、不足は隠しません。でも、総司君には味方ですから、兄もわたしも。そういうスタンスさえ確かなら、小さいお子さんにきっと伝わると思います。本能でわかるんじゃないかな。…すいません、偉そうに』
 
 さらりとした口調だった。なのに、その響きはずんと重く胸に届いた。返事の言葉に詰まる。嬉しかった。単純にありがたいと思った。
 
 鼻の奥がつんと込み上げるもので熱くなる。
 
「…ありがとう」
 
『いつでも、兄貴に連絡してやって下さい。何でも持ち込んでくれた方が、絶対嬉しがるから、お願いします』
 
「うん…、そうする。ありがとう」
 
 電話を切った後も、しばらくぼんやりと余韻が残った。肩の力が抜けたような、心のこわばりが解けたような。そんな心地がする。味方だよ、と教えられることは、こんなにも気持ちが楽にしてくれる…。
 
 孤軍奮闘なんて、すごいことやっていたつもりはないが、それでも自分でしょい込んで、テンパッて、いらいらきりきりしていたのがわかる。あっぷあっぷして限界が近いと、気づかぬうち音を上げていたのだろう。
 
 わたしという女は、何でも一人で乗り越え進んでいける、ツメの強さがないのかもしれない。誰かに言われたように、たとえば困難の何合目かで適当なところで逃げを打つ…。そんな自分を易く想像できる。
 
 それを認めるふてぶてしさも持ち、そして、身近な決して敵わない誰かと比べることで、劣等感を抱いてもいる…。
 
 いろはちゃんのメッセージは、そんな心をゆるりとほぐし、ふっと風が通るように軽くさせてくれた。
 
 今の自分でやっていくしかない。居直らないで、少しずつ変わりながら。
 
 それでよしとしよう。
 
 気分が上向きになったところで、原稿に向かう。夫が家を出てから、イベントに足を運び参加することは難しく、控えていた。最近は専らオンライン上での通販だ。声をかけてもらえれば、桃家さんや咲耶さんにイベントで委託させてもらうこともあった。
 
 コーヒーを片手に作業中、インターフォンが鳴った。カップを置き応対に出る。宅配便のようだ。実家がまた野菜など送ってくれたのだと思い、ドアを開けた。
 
 両手で抱えきれないほどの大きさの段ボールだった。いつもの『有田みかん』『高原キャベツ』などの再利用の箱ではない。真新しい無地の箱にふと違和感があった。受け取りにハンコを押す際、荷札を確認した。
 
『○◎コーポレーション』、大阪某所…。宛名は夫になっている。
 
 何が入っているのだろう、そこそこ重い。夫の荷物なので開けるのをためらい、リビングの隅に運んだ。
 
 この箱の件で夫の実家へ電話をかけようとしたが、明後日にも出かけるつもりだった。その際でいいやと思い直す。急ぐ物なら夫から何か言ってくるはずだ。なるべく姑とはもう話したくない。
 
 視界から段ボールが消えれば、自然、その箱の存在を忘れた。
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