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それぞれに懸命

4、甘え

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「パパは?」
 
 そんな総司の声への返事は決まっていた。「お仕事で、しばらく帰れないの」子供の目を見ていない自分に、わずかな居心地の悪さを思いながら、口にする。
 
「…いつ帰れるかわか、らないんだって」
 
「ふうん」
 
 納得いったのか、そうでないのか。
 
 何度目かの問いには「どこへ?」「どうして?」といった声はもうなかった。子供なりに我が家の雰囲気が、どこかおかしな方へ流れ出したのを感じてもいるのかもしれない。
 
 わたしの答えに真実はないと、悟ってしまっているのではないか、とも思う。
 
 小さな心を波立たせていることに罪悪感を覚えつつ、一方で、父親の不在を更に探られないことに、やはりほっとしている。
 
 自分本位をわかってはいたが、ちゃんと向き合うには、総司が幼過ぎ、わたし自身にも余裕がなかった。次の同人イベントの原稿と千晶の口利きで得た仕事の件で、手がいっぱいだった。
 
 今の生活から次の暮らしへ移行するための覚悟のようなもので、がちがちと気持ちがこわばっていた。家庭に夫の存在がないことなど、どれほどの重さもなかった。却って、仕事がはかどり、身軽さに心地よさすら感じていたくらいで。
 
 そんな頃、沖田さんが出張土産にと総司にTシャツをくれた。有名メーカーの地域限定『ご当地Tシャツ』だ。可愛いが、ごくシンプルなそれの、「どこが『ご当地』?」と、不思議だった。
 
 よく見れば、袖に付いたタグにたこ焼きの刺繍が入っていた。
 
「お前のは、明石焼き。すまん、大人の大阪は売り切れだった」
 
 わたしにくれたのには袖のタグのまんまるが、微妙に総司のと違っていた。微妙に。面白いから、と妹のいろはちゃんにも買ったらしい。彼女の分は、『どすえ』と入っているとか。
 
「結構、売れてる。次行ったら、奈良のバンビと滋賀の赤こんにゃくを買ってきてやる」
 
 などと面白そう。なぜ、滋賀県が知名度ピカ一の琵琶湖ではなく、赤こんにゃくなのかが引っかかる。ま、いいけど。
 
 小さなことに楽しみを見つけられる人柄をまた知り、接するこっちが、ほのぼのとした気分になれた。
 
 その彼へ、先日千晶の家で三枝さんに会ったことを軽く話しておく。それは、昼間出向いたカフェでのことで、話に、カップを口へ運ぶ彼の手が止まった。
 
 千晶には『どうしてる~?』程度のメッセージでしか、その後の確認をしていない。彼女は既に動き始めている次の新しい仕事へ、すっかり気持ちを向けているようだった。
 
「何かあったんだろうな、とは思ってたけど…。あの人最近とっつき難くくてな。そうか…」
 
 気が置けない沖田さんの前では、露骨に機嫌が悪くなるという。自分に非のある私生活のごたごたを部下にさらしっ放しというのも、随分とおとなげがない。まだまだ千晶に未練たっぷりなのは、あの場の様子でも見てとれたが。
 
「奥さん安定したらしくて、退院して、今静養してるんだ」
 
 テーブルのコーヒーシュガーをちょっといじりながら、彼がつないだ。緊急入院していたと聞いた、三枝さんの奥さんのことだ。
 
 病院にも顔を出し、退院後に家も訪ねた。そのとき、家の様子がらりと変わって驚いたらしい。何気なく、彼がその時の写真を見せてくれた。奥さんの友人がちょっとしたインフルエンサーであるらしい。

「へえ。賑やかでいいね。お部屋も素敵だし」
 
「入院中に指示して、リフォームさせたんだってさ。自分の身体が動きやすいのと気分転換だろう。優雅な奥さん方がいて、サロンみたいな雰囲気だった。…あの家じゃ、あの人の居場所がない。まあ、元々が入り婿のようなもんだったけど」
 
 本人は現在ホテル住まいだという。
 
 すんごい権勢家の出自の奥さんだったはず。いわゆる、逆玉の輿なのだろう。彼の話に、ふうんと相槌を打ちながら、それらに、三枝さんが千晶の存在を求める理由がのぞくような気がした。
 
 欠けるところがないような環境にも、何がしかの不満の種はまかれているのかもしれない。それらが、ふつふつと芽を出し育つ様を思い描くのは、容易い。
 
 それでも大人の自分が選んだ場所だ。取り巻く状況にストレスを感じても、その種が芽吹くための水や土壌を用意したのはきっと自分自身…。先日、千晶の家でダグが三枝さんに似たようなことを言っていたのを、ふっと思い出す。
 
 彼は、自分の中にこそすべての答えがある、とも言っていた。それがわからず見つからないで、いらいらぐちぐちするのに。
 
 何かの理不尽に、気が腐っても、ただ恨んでばかりいてはいけない。立ち止まったままでは、茂るストレスにのまれ、埋もれてしまう…、そういった意味なのかもしれない。
 
「さばさばと笑ってたな。ぐずぐずしているのがもったいない、お互い好きにすればいい、そんな心境になったんだって」
 
「ふうん、強い人だね」
 
 家族に傍にいてほしいはずの病気のときに、これまでの来し方を見直すことが出来る。気持ちの強い人なのだろう。
 
 千晶との関係も壊れ、三枝さんは家に帰るのか。そう問うと沖田さんは首を振った。

「多分、帰らないな。今更過ぎて、で本人もバツが悪いだろうし。お子さんも成人してるから…。何より千晶に未練たらたらだ」
 
 なら、きっともう夫婦の形をした他人だ。互いに別の方向を向きながら自由に暮らし、助け合うこともないのなら、夫婦である必要もない。どちらかに続けていく意思がない限り…。
 
 関係のない三枝さんの家庭を垣間見たことで、自然、自分自身の状況が頭をよぎる。夫の姿が家から消え、どれほど過ぎただろう。
 
 それぞれの存在に意識が向かないわたしたちもまた、もう夫婦ではない。
 
 ちょっとぼんやりとそんなことを思っていると、沖田さんが千晶の話題を振ってきた。彼らのところとは別の出版社から出す新しい形の本だ。三枝さんからの愚痴に加え、本人からも聞いたとか。
 
「契約が切れたらあいつの自由だし。好きにやったらいいよ」
 
「へえ、理解があるね。育ての親なのに」
 
 あんなおかしいの育ててねえよ、と笑う。
 
「まあ、俺は直接関係ない。編集の人間は慌てて、何とかならないかって、こっちに泣きついて来るから弱ったけど。大体、俺の言うことなんか、聞く訳ないだろ、あの大先生が。恩知らずなことはしないってことで手打ちだよ」
 
「ははは。あ、千晶から、仕事もらっちゃった。大学の先生が出す本の挿絵」
 
「ふうん」
 
 彼はそう受け、両の指で目を抑えてからちょっと笑った。
 
「お前らは強いよな。何だかんだ好きなことで、食ってるんだから。昔は、次の飯のことしか頭にないノーテンキで、どうしようもなかったのに」
 
「今も変わらないよ。次のメシの種ばっかり。意味は違うけどね、ははは」
 
 沖田さんはそこでカップを指でちょんと弾き、いろはちゃんの近況を口にした。彼女が某BL情報誌に、人気ご意見ブロガーとして同人のコラムのページを持つことになったというのだ。
 
 単純に驚いた。けれども、そういったポジションに彼女ほどぴったりな人材もいないはず。
 
「この間もメッセージもらったけど、そんなこと全然言ってなかったなあ」
 
「「私的なつき合いは、コラムに持ち込まない。持ち込めない」んだってさ。「読者の目線は常に公平なBLレビューに向いている」から、そこのとこの「線引きの悲劇」があるから、自分としても辛いところなんだって」
 
 はあ…。そうっすか。
 
 しかし、姿勢は正しい。彼女のブログが大勢の人に支持されるのも、そういった記事への真面目さもきっとあるのだろう。

「すごいね、いろはちゃん。商業誌でBLのコーナー持っちゃうなんて、いやあ、大したもんだ」
 
「本人も、まんざらじゃないみたいで、やる気出してるよ」
 
 素人のBL描きとしても、そういったコラムを書くのが、同人好き・BL好きな人であるのは、素直に嬉しい。どこかのプロがほんの触りでつかんでしまえるジャンルではないだろうから。
 
「BLって、俺が同人誌に関わってた頃から根強くあったけど、いまだに衰えないな。流行り廃りもあるだろうに、必ず次の世代があの風土を受け継いでいくんだから。日本の気候に合ってるんだろうな」
 
「気候? 何で?」
 
「四季があって多湿だろ。発酵食品も豊富だし、娯楽にも腐ったものが発展しやすいんじゃないか?」
 
 BLが、味噌や納豆の仲間だと言いたいのか。
 
 おかしくなって返した。
 
「ヨーロッパにだってヨーグルトとかワインとか、そういったものあるよ」
 
「まず、モノに粘度が足りない。それぞれが単品として完結してしまってる気もする。BLにつながる菌床にはならないと思う」
 
 何が、菌床だ。
 
「あれだ、昔、忍者が保存食にしてそうな食いもん」
 
 忍者…。
 
 どこまで本気なのか。さすがに笑いを含んだ声に、こっちも笑って返す。
 
 コーヒーを口に含んだとき、彼がわたしの手の甲にコーヒーシュガーをぽんと放った。
  
 彼の忍者の言葉から、次作のモチーフが頭にわきそうになっていたのだ。忍者モノか…、イメージが広がりそうで、描いてみたくなる。
 
「いつまで同人やるんだ? 趣味なら構わないけど」
 
「え」
 
 安定しない専業同人の暮らしを突かれたのだと思った。
 
 今は昔と違って、ネット販売も充実しているし、必ずしもイベントに出なくてもいい。お金は第一。けれども、わたしにとって描くことは、稼ぐことと「好き」が一体になっている。
 
 足りない収入を何かで補うことはあるだろう(バススタッフとは言わないけど…。どこかでパートとか。やっぱりバススタッフは、今更やばいだろう)。そうであっても、描くこと。そして、それで対価を得ることをどうしても続けていきたいのだ。
 
 だから、沖田さんの言う趣味とはちょっと違う。
 
 随分前、わたしはこの人に「やる気があるのか?」「お前の舐めた態度は誌面に出るぞ」…、幾つも小言をもらったものだ。当時の気持ちはしっかり覚えていないが、浮ついて自覚など何もなかったのは、わかる。彼が叱ったのだから、そのままの有り様だったはず。
 
 同じ人を前に、こんな今頃顔を出しつつある(セミ)プロ願望に照れながら気持ちを伝える。
 
「気持ちが枯れるまで。BLもかじったばっかりだし。いつか、いろはちゃんのコラムに拾ってもらえるのが目標。へへ…。パートなりして不足は補う気持ちもあるから」
 
「パートって、お前、まさか…、例の?!」
 
「え? バススタッフ? あれ、実入りがいいんだよね。年齢もうるさくないし。え? もうしないよ、そんな目で見なくても。ははは」
 
 牽制なのか、随分長くにらむ。
 
 信用無いなあ、ま、しょうがないか。
 
 いきなり、沖田さんがテーブルの上に置いたわたしの手を取った。指先を軽く握る。
 
「…頑張らなくてもいい。これからは俺に任せろよ」
 
 その声が嬉しいのに。
 
 気持ちが優しいのに。
 
 変に照れてどぎまぎと。うつむいてうんと返しただけだ。
 
「な?」
 
 念押しのようにぎゅっと握られた指。その彼の手にせめて片方の指を重ねる。
 
「ありがとう」
 
 そのとき、触れ合った手の甲にばちっと熱いしぶきがかかるから驚いた。手を引っ込め、ぎょっとして顔を上げる。と、テーブルの横に店員の男性がコーヒーポットを持っていた。お替りのサービスに回っているようだ。
 
「こっちはもういいです」
 
 沖田さんがカップを脇にさっとどかした。
 
 親切とはいえ、熱いコーヒーをばちばち手に浴びるのは堪らない。客の意向も問わない、慣れない人みたいだし。
 
「わ」
 
 彼が退けたカップのあった場所に、更にどくどくとコーヒーが湯気を上げて注がれる。テーブルに置いた手が直接コーヒーにぬれた。びっくりして彼もわたしも両手をテーブルから浮かす。
 
「もうここはいいです」
 
 あきれた声で、彼が再び男性を制した。
 
 紙ナフキンでテーブルを拭き、床を見ると下もぬれている。軽くポットの半分はこぼしてしまったんじゃないだろうか。
 
 大丈夫かな、この人。
 
 ちらりと男性に目をやるのと、あっちがわたしを見る目が偶然ぶつかった。にらむような怖い目だ。
 
「店内は公序良俗において、いちゃつき禁止となっております」
 
は?!
 
「ちょっと、あなた…」
 
 沖田さんが、男性へ何か言いかけた。
 
 わたしはさっきの声が引っかかり、男性を二度見した。また目が合う。そのとき、記憶の中のかけらとかけらが、気持ちいいほどにぴたりとくっついた。
 
 社長だよ。この人。
 
 以前パートしていた、スーパーの社長だ。
 
 なぜここに?!
 
 沖田さんの注意を引こうと彼の手を叩いた。「何?」と、こっちを向く。
 
 わたしは声にせず唇だけで「社長」と言った。
 
「何?」
 
 繰り返し「社長」と早口で。
 
 そこへ、別な店員がやって来る。カウンター辺りから、こっちの怪しい雰囲気が伝わったようだ。

 かっちりとスーツを着こなした女性が膝を曲げて屈み、まず丁寧な詫びを言う。その横で男性はポットを持ったまま、偉そうにぽけっとしている。
 
「我があたらしやコーポレーションでは、店舗視察を兼ねた、社長によるバリスタの体験中でございまして」
 
 バリスタ体験にふき出しそうになる。社長によるバリスタ体験が、この会社にとって何の益になるのだろう。店舗視察はおまけだし。
 
「お召し物に、ご迷惑はございませんでしたでしょうか?」
 
 社長の代わりに膝をついてまで詫びる女性に、ちらりと覚えがあった。パートで、一度見学に行かされた際、あの社内にいたような気がする。
 
 女性に促され、投げるように「ごめんね~」とコーヒーチケット無料券を数枚社長が寄越した。

 思わずもらおうと手が伸びた。しかし立ち上がった沖田さんが、先にわたしの手をつかんだ。
 
「出るぞ」
 
 無料券に後ろ髪を引かれつつ、彼について店を出た。
 
 駅まで並んで歩く。まだ早い午後で、人の通りも時間のせいかどこかのんびりと見える。
 
「いろんなことやってんだね、あの社長。やり手だね。スーパーだけかと思った」
 
「知らねえよ」
 
 沖田さんはむっつりと返す。先ほどのコーヒー攻撃がよほど腹立たしいのだろう。確かにあの絡み方は、大人ではあり得ない。
 
 あれで、バリスタ…。
 
「何、へらへら笑ってんだ?」
 
 込み上げる思い出し笑いに緩んだ頬を、ぎゅっと彼の指がつまんだ。指はすぐに離れた。
 
「あの感じだと、まだお前に未練たっぷりだぞ」
 
「は?」
 
「だから、あのシャチョーだよ。住所も知られてるんだ。何を企むか、知れたもんじゃないぞ」
 
「まさか…」
 
「さっきのアレも「まさか」の行為だろ。放って寄越したタダ券でチャラか、あれが?」
 
 沖田さんの言葉はわたしの背中をうっすら冷たくなぜた。確かに、イロイロあった人だ。印象は果てしなく濃い。
 
 思い返すわたしの耳に、彼が言い捨てる「何が「ごめんね~」だ」が入り、やっぱり笑ってしまう。
 
「離婚、急げないのか?」
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